ぼくはよく名前を間違えられる。読みも漢字も。柳原孝敦(やなぎはら たかあつ)なのだが、柳原考敦になっていたり柳原孝教(やなぎはら たかのり?)になっていたり、これらの誤字のバランスの悪さったらないが、そうした感覚に勝るだけの習慣の力が愚かどもをして間違わしめているのだろう。
ま、そんな間違いをする人は取り合わなければいい。口頭で間違える程度なら気にもならない。正式な場で間違えた漢字を書いて放置しているような者は鼻で笑っていればいい。
が、……
どういうわけか、こうした間違いは伝播する。伝染する。感染する。ぼくがかかわった人たちまで名前を間違えられたりするのだ。
もう10年以上も前、カルペンティエール『春の祭典』を出したときには、どこかのサイトで著者名がアレホ・カルホンティエールだったかなんだか、そんな風に誤記されていた。
で、最近、こんなのを見つけた。近々出すはずの翻訳小説。セサル・アイラ『わたしの物語』(7月27日刊行予定となっている)なのだが、これがサル・アイラなる人物の著書になっているのだ。
サル・アイラ……
いちおう、人間なんだけどな、原作者は。(追記:書いてみるもので、どうやら先のリンク先のサイトでは表記が正されている。良かった良かった。7月2日確認)
2012年6月27日水曜日
幸先良し

一方、次の翻訳は、同じくアマゾンでもう予約開始している。セサル・アイラ『わたしの物語』(松籟社)
これの一部を授業で紹介したところ、興味を持ってくれた学生が幾人か。こいつは幸先が良い。
で、今日はAlberto Fuguet, Missing (una investigación) (Madrid, Santillana, 2009)を紹介しようとして、その手前で時間を食い、本題に入れなかった次第。
フゲーはMcOndoという本を編纂して反マジックリアリズムののろしをあげたチリ人作家。おじのカルロス・フゲが合衆国で行方不明になり、それを探す物語は、タイトルから察せられるように、73年のクーデタ以後の行方不明者の物語への反応。なかなか面白いと思うな、ぼくは。
このカバー写真がいい。この人フゲではない。
2012年6月17日日曜日
涙もろくなっちまったなあ……
亡くなった福井千春さんのお別れ会が、昨日、中央大学であったので、行ってきた。素敵な写真が飾られていて、いろいろな立場からの挨拶があった。
御母堂がお元気で、気丈に挨拶されたのが胸を打った。
50歳も近づいてすっかり涙腺の緩くなったぼくは泣きそうだったな。
終わって友人たちと献杯した。
御母堂がお元気で、気丈に挨拶されたのが胸を打った。
50歳も近づいてすっかり涙腺の緩くなったぼくは泣きそうだったな。
終わって友人たちと献杯した。
2012年6月16日土曜日
雨の日には本を読もう

リュドミラ・ウリツカヤ『女が嘘をつくとき』沼野恭子訳、新潮社
都甲幸治『21世紀の世界文学30冊を読む』新潮社
山口裕之『映画に学ぶドイツ語:台詞のある風景』東洋書店
ウリツカヤは短編集。「序」の書き出しから一気に引き込まれる。
女のたわいない嘘と男の大がかりな虚言とを同列に並べて考えること、はたしてできるだろうか。男たちは太古の昔から謀めいた建設的な嘘をついてきた。カインの言葉がそのいい例だろう。ところが女たちのつく嘘ときたら、何の意味もないどころえ、何の得にさえならない。(5)
で、次の段落から、オデュセウスとペネロペの対照を持ち出すのだ! この展開がすごいじゃないか。さすがはウリツカヤ。
既に『ソーネチカ』を訳している沼野さんの手腕にうなったのは、ひとつめの短編「ディアナ」もだいぶ冒頭近い一文、「二週間目に入ったある日の昼どき、家の前にタクシーが止まり、中から人がわさわさと降りてきた」(13)。「わさわさ」だ。参った。ぼくがこれまで使い得なかった副詞だ。こういうのを見ると、唸ってしまうのだな。
都甲さんの著書は、基本的には『新潮』に連載の、未訳(掲載当時)の小説を紹介するコーナーをまとめたもの。これに書き下ろしのコラムとジュノ・ディアスの短編「ブラの信条(プリンシプル)」(カッコ内はルビ)を『オスカー・ワオ』のときの共訳者・久保尚美とまたも共訳で訳したものを加えている。連載時、ボラーニョの『アメリカのナチ文学』を紹介した回などはどこかでぼくも反応したと思う。
これもまだ途中だが、ともかく、ディアスの短編は目玉のひとつ。これが面白い。ラファというプレイボーイで乱暴で、ガン患者の兄を、マリファナ漬けの高校生の弟ユニオールが回想するという形式。ブラという名前のインド系プエルトリコ人と結婚して家を出て、戻ってくるまでの話が中心だ。
ディアス自身が、去年来日の際に、兄はプレイボーイで自分は冴えない弟だったというような回想をしていたけれども、そうした自身の家族のあり方から想像力をふくらませて書いた短編だろう。むせ返るような合衆国ラティーノ家庭の雰囲気が伝わってくる。
山口さんの著書はぼくの『映画に学ぶスペイン語』に続くこのシリーズ第4弾(だと思う)。東洋書店のサイトによると、「日独交流150周年記念刊行」なのだそうだ。スペイン語と違うところは、ひとつの映画につき2箇所のセリフを解説しており、したがって一本についてのページ数も4ページでなく6ページと増えているところ。名作揃いの30本。うーむ。どのページを読んでも、ぼくなどより落ち着いた解説がなされているように思える。勉強になる。
2012年6月10日日曜日
篠突く雨
日曜の朝、電話が鳴った。
母だった。
「こっちは雨だ。大雨だ」
沖縄・奄美地方が梅雨入りだと報じられたのはもうずいぶん前のことだ。そりゃあ、雨も降るだろう。大雨の降る日もあるだろう。が、母上、変なことを言い出した。
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。森の狼が腹を空かせ、ふたりを食べにやって来ました。家の外から中の様子をうかがう狼に、おじあいさんとおばあさんの会話が聞こえてきました。
ばあさんや、世の中に〈降る〉と〈漏る〉ほど怖いものはないな。
ああ、おじいさん、本当にそうですねえ……
それを聞いた狼は、おじいさんとおばあさんが自分のことを恐れていないと知り、すごすごと帰っていきました。
……
なんだろう、この昔話? 知らないな。それとも母が即興で考え出したのか? 最近、雨漏りが激しくて家の屋根を張り替え、その代金を全額出した息子に対する屈折した感謝の表現なのか? それでせっかくできたわずかばかりの蓄えがなくなってしまったその次男坊への慰めの物語なのか?
うーむ。わが母がこんな語り部であったとは、知らなかった……
母だった。
「こっちは雨だ。大雨だ」
沖縄・奄美地方が梅雨入りだと報じられたのはもうずいぶん前のことだ。そりゃあ、雨も降るだろう。大雨の降る日もあるだろう。が、母上、変なことを言い出した。
昔々、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。森の狼が腹を空かせ、ふたりを食べにやって来ました。家の外から中の様子をうかがう狼に、おじあいさんとおばあさんの会話が聞こえてきました。
ばあさんや、世の中に〈降る〉と〈漏る〉ほど怖いものはないな。
ああ、おじいさん、本当にそうですねえ……
それを聞いた狼は、おじいさんとおばあさんが自分のことを恐れていないと知り、すごすごと帰っていきました。
……
なんだろう、この昔話? 知らないな。それとも母が即興で考え出したのか? 最近、雨漏りが激しくて家の屋根を張り替え、その代金を全額出した息子に対する屈折した感謝の表現なのか? それでせっかくできたわずかばかりの蓄えがなくなってしまったその次男坊への慰めの物語なのか?
うーむ。わが母がこんな語り部であったとは、知らなかった……
南へ北へ
日が改まってしまったので昨日である今日、マチネーで劇を観た。
構成・演出 長塚圭史『南部高速道路』@シアタートラム
名前からわかるとおり、フリオ・コルターサルの短編の翻案だ。高速道路で渋滞にはまり、そのまま日が流れてそこに一種の共同体ができる、という不条理状況劇。原作はフランスが舞台だが、週末を田舎で過ごし、東京に戻ろうとしていた10組13人(+子供がひとり)の物語に翻案している。
傘をうまく使って立ち往生する車を表していた。複数の声を同時に響かせる作りがいい。真木よう子が思いのほか低くよく響く声で心地よい。彼女の過去が暴かれるという話でもないし、愛憎どろどろなわけでもない。ほのめかされるだけで多くを思わせる過去を背負った人々のにわか共同体が解体するまでの日々。
パンフレットに解説を寄せた外岡秀俊はレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を引きあいに出して、アクチュアルな解釈をしていた。
出演は、他に黒沢あすか、江口のりこ、梶原善など。
終わってすぐ池袋に立教大学ラテンアメリカ研究所主催、連続キューバ映画上映会。黒木和雄『キューバの恋人』の当時を関係者が振り返るドキュメンタリー、マリアン・ガルシア『アキラの恋人』、およびその後の寺島佐知子さん、+伊高浩昭さんのトークを。
年表を整えて順を追って話す寺島さん、その枠を逸脱して先取り、明快に話す伊高さんのコントラストが楽しいトークであった。
映画自体は既にDVDで観ていたのだが、とりわけ、『キューバの恋人』挿入歌に使われた(ガルシア=ロルカの詩に曲をつけた)Iré a Santiago が、映画が公開されなかったにもかかわらず合唱曲としてスタンダード化したとのエピソードが興味深く思われた。翻案との流通を巡る偶然の物語。
200人ばかり入るらしい会場は満員。キューバって人気なのだった。うむ。さりげなく『チェ・ゲバラ革命日記』でもかざしていればよかった。
構成・演出 長塚圭史『南部高速道路』@シアタートラム
名前からわかるとおり、フリオ・コルターサルの短編の翻案だ。高速道路で渋滞にはまり、そのまま日が流れてそこに一種の共同体ができる、という不条理状況劇。原作はフランスが舞台だが、週末を田舎で過ごし、東京に戻ろうとしていた10組13人(+子供がひとり)の物語に翻案している。
傘をうまく使って立ち往生する車を表していた。複数の声を同時に響かせる作りがいい。真木よう子が思いのほか低くよく響く声で心地よい。彼女の過去が暴かれるという話でもないし、愛憎どろどろなわけでもない。ほのめかされるだけで多くを思わせる過去を背負った人々のにわか共同体が解体するまでの日々。
パンフレットに解説を寄せた外岡秀俊はレベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を引きあいに出して、アクチュアルな解釈をしていた。
出演は、他に黒沢あすか、江口のりこ、梶原善など。
終わってすぐ池袋に立教大学ラテンアメリカ研究所主催、連続キューバ映画上映会。黒木和雄『キューバの恋人』の当時を関係者が振り返るドキュメンタリー、マリアン・ガルシア『アキラの恋人』、およびその後の寺島佐知子さん、+伊高浩昭さんのトークを。
年表を整えて順を追って話す寺島さん、その枠を逸脱して先取り、明快に話す伊高さんのコントラストが楽しいトークであった。
映画自体は既にDVDで観ていたのだが、とりわけ、『キューバの恋人』挿入歌に使われた(ガルシア=ロルカの詩に曲をつけた)Iré a Santiago が、映画が公開されなかったにもかかわらず合唱曲としてスタンダード化したとのエピソードが興味深く思われた。翻案との流通を巡る偶然の物語。
200人ばかり入るらしい会場は満員。キューバって人気なのだった。うむ。さりげなく『チェ・ゲバラ革命日記』でもかざしていればよかった。
2012年6月3日日曜日
帰宅
ぼくは今回、理事選で次点第2位、繰り上げで理事になった。一番やりたくない役職をやらねばならない状況に追い込まれ、その後、急転、2番目にやりたくない役職に就くことになった。
やれやれ。
「ロベルト・ボラーニョのアクチュアリティ」というパネルと文学についての分科会に出席。そうそう。ボラーニョ『第三帝国』のクライマックスは村上春樹を彷彿とさせるのだよ、などと思ったりしたのだった。
理事会でも、懇親会などでもつくづくと思うことがある。ぼくは本当に人脈がないな、ということ。知ってるはずの人にはじめましてと言われたり、……とほほ、である。
ま、もうすぐ50にもなろうとする身でありながら、人見知りだ、などと言っているのだから無理もないのである。
中部大学にはこんな彫刻があった。
2012年6月2日土曜日
新幹線の中で書く
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