2021年10月31日日曜日

所沢で大魔神の拝顔の栄に浴する



大魔神である。



そしてマンホールにはアニメキャラ。



所沢はサブカルで町おこししているらしい。そのプロモーターらしいところがここだ。昨日、30日(土)に行ってきた。



ここにも大魔神が! 



角川武蔵野ミュージアムだ。話題の書庫。



そしてとなりのダ・ヴィンチストア。書店には佐藤究『テスカトリポカ』(KADOKAWA)と佐藤さんの選書によるブックフェア。なんと! あの名著『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会)があるではないか! 『テスカトリポカ』執筆中、メキシコでアステカの記憶など忘れ去られていたらどうしよう、との不安を払拭してくれた一冊、とのコメントつき。えへへ。お役に立てて光栄です。



そしてミュージアムの荒俣宏コレクションでみつけたこれ。黄鉄鉱piritaだ。ちょうど前日、現在翻訳中の小説でこれに触れた箇所を訳していたところなのだ。語り手の「私」がカナダのバンフにある店にローレンス・ウェシュラーと入っていったらこれを見せられ、これについての話をウェシュラーから聞く、という箇所。その小説にはこれに本当にそっくりな黄鉄鉱の写真まで掲載されている。さすがは荒俣宏だ。これを見つけたとき、この前にはカップルが立っていて、隣にある水晶を見ていたのだが、僕が思わず歓喜の声をあげたものだから、彼らは立ち去ってしまった。申し訳ないことをしてしまった。



ニジマスなどを食べ、……



帰るときにはアニメキャラたちはキラキラ光っていたのだ。



誰かの忘れ物。この人はその後、無事に家まで辿り着いたのだろうか? まさか大魔神のものではあるまいと思う。彼のものならこんなに小さくはないはずだ。


2021年10月29日金曜日

一気に体制を変えてみた

前回、「小さなモニター」で小三治を見たと書いたのは言葉のあやという奴で、実際は、これ:



22インチTV受像機なのだ。


大きいやつを処分して、さて、TV番組はほとんど見ないからいいし、ネット配信のものはiPad mini もしくはMacから繋いでモニターで見ればいいや、ということだったのだが、問題はDVDやBDである。けっこうある。そしてこれを見る機会もけっこうある。とりあえずはTVとBDプレイヤーを書庫にしまっている間はそのたびに取り出しくればいいか、とも思った。が、試験的にそれをしてみなたところ、結構面倒であった。MacのディスプレイはUSB-C接続なのでBDプレイヤーには繋げない。


TVをMacのディスプレイと兼用にすればいいとは思っていたが、まず、大きくて机に乗らない。乗るけれども他に何もおけない。これは困る。次に、フルハイヴィジョンじゃないとMacの画像が粗くなる。


近所の西友を冷やかしていたら、BDプレーヤー(プレーヤーのみ。レコーダー機能もTVチューナー機能もない)が9,000円くらいで売っていた(上の写真、手前。志の輔らくご@パルコ劇場のDVDで試しているところ)。しかも隣には22インチのフルハイヴィジョンのTV。机に乗るサイズだ。これも案外安い。なんだ。これならこの装備で行こう。



で、こうして小三治で試してみた次第。問題はない。映画を観るときにはもう少し近くに行けばいい(もしくは装置を近くに持ってくればいい)だけのことだ。映画などでないのならば、……



これで充分。これはもう明らかに演出としてやってみた。昼食時(たくあん炒飯)、やはりYou Tubeに上がっていたナイツの漫才をiPad mini で見るという図。隣にリモコンらしき物があるのは、ステレオのやつ。Bluetoothで繋いでステレオから音声を出しているので、やけに音がいい。


2021年10月28日木曜日

たまにはスペイン語の話をしよう

既訳がふたつ存在する小説の翻訳をしている。たまにはそれらとの違いを比べたりする。こんな箇所の訳をどうしているか比べてみる。


“…un poso seco, que no por su escasa hondura era menos lóbrego…”

(あまり深くないからといって暗くじめじめしていないわけではない涸れ井戸)


既訳A:あまり深くはないが真っ暗な涸れ井戸

既訳B:あまり深くないので、さほど暗くはなかった涸れ井戸


? AとBでは意味がまったく違っている。明らかにBは意味を取り違えている。


そういえばこの “no por” の用法の取り違えは何度か目にしたことがあるぞ。一度など、ぼくがこの形式を使って書いたスペイン語を訂正してきた人物もいたぞ。


辞書を引いてみた。『西和中辞典』には特に何も書いていない。『スペイン語大辞典』には “por” の項目の最後20番にこうある。


[no+. 譲歩]……しなくても: No mucho hablar te vas a ganar su confianza. 多くを語らなくても君は彼の信頼を得ることになるだろう. No correr ahora, recuperarás el tiempo perdido. 今急いで走らなくても失った時間は取り戻せるよ


! つまり僕の理解とは逆の意味が書いてあるのだ! 僕の理解では「……しても○○ない」であり、例文のそれぞれの意味は「たくさんしゃべったからといって君が彼の信頼を得るわけではない」「今さら走っても失われた時間は取り戻せるわけではない」だ。これは困った。どっちが正しいんだろう? 僕の長年の理解はひょっとして間違っていたのかな? 同じ白水社の『現代スペイン語辞典』にはこの用法の説明はない。


1番目の例文は Diccionario Salamanca の例文そのままだが、サラマンカには「譲歩の意味がある」と書かれているだけでその譲歩のあり方、細かいニュアンスは説明されていない。残念。


アカデミアの辞書を見れば明解だ。”Por” の項目の26番。


Precedida de no o seguida de un adjetivo o un adverbio y de que, tiene valor concesivo. No por mucho pintarte estarás más guapa. Por atrevido que sea no lo hará. 

Noが先行し、または形容詞か副詞+que を従えて、譲歩の意味を持つ。うんと化粧したからってきれいになるわけじゃないさ。彼がいかに大胆不敵でも、さすがにそれはすまい。


Por … que…, no の例と並べているのが決定的だ。やはり “no por” は「たとえ……しても~ではない」の意味の譲歩なのだ。以下の有名なことわざの構文だものな。


No por madrugar mucho amanece más temprano. (とても早起きしたからといってそれだけ早く朝が来るわけではない)

果報は寝て待て、ということかな?


『スペイン語大辞典』は訂正した方がいいと思うな。


……しかし、それにしてもこの使い方の例文は、どれも絶望をもたらすものだな。『スペイン語大辞典』のようにポジティヴに理解したくなる気持ちはわからないでもない。が、だからといって…… No por ello… 



TVを繋がないことにしたので、これまでだったらTVを見ていたかもしれない局面でYouTubeでこの間亡くなった小三治の若き日の「明けがらす」を小さいモニターで鑑賞しながらの夕食。捨ててみれば、実際、こうした時でも必ずしも見たいものを見ていたとは限らないのだ。 No por ver la tele quiero hacerlo. 



2021年10月24日日曜日

すっきり!

昨日10月23日は現代文芸論研究発表会というので、午後、大学院生の発表を聞き、過去1年間に博士号を取得したひとの発表の司会をし、藤井光さんと宮下遼さんによる「一世たちと三世たち 記憶と物語」を聞き、ジョルディ・ソレールの『負け戦』3部作をやはり、どうにか紹介しなければ、との思いを新たにした。


その前日にはこれ:



『映画に学ぶスペイン語』教育評論社から復刊!


10年ほど前に出した旧版は、版元の東洋書店が倒産し、入手できなくなっていた。それを復活させようという話を持ってきてくださったので、初版時、原稿を書いたけれどもボツになった(たぶん、権利等の問題だと思う)4本を復活させた。装丁がポップな感じて、すてき。


さて、映画のDVD、BDなどを見るためにTVモニターをこんな風に置いていた。



いや、もちろん、TVも観ないわけではない。が、たとえば見逃すときのためにビデオに撮って観るというほどの番組はない。飯時に音楽を聴く気にもならない時とか、夜があまりにも静かで幽霊がいるように思ったので気を紛らわしたい時とかにつけてみて、興味をそそられるものがあればそのまま観る、といった程度だ(いわゆるバラエティ番組があまりにもうるさく思えて、最近はそのまま観ることもめったにない)。あるいは友人・知人が出ている番組をたまに観る。大相撲やニュースなどをのぞけば、家にいる限り定期的に観ているものといえば、BS-TBSの「街中華で飲ろうぜ!」くらいなものだ(それもTVerで視聴可能とのこと)。


ケチのつきはじめは、接触不良だった。TVのイヤフォンジャックからTVラックの下段に置いてあるステレオにつなげて音はステレオ(ヴィクターのウッドコーンのもの)を通じて聴いていた。が、何かの拍子に一度これを外したら、以後、ステレオから音が出なくなったのだ。マニュアルを見たりしていろいろと試してみたが、だめだ。


ところで、大学時代の友人で1、2位を争うテレビっ子(と思われる)夫婦の家に遊びに行ったとき、モバイルモニターのようなものがあるだけで、今どきの大画面液晶TVなどなかった。意外に思った。同時に、TVを観て楽しむということは画面の大きさには無関係なのだと気づいた。そういえば以前、吉田秀和を追ったNHKのドキュメンタリーで、彼が音楽を聴いている機材が僕が当時持っていたのと同じコンパクト・コンポなのを見て、びっくりすると同時に、そうか、これでいいのか、と妙に安心したことがあった。そんなことを思い出す出来事だったのだ。実際、机に置いたマック用のモニターはだいぶ大きく見えるけれども、実は21インチだから32インチのTV(最近では小さい方。でも僕には充分だった)に比べるとはるかに小さい。近くから見れば、小さくても大きく見えるのだ。当たり前のことだけど。


最近は見逃し配信のサイトとかもある。NHKは何かのついでのときにNHK+なんてのに入ったので、やはりほぼ同時配信で観ることも可能なようだ。ならば、TV受像機とチューナーとしてのBDプレイヤーを常に接続して設置している必要はないのではないか。そう思った。きっと僕のことだから、取り払ってしまったら観たくなるのだろうけど、それはタバコをやめたときの喫煙欲と同じで、しばらく我慢すれば通り過ぎるだろう。


そんなわけで、TVとBDは必要な時だけ取り出すことにして書庫にしまい、TVのあったところにはステレオだけを置いた。



こんな感じ。すっきりだ。いずれTVとBDも処分して、ついでにマック用のモニタも処分して、モバイルモニターとポータブルBDプレイヤーに替えようか(ディスク鑑賞時のために)と思う。


ところで、ジャン=フィリップ・トゥーサン『テレビジョン』という小説がある(野崎歓訳、集英社文庫)。TVを観ない決心をした語り手がむずむずして過ごす話。僕の好きな小説のひとつだ。


2021年10月13日水曜日

真ん中に居座る奴


ジャン! (まだ片付けの最中なので少し散らかっている。許せ)


こんなふうにしてみた。リヴィングと呼ぶにはあまりにも狭いスペースを居間兼書斎に使っているのだが、書斎のコーナーを小さく区切るという考え方を転換してみた。


最大の問題は昇降式の机が、僕が作業用として欲しかったものよりも奥行きがあって、端っこに置くには大きすぎたということだ。


であれば、これを真ん中において、作業用の机でもあり、リヴィングでもダイニングでも使えるテーブルとしても使えばいいのではないか。僕は部屋の真ん中にデンと大きなテーブルが置いてあるなんて配置が好きだったではないか。事務机として使うためのゼットライトは少し邪魔だけど(今度替える時にはフロア・スタンドにすればいい)、そしてまた配線コードのための穴も邪魔だけど、そこには目をつぶろう。この机は昇降するだけあって、いちばん低くて63cmくらいまでトップがさがる。それもひとつの強み。


こんなふうにして仕事もできる(写真はイメージ)。



もちろん、トップを高くして、立って作業することだってできる。


そして食事のときにはこれらの仕事道具は片付ける。メリハリがつく。つけられるのか、俺? 


……言うまでもないが、これは仕事が行き詰まっているときに頻繁に起こる逃避願望という奴だ。でもまあ、しばらくはこんな部屋で暮らしていこう。


2021年10月4日月曜日

驚きの湧き水

太田光海監督『カナルタ――螺旋状の夢』セバスティアン・ツァマライン、パストーラ・タンチーマ他(日本、イギリス、2020)


試写会にご招待いただいていたのだが、時間が合わずに見ることができなかったので、公開後、さっそく見てきた。


マリアノ・ジナースの『ラ・フロール』もイメージ・フォーラム・フェスティヴァルで特別一挙公開だったのだが、さすがにいろいろなことに追われていて、尻込みした。代わりに(?)、これ。


マンチェスター大学グラナダ映像学院の映像人類学博士課程修了製作。つまり、博士論文みたいなものだ。


文化人類学が近年では映像(写真ではなく、動画、ドキュメンタリー・フィルム)を伴うことは、たとえば石橋純さんの「ハンモックの埋葬」(2000)や田沼幸子さんの Cuba sentimental (2010)らの例で知ることができるとおりだ。その先に「映像人類学」というのが今、立ち上がってきているのだな。


映画としてはドキュメンタリーに分類していいだろうから、物語、というものがあるわけではないが、ともかく、太田がエクワドルのアマソニーア(アマゾニア)地方、シュアールという先住民の村(ケンクイムと言っていた)に滞在し、そこのセバスティアンとパストーラの夫婦の活動を中心にフィルムに収めたもの(正確に言うとフィルムではないのだろうが、そこはもちろん、一種の比喩だ)。


セバスティアンは家の屋根を葺き替えるために親族らとシュロの葉を刈る。男たちはひっきりなしに妻パストーラの作ったチチャを飲みながら作業をする。開始からわずかみっつめのシークエンスでそんな様子が紹介されるのだから(そのひとつ前のシークエンスはパストーラのチチャづくりの行程。はじめて見たのだ)、引き込まれる。薬草の見つけ方、準備のしかた、マイキュアという、おそらく幻覚作用があるのだろう薬草の摂取のしかた、それによるトリップ、このトリップ状態でヴィジョンを見たと語るセバスティアンの話など。


「一方で、芸術の道も捨てきれない自分がいた」(劇場用パンフレット掲載のインタヴュー)と語る太田のカメラワークもときおりハッとさせられる。タバコ状にして吸引した薬物でトリップし歌った後に嘔吐し、煩悶するセバスティアンをときおり焦点をぼかしながらもつぶさに映すかと思ったら、彼が自分のナタで背中を傷つけてしまい、怪我をしたときにはその傷口を映すことには執心しない。しばらく後にその傷跡を数秒だけ映して治癒したことを伝える。こういう処理などはとても上品で好感が持てるのだ。


妻のパストーラはある本に触発された夢で蛇を見、その本に書かれていたとおりリーダーとなったと語る。村長なのだ。その立場で町の役人に掛け合い、水道を整備するように訴えている。彼女の村は密林にあるので、川も近くにあるし、セバスティアンは川を見ながら、この辺に住宅を建てるなら水をどうするか、とカメラの背後にいる太田に語ってもいる。が、もちろん、パストーラが交渉している水というのは川の水の問題ではなく、上下水道のこと、生活のこと住宅に供給される水のことだ。


こうしたやりとりがあるせいか(これがこの作品の地下水脈)、最後の最後、本当に最後のシーンには驚かされる。あるところから水が湧いてくるのだが、とても現実とは思えない。我ながらよくぞ叫ばないでいられたと思うのだった。本当にあんなあれがあるのかな? 



駅の上のカフェで情報整理。情報整理にはクロワッサンがいちばん……なのか?

2021年10月2日土曜日

念校の恐怖

9月はブログの更新が一度だけという体たらく。授業がない月だというのに、いや、それだからこそ、怠けてしまったのだな。


前回の更新後、佐々木敦×豊崎由美によるエンリーケ・ビラ=マタス『永遠の家』(木村榮一、野村竜仁訳、書肆侃侃房)についてのトーク(ALL REVIEWS主催、オンライン)だとか、


松本健二×宇野和美によるスペイン語圏の女性作家についてのトーク(イスパJP主催、オンライン)とか、


『ドン・キホーテ』を探す3人の訳者(セルバンテス文化センター東京、一部オンライン)とか


を聞いては自身の勉強不足に落ち込む日々であった。


ある本の念校を送ったとの知らせがあり、実物を郵送すると同時にPDFファイルをメール添付で送ってくれたので、実物が届く前にPDFで確認。そんなときに必要なのが、これ




ジャン!


iPad mini 第6世代。ついにApple Pencil 第二世代が使えるようになったのだ。




こんな風にiPhoneを隣に置くだけで以前のとおりにアプリなどを構築してくれる。


僕は以前、もっと大きなiPadを使っていて、その際にApple Pencil第二世代も使っていたのだが、やはり僕の使用モードから考えるとminiが最適だとの結論に達し、ひとつ前の世代のiPad miniとApple Pencil 第1世代でどうにか使っていたのだ。いつか第二世代が使えるようになるだろうと思ってPencilは取って置いた。


そしたら、案外早く使えるようになったので、さっそく手に入れたのだ。


そしたら、なんと! Pencilが壊れていた…… まあいいや、前の世代を下取りに出して、新たにPencilを買ってもおつりが来るだけのギフト券を得ている。それで補充しようじゃないか。



(最新のiOS15はこうしてカレンダーが上に表示される。スケジュール帳に何も書いてないと(あるいは、その用件が終わると)「今日はもう予定はありません)と表示される。まるで暇人だと言われているみたいだ。なんだか悔しいぞ)


さて、ツールは整った。念校のハードコピーが届くまでの間、PDFで読むぞ。最近は短めの印刷物のゲラはほとんどがPDFでのみ送られ来るので(つまり、紙ではないので)、これで読み、これで赤を入れる。研究のための論文などもPDFでダウンロードするものが増えたので、同じだ。コピーしたものなのども、資料の整理のためにもPDF化する。それを読むのにiPadとApple Pencilが必需品なのである(ソニーの電子ノートも使っているが、これはめくるのに時間がかかるので、ページ数があると往生する)。本の念校をすべてPDFでというのは異例だが、まあ同じことだ。読もう。



……と思っていたら実物が届いた。今日から郵政民営化後の郵便局の堕落のために土曜日の普通郵便の配達はされないとのことだったが、レターパックは配達されるらしい。 ? それなら普通郵便も配達してくれればいいのに。


まあいいや、ハードコピーで念校確認。念校を見るというのには独特の恐怖が伴うのだ。