2017年8月30日水曜日

書きこみの季節

最近(年度初頭から)、こういうものを持ち歩いている。

先日、『エルネスト』の試写会で斜め前に座った方おふたりが試写の始まる直前まで本を読んでいた。そのうちひとりは鉛筆を片手に読んでいた。

すっかり老眼になってからだろうか? (ちなみに、最初に目の衰えを感じたのは40にならないころだ。トホホ、なのだ)ちょっと隙間時間ができると本を開くということが徐々に少なくなってきた。同時に、たとえば電車で読書に集中できなくなってきた。

しかし、果たして僕はその昔、読書に集中などしていたのだろうか? 

まあいい。そんなわけで、『エルネスト』試写会での斜め前のお二方のような振る舞いをすることは今は少なくなった。

それでも、締め切りや予習に追われているときには寸暇を惜しんで本を開く。開かざるを得なくなる。

ところで、本に書きこみをする人としない人がいる。僕は気紛れなので書きこみしたりしなかったりだ。しかも、人生の時期によって書きこみの時期と書きこみしない時期とがあるようだ。ある一時期読んだ本には書きこみがあり、その他の時期に読んだ本はまっさらだったり、ただ付箋が貼ってあるだけだったりする。

最近は、比較的書きこみをするほうだ。近々、同僚がこんな本(リンク)を出すみたいだし、今は書きこみをする時期のようだ。書きこみには早く読むためにする書きこみとゆっくり読むためにする書きこみがあるが、いずれにしろ、集中力を持続するためのひとつの方策だ。最近は集中力不足なので、書きこみすることが多い。

書きこみするためには鉛筆が必要だ。鉛筆はペンケースから取り出せばいいのだろうが、それも面倒だ。本当は読んでいる本に鉛筆を挿して持ち歩きたいものだ。でもそうすると、本がその必要もないのに傷ついたりする。僕は本をぞんざいに扱う方ではあるが、だからといって意図的にボロボロにするのは僕の好みではない。

そこで、冒頭の写真のような器具を見つけ、使っているのだ。こんな風に(下)本やノートに挿して歩く。後ろの翼がマグネットになっていて、本体を吸い付ける。ピッタリとはまる。


こうして鉛筆片手の電車内や出先での読書が始まる。

2017年8月29日火曜日

8月は映画に始まり映画に終わる?

今月の最初の記事も映画の話だった。

昨日は以下のものを鑑賞。


パターソンという町に住むパターソンという名のバス運転手の一週間を追ったもの。題字も、月曜から日曜、そしてまためぐってきた月曜の日付も手書き風の字幕で出ていたので、できれば日本語字幕も手書き(もしくは手書き風のフォント)にしてくれるとよかったなと思う。昔よく見た映画のように、略字体を含む手書きの字幕。ジャームッシュのようなアナクロニズムを装う作家にはそれがぴったりだと思うのだけど。

ましてや『パターソン』は、手書きについての映画だ。主人公のパターソン(アダム・ドライバー)はバス運転手で、目覚めてから車庫に着くまでの間に頭の中に転がせておいた言葉を、出発直前にノートに書きつけるのを日課としている。さらに、帰宅後、自宅地下の書斎で、詩に磨きをかける。パターソンが詩をノートに書きつけると、画面にも字幕でその文字が浮かび上がる。そしてそれが、やはり手書き(風)だ。コンピュータのワープロソフトで書くのが一般化した現在、携帯電話も持たない時代遅れなパターソンがノートに手書きで書く、これが重要。手書きだからこその失われ方をするのが、この作品の最大のドラマ。そこからいかにして再生するかがこの映画のテーマ、と言えばいいのかな? 

月曜の朝、目覚めたパターソンに、まだまどろんでいる妻のローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)が双子の親になる夢を見たと囁くところから始まる。すると、街に双子があふれ出す。いや、「あふれ出す」は大袈裟だが、通勤途中にも双子の老人がいるし、バスの客にも双子、夜の犬の散歩の途中に寄るバーにも双子、パターソンのようにノートに詩を書いている女の子も双子……まるでパターソンの日々はローラの夢の中のようだ。

ローラはそれこそ夢見る女の子で、白黒モノトーンで世界を塗り固めようとしているし、同じくモノトーンのカップケーキを焼いては、それでひと儲けしようとか、ハーレクインという名の白黒のギターを買って、これでカントリー歌手になるんだなどと言ったりしている。この夫婦の会話が、とても面白い。寝起きに交わす言葉だけがかみ合っているようだ。起きているときには、夫は妻の料理を褒めたりするのだが、果たして本当に美味しいと思っているのか、疑問だ。妻は1度も読んだことがないはずなのに、夫がノートに書きつけている詩は傑作だからパブリッシュするといいと勧め、その点でも「夢見る女の子」風だ。こうしたちぐはぐさがジャームッシュの特長と言えば言えるのだが、そこに犬のマーヴィンのコミカルさが加わって、観ていて飽きない。

映画の中で使われる詩はロン・パジェットのもののようだ。これらの詩や、それからウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩(集)をもとにストーリーを組み立て、引用から創作が成り立つことをも示していて秀逸。

詩が生まれ、再生する瞬間を映画で体験できるのだ。


その後、隣の三省堂書店で買った『ユリイカ別冊 特集ジム・ジャームッシュ』(青土社)。そして、非常勤先の教え子たちと就職を祝って食事をし、酔っ払って帰った自宅のボスとに見出した『別冊本の雑誌19 古典名作 本の雑誌』(本の雑誌社)。豪華執筆陣に紛れて、この中で南欧の古典20作について書いている。

2017年8月25日金曜日

Me puedo morir con vos.


試写会に呼んでいたただいた。試写会場があれだけの満席だったのは僕には初めての体験。

ゲバラとともにボリビアの山中でゲリラ活動をして倒れた日系人フレディ・前村については、その評伝が『革命の侍』のタイトルで伊高浩昭監修、松枝愛訳で翻訳が出ていたのだが(長崎出版、2009)、これも配給のキノフィルムズの系列(?)キノブックスから復刊されるらしい。

上映前、監督の阪本順治が挨拶に立ち、「ドンパチはありませんので。フレディでの大学での日々が中心です」と宣言。

事実、日系ボリビア人フレディ(オダギリジョー)が、革命後の政府の医学普及政策に乗ってキューバに勉強に来るところから始まる。問題は、彼らが予課を終えて大学に進んで5日後にミサイル危機(10月危機/キューバ危機)が勃発、フレディは志願して民兵となったということだ。もちろん、危機は危機で終わり、彼は学業に戻ることになる(キューバの頭越しケネディとフルシチョフで解決を見たことには怒る。それだけの社会的意識は最初から持っている人物だ)。が、2年後にはレネ・バリエントスのクーデタが起こり、祖国に帰って何かせねばと焦る。そうした巡り合わせはある。そうしてフレディは憧れのゲバラと同じエルネストの名をゲリラ名としてもらい、ボリビアに飛ぶ。

個人的にはエピローグのような最後の2分ほどはなくてもいいと思う。「ドンパチ」はもちろん、必要最小限はあった。社会参加の意識を持たない留学仲間のベラスコ(エンリケ・ブエノ・ロドリゲス)が、口説いて孕ませて子供も認知せずに捨てたルイサ(ジゼル・ロミンチャル)に対するフレディの思いが、青春映画としてのプロットを支えている。ハバナ大学の大階段と大学構内が何度も映ると、甘酸っぱい想いもこみ上げる。

この記事の表題に掲げた文章は最初からルイサを思っていたフレディが、彼女宛のラブレターを書いているベラスコ(その時点で、それが彼女宛であることをフレディは知らない)に、愛している、だけでなく「君となら死ねる」という科白もあるよねと言った、その科白だ。

この科白でフレディはルイサを口説き落とし、そして捨てた。フレディは捨てられた彼女をやさしく見守った。

そしてまるでこの言葉をゲバラに対して言ったかのように、フレディはゲバラに殉じた。

白黒フィルムによるイントロダクションと海面を映したタイトルロールが終わると、最初のシークエンスは来日したゲバラが当初の予定を変更して広島を訪問した時のエピソード。この時に愛用のニコンのカメラがやたらと強調されているように思ったのは、過日、これとタイアップのゲバラ写真展を観に行ったからだろうか? 

さて、ある同業者の友人が心配していた、オダギリジョーのスペイン語はどうなの? という問題。

音節末の -s (-) が気音化する感じはうまくできていたので、最初騙されたが、やはり (-) l (-) 及びr-、-rr- 、や -u- の音など、気になる発音の癖はある。日系人としてなにがしか残らざるを得ない訛りというよりは、やはり日本語で育ってきた話者が習得したスペイン語に残す訛りといつた観は免れない。

でも、それでいいのだと僕は思う。


写真は、帰宅後、届いたエンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』木村榮一訳(河出書房新社、2017)の下に敷かれた『エルネスト』のパンフ。

2017年8月23日水曜日

ディジタルの勝利/アナログの写真家

試写会に呼んでいただいたので行ってきた@TCC試写室

小田香『鉱 ARAGANE』(ボスニア・ヘルツェゴビナ、日本、2015)

小田香は『ニーチェの馬』のタル・ベーラのもとで学んだとのこと。この映画も彼が監修として名を出している。

サラエボからは北西に約30キロというから、つまり、近郊、ということだろうか。ブレザという町にある炭鉱に「圧倒的な美しさ」を感じたという監督が、その炭鉱での人々の仕事を撮ったドキュメンタリー。

暗い鉱山での仕事が、ディジタルの映像に捉えられると、なるほど、きれいだ。坑道をトロッコのようなものに乗って下りていく抗夫を(たぶん)カットせずに最初から最後までただ映した冒頭、逆に地上に戻る姿を映した後半、そして今度はエレベーターで彼らが降りた後に、彼らの姿が見えなくなった後も動き続けるケーブルをずっと映したラスト。それらの間がいい。

その後、恵比寿の東京都写真美術館で「写真家チェ・ゲバラ」展へ。盛況であった。写真は絵葉書。僕は美術展に行くと絵葉書を買うことにしている。

今回の写真展は映画『エルネスト』とのタイアップ企画。会場のロビーにはこんなものもあった。


2017年8月20日日曜日

始まりはいつも気紛れ


ついでに、Twitter上に



そして、


を投稿した。

実際、気紛れで始めたものの、飽きっぽい僕の性格だから、投稿を連動させる気が一切ない。きっと違うことを書き続けるのだ。他に書くべきことがあるのに(今のところはInstagramの昨日の投稿に書いた書評を、本当に終えなければならない)。

僕の理解が間違っていなければ、Instagramは基本的に写真を投稿する場だ。次なる問題は:

だいたい常に持ち歩いているカメラの問題。いわゆるコンデジ。これを取り出すと、今どきこんなものを持ち歩くなんて珍しいと言われる。

そりゃそうだ。iPhoneのカメラなど、今では素晴らしい。画質もいい。撮ればすぐに写真(アプリ名)に収まって、そのままInstagramと連動させてシェアできる。

一方、この愛するCanon PowerShot G9X で撮った画像は、今ではWi-FiでiPhone やiPadに取り込めるけれども、少なくとも一手間余計だ。やがてその作業が億劫になったとしてもおかしくはない。コンパクトでないカメラを持ち歩く人は逆に飛躍的に増えたから、この一手間は決して嫌がられているわけではないと思う。写真がInstagramに掲載するためのものだと思えば、スマートフォンでないカメラは無用の長物で、無用の長物としてのカメラを持つなら本格的なものを、というわけなのだろう。


さて……
(いや、僕だってミラーレス一眼レフなど持っているわけだが……一方で、この二つくらい前のモデルを持ち歩いていた頃、同席したさる写真家が、やはり同型のものを持ち歩いていることを知り、なんだか誇らしく思ったものなのだよ)

2017年8月17日木曜日

悲鳴を上げる財布

これは何だ? 

昔から、身軽さへのオブセッションがある。徒手空拳という言葉への尽きせぬ憧れがある。前提その1。

かつて、マネークリップを使っていた。なかなか気に入っていた。が、いつしかカードなどを持つようになり、財布を使うのが当たり前になっていった。今ではマネークリップは使っていないものの、何となく、また使いたいなという漠然とした憧れがある。これが前提のその2。

で、こうなった。


これまで使っていた財布(これはこれで気に入っている)と比べると、こんな感じ。おそらく厚みは大差ないかもしれないが、大きさがだいぶ違う。

これでボーナスは使い果たした。後は水を飲んで生きる。(というのは、もちろん、噓だけど)


以前、iPadやら何やらを衝動的に買う僕を見てたしなめていた教え子が、先日、会ったときにこのThe Ridgeのマネークリップの話をしたら、あっさりと「買っちゃえばいいんじゃない」と言っていたので、その態度変更に戸惑いつつも、背中を押されたような気になったので、買った。

2017年8月16日水曜日

悲鳴を上げる島

Facbookで繫がっている方が他のある方の記事をシェアしていて知った、こんなニュース。


僕は高校進学と同時に家を出て、その後、ほとんど帰省もせず、今後もUターンなどさらさら考えていない。僕はきっと、さして故郷思いでもないだろう。それでもこうしたナンセンスな話には腹立ちを禁じ得ない。

記事には地図と候補地の上空からの写真がついている。一番北の候補地、「笠利湾東(奄美市)」と書いてある場所は、僕が子ども時代、たまに遊びに行った場所だ。もしくはその近くだ。

山を越え、木々の中の小径を抜け、最後にマングローブのアーチをくぐり抜けると眼前に開ける白い砂浜だ。関東の黒い砂浜と比較すると目の覚めるほどに真っ白いそのビーチは、確かに美しい。その名も白浜(するばま)という。

が、はっきり言ってそのビーチは狭すぎる。山がすぐ背後まで迫っているので、ビーチ周辺も狭すぎる。つまり、ここにリゾート施設を作るのはナンセンスなのだ。それは、地図に添えられた航空写真を見るだけでよくわかるだろう。

これは、そのちょっと先にある岬から撮った白浜の写真だ。

記事によれば、「珊瑚礁がないなど環境への負荷が小さいこと」などが候補地の条件とのこと。写真に描き込まれた赤い鉤型の直線が、想定される埠頭だろう。そこに作れば珊瑚を傷つけない、もしくは、傷が最小限で済むということかもしれない。

埠頭はそうなのだろう。しかし、滞在型のリゾートを作るということは、近くにホテルなどの施設を作るということだ。この狭い土地にホテルを作るためには珊瑚礁の海を埋め立てなければならないだろう。でなければ山を潰さなければならないだろう。「環境への負荷が小さい」などと言えるだろうか? 

何よりも気になるのは、「回頭域は、現時点における世界最大のクルーズ船の全長(L)361m(ロイヤル・カリビアン・インターナショナルのオアシス級客船)を想定し、その2倍(2L)の722mを回頭場の直径にしている。」(強調は引用者)というところ。

ロイヤル・カリビアン・インターナショナルはつい昨年のこと、この「笠利湾」の西側、龍郷町に同様のリゾート施設を作る計画を打ち上げ、地元からの反対運動に遭って断念した会社だ。いろいろとリンクを貼りたいところだが、とりあえず、このNAVERまとめで(リンク)。

語るに落ちるとはこのことだ。要するに直接開発しようとして失敗したロイヤル・カリビアン・インターナショナルが、国交省にロビー活動をかけてこんな計画を作らせたのだろう。

環境破壊阻止などに熱心な者ではない。単に無駄だと思うのだ。100人集まればいっぱいになる砂浜に1,000人も2,000人も連れてくることはない。この楽園に来たければ、お椀の船を箸の櫂で漕いでくればいいのだ。

白浜から岬を回ったところが僕が2,3歳のころから15の歳まで住んでいた集落だ。その目の前の小さな湾の光景がこれだ。

さっきの白浜の写真を撮った場所の近くで、後ろを振り返ればこの写真の光景が見える。そういう位置関係だ。

位置関係はともかく、何が言いたいかというと、この埠頭と防波堤だ。こんなものは僕が子供の頃にはなかった。入江になっているから、波なんか高くない。防波堤など必要だと思ったことはない。小さな漁船が繋留されている程度の浜に、こんな埠頭は必要ない。この埠頭はおそらく(たまに帰省したときに見る限りでは、ということ)、利用されていない。


これが国交省の仕事だ。

2017年8月15日火曜日

Bocadillos

TwitterやFacebookのステレスマーケティングにはうんさせりさせられることも多く、腹の虫の居所が悪い時には、削除して報告したりするのだが、ステマといっていいのかわからない情報ページでは、実はひそかにいいアイディアをいただくこともある。

以前、コーヒーのペーパーフィルターは油漉しとかハンバーガーやサンドウイッチの包み紙にも使える、なんてアドバイスを見て、これはいいと思ったのだった。

最近はもっぱらフレンチプレスコーノ式ドリッパーとを使っているので、カリタ式のドリッパー用フィルターが余っていて、アドバイスに従っていろいろと使っている。

今日はバゲットサンドを作ったので、そのホールダーに使ってみた。バゲットサンド。スペイン風に言うとbocadillo。で、スペインのbocadilloは縦に切って具を挟むという印象があったのだが、最近、何かの写真で水平に切って具を挟む例も見たので、今回、バゲットを水平に切ってボカディーヨを作ってみたのだ。

レタス+生ハム+チーズ+キュウリ
レタス+オイルサーディン+キュウリ

昨日作ったキュウリとパプリカのピクルスも添えてみた。

僕は常々、なぜ日本のバゲットは外皮が柔らかいのかと不満に思っていたのだが、焼いてみたら硬くなることに気づいた。もっとも、中身も硬くなるのだが。


でもいいや、ともかく、うまい。

2017年8月9日水曜日

使い初め

以前購入を報告したブックノート。いよいよ使い出した。

サイズはB6、いわゆる四六判の本の大きさ。だから先代のモレスキンのノートと比べると、背が低い。

だからふだん使っているインク吸い取り紙も、こうして少し切ることになる。

いいことがひとつ。そもそも僕がひとつのノートにすべての情報をまとめることを始めたのは、以前も何度か書いているが、大学2年の冬、クリスマス・プレゼントにローラー・ボールペンをもらったことがきっかけのひとつだった。ところが、モレスキンの紙だと、ローラーは裏に滲んで使えない。だから万年筆と油性ボールペンを使っている。普通は万年筆。本や新聞をメモを取りながら読む時にはボールペン。しかして、ブックノートはローラーで書いても滲まない。だから油性ボールペンの代わりにローラーが使える。

すべてを1冊にまとめるとはいっても、今では日々の買い物のメモはiPhoneのメモに書きこみ、買い終えたら消すようにしている。論文などを書くための読書メモも、メモはノートだけれども、引用などは直接PCのソフトに書きこんだりしている。だから以前に比べてノートの使用頻度は減った。それでも、まだまだ重宝しているのだ。年に数冊のペースでノートを使っている。

今、取り組んでいることのひとつはこれ:

『ドン・キホーテ』についての短めの(400字×10枚ばかりの)文章。

こういうのがいちばんむずかしい。これだけ長い本について、比較的短い文章を書くというのが。

そういうときには、まとまりや構成など考えず、ともかく、いくつか、紹介したい箇所についての文章を一段落ずつ書いてみる。今回も3つか4つのポイントについて文章(段落)を作ってみた。

そうしているうちに道筋が見えてくることもある。今回も少し見えて来た。ただし、作った段落のうちひとつだけが使えそうだ。他の3つは惜しみなく捨てる。今回は使わない。いつか使えるかも知れないけれども、気にせずに放置だ。

文章を書き慣れない者は往々にして書いたものを捨てたり書き換えたりすることに抵抗を感じる。これまでも何度か、削除や書き換えを頑なに拒む学生にほとほと参ったことがあった。

今日、FB上で、とある新聞社の写真部に勤める友人が他の友人に写真がうまくなるこつを伝授していた。そのひとつは「いっぱい撮ること」。数十枚撮ればそのうち1枚くらいはいいのができるかもしれない。――さすがはプロ。そういうことなのだ。僕らの目に触れるたった1枚の背後には、使われなかった数十枚数百枚の写真がある。

僕らが読む1ページの文章の背後には、捨てられたり変形されて原型を留めなくなったりした何十ページ何百ページもの文章がある。


そしてその背後に何ページものノートのメモがある。モレスキンが、ブックノートが。

2017年8月3日木曜日

満島ひかりの歌や島中響(とよ)まるる……

園子温『愛のむきだし』(2008)を見て以来(つまり、それ以前は良く知らないのだが)、満島ひかりのファンなのだ。顔も体つきも、その演技にも惹き付けられてならないのだが、最近つらつらと思うことは、誰かに惹き付けられる時にたいていそうであるように、僕は満島ひかりの声が好きなのだろうということ。

そんなわけで、満島ひかりの声を活かすために作られた映画を観に行ってきた。


いや、もちろん、島尾敏雄、ミホ夫妻への僕なりの興味があるのだが、ミホ役を満島がやるのだから、もはやどちらに対する興味に導かれたのかはわからないのだ。

映画『海辺の生と死』は島尾ミホの同名のエッセイ集と島尾敏雄「島の果て」が原作だと書いてある。「島の果て」は新潮文庫『出発は遂に訪れず』に収録された短篇だ。

島尾敏雄は特攻艇震洋の部隊を指揮するために加計呂麻島の呑ノ浦にやってきた海軍中尉。そこの国民学校で教師をしていたのがミホ。二人は恋に落ち、夜な夜な浜の突端を回ったところにある塩作り小屋で逢瀬を重ねる。結局、島尾敏雄に出撃命令は出ないまま戦争は終わる。

以上が、おそらく、事実のあらまし。敏雄はそれを「島の果て」という短篇に書き、さらに後年、ミホは『海辺の生と死』に収めたいくつかのエッセイでそのことを彼女の視点からの思い出として書いた。

敏雄の短篇はあくまでも創作で、加計呂麻島を「カゲロウ島」と呼び、自らを朔中尉、ミホのことをトエと名づけている。こうした命名と小説内のいくつかの台詞やエピソードなどを盛り込みながらも、基本的にミホの回想を基に脚色したのが今回の映画。

したがって、島尾文学のいかにも島尾らしい要素の一部は脱落することになる。「島の果て」ではトエは集落の出身の者ではないことがほのめかされ、教師ではなく「部落全体のおかげで毎日遊んでくらして行くことができました」と表現され、かなり謎めいた娘として提示される。

一方で、部下たちの統制に悩む文弱な将校ぶりは、ミホのエッセイからは見えてこない部分なのだが(ミホのエッセイでは島尾隊長のカリスマ的人望が印象づけられる)、映画は敏雄の短篇からそうした要素は取り込んでいる。

結果、凛とした小学校教師ミホの声が映画全編を通して響きわたることになる。敏雄の短篇よりも大人なミホが立ち上がる。朔は「島の果て」よりも少しだけ人望を集めることになり、その代わり、深く悩んでもいる。

トエことミホ、こと満島ひかりの声の響く映画は、島尾敏雄の短篇以上に多言語的でもある。トエが子供たちに歌って教える浜千鳥の歌は、「島の果て」ではわずか2行のみ(浜千鳥、千鳥よ/何故お前は泣きますか――〔ルビ:ぬが・うらや・なきゅる〕)なのだが、ミホのエッセイでは、終戦の前々日、島尾隊長を待ちながら歌ったことになっているこの歌は、こう記される。

チドリャ ハマチドリャ(ルビ: 千鳥 浜千鳥)
ヌガウラヤナキュル(ルビ:何故 お前は 泣き居る)
カナガ ウモカゲヌ(ルビ:君が 面影の)
タチドゥ ナキュル(ルビ:立つ故に 泣き居る)
(……)

という具合に一連まるごと再現されている。


そして映画では、最初の塩作り小屋での逢瀬の時に、これがまるごと、満島ひかりの声で歌われるのだ。(歌唱指導は朝崎郁恵。たぶん、一度、彼女自身の歌が映画内で流れている……と思う)