友人のFBへの書き込みで今日が12月25日であることを思いだした。12月25日は奄美群島本土復帰の日だ。1953年12月25日づけで、日本本土に復帰したのだ。サンフランシスコ講和条約の発効から1年半ほど遅れていたけれども、それ以前、46年2月2日のいわゆる「2・2宣言」で日本本土から切り離すとされて南西諸島軍政府(後に民政、そして琉球政府)の配下に置かれているから、日本に戻るのは約8年ぶりという認識。
ぼくが生まれたのはその約10年後。つまりぼくらが15歳のときには、「復帰25周年」が祝われた。ぼくはそのとき、それを祝うあるイベントに引き出された。
ぼくの記憶では復帰の日の翌26日が日曜日で、その日曜日にイベントはあったはずだった。でも今調べてみたら、実は25日は月曜日だったらしい。ということは、そのイベントは24日にあったのだろうか? それとももう冬休みに入っていて平日だけどその日が祝われたのだろうか?
そのイベントの日は、つまり78年の12月のその日曜日、か25日は、祖母の死んだ日でもある。イベントの終わるころ、祖母の死を知らされた。
今日、名瀬の小学校では復帰60年が祝われ、元ちとせらのステージがイベントに花を添えたそうだ。
そのことに何の異論もない。ただ、復帰運動を展開した人々には優れた知性がいたのだということを、ぼくとしては、あくまでも指摘しておきたいな。名瀬市長として復帰運動を牽引したのは詩人・泉芳朗だった。彼は復帰の翌年に病死するのだが、追悼のための出されたアンソロジーは今年、復刊された。泉芳朗の一世代上のロシア文学者・昇曙夢(彼の『大奄美史』は、奇しくも、昭和24年ーー1949年ーー12月25日発行だ)の著作集は昨年、復刻された。文(かざり)英吉らの著作も、近年、復刻されている。キリスト教思想家・吉満義彦の著作は、80年代の全集以後、出回ってはいないが、それでも全集があるのだ。
別に奄美関係や復帰運動にかかわる著作に特化する必要はない。上に挙げた者たちも必ずしも運動にかかわったわけではない。彼らがそれぞれのフィールドで(西田哲学と対峙した牧野周吉なんてのもいる)展開した知的な活動が、読まれることを望むということだ。
近ごろ話題の徳田虎雄は泉芳朗と吉満義彦を輩出した徳之島の出身だが、1938年生まれ(つまり、戦後第一世代)の彼は徳之島にいては医学部に入れないと言い、高校から大阪に出て、1日16時間勉強の義務を自らに課して阪大医学部に入った。少なくとも本人はそのように自己宣伝していた。
普通に知性を輩出していた地のはずなのに、徳之島でいたのでは医学部に入れない、と戦後世代の徳田虎雄は思った。そういう環境にいた。そのことが、実は、本土から切り離された8年間の顕在化しきれない傷跡なのじゃないかと、ぼくは時々思う。