2021年7月29日木曜日

マリオは人生を精算する

19日(月)にはオペラを観た@新国立劇場。ビゼーの『カルメン』アレックス・オリェ演出。劇場のプログラム冊子が充実していた。


カルメンに現代的な解釈を加え、ジャングルジムのような舞台装置にロックバンドなども(ちょっとだけ)入れてなかなか面白い試みだった。何しろ『カルメン』だ。オペラの中のオペラだ。そうした解釈を許す懐の深い作品だ。


今日届いた本の2冊。



Gabriel García Márquez, Mario Vargas Llosa, Dos soledades: Un diálogo sobre la novela en América Latina, Edición a cargo de Luis Rodríguez Pastor (Alfaguara, 2021)

Mario Vargas Llosa, García Márquez: Historia de un deicidio (Alfaguara, 1971 / 2021)


前者は1967年、バルガス=リョサがロムロガリェーゴス賞を受賞し、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』がベストセラーになった年の9月、リマの国立工科大学で行った対談(現実にはバルガス=リョサがガルシア=マルケスにインタヴューする形)に、その周辺的なテクストを揃えたもの。


この対談は、その一部が、かつて、野谷文昭訳で『エスクアイア日本版別冊 TIERRA』1990年1月号に訳出された。さらにその後『疎外と反逆』(寺尾隆吉訳、水声社、2014)の第1部として訳されている。元の対話は二日にわたって行われ、本書でも第1部と2部に分けて掲載されているが、『疎外と反逆』がその両方とも掲載していたかどうかは覚えていない(実物は大学にあり、今は自宅にいるので)。


僕は『疎外と反逆』の書評を『週刊読書人』に書いた。翻訳者のあとがきの価値判断に反し、バルガス=リョサの(学究的であろうとするがゆえに陥らざるをえない)陳腐さとガルシア=マルケスの創作者としての真摯さを読み取り、それでも「本書はあくまでも六〇年代の記録だ」と書いた。今回、Dos soledades に一文を寄せたフアンガブリエルバスケスの言葉はそんな僕の価値づけを後押ししてくれるようでもある。VLlが常にメスを手に文学に分け入る批評家作家で、ガルシア=マルケスは無知の作家という自身のイメージを必死に守っているように見える、しかし、そうではないのだ、と。彼は読書の技術を知り尽くしているのだ、と(14-5)。


そして、なんといっても特筆すべきは2冊目。『ガルシア=マルケス——神殺しの歴史』だ。1971年に出版されたものの、ふたりが喧嘩別れして(柳原『メキシコDF』第8章参照)以来、再版されることのなかったこの批評書。ガラクシアグーテンベルクの全集版になってやっと再版されたらしいこの本を、実は僕も持っていなかった。それがつい最近、やっと再版されたのだ。


85歳になったバルガス=リョサは、きっと人生を精算しはじめているのだろうと思う。ガルシア=マルケスももう死んで7年になる。いつまでも意地をはっていないで、いろいろと思うところはあるだろうが、あくまでも歴史的資料としてこれの再版を許すことは自身の務めなのだと悟ったのだろうと思う。実に助かる。


さて、ところで、こうしてはじめてこの書を手にしたのだが、びっくりだ。650ページを超える大部であった。やれやれ。ボルヘスに関しては100ページしか書かなかったのに、ずいぶんとたくさん書いたものだ。どれだけ愛していたのか。


2021年7月9日金曜日

老いとスパイとニブと

マイテアルベルディ監督『83歳のやさしいスパイ』(チリ、アメリカ、ドイツ、オランダ、スペイン/配給アンプラグド、2020年)


トレイラーを観ても、『すばる』8月号掲載の野崎歓による映画評を読んでも、てっきりフィクション、というか、劇映画だと思い込んでいた。が、ドキュメンタリーなのだそうだ。驚異である。


もうすぐ83歳になるセルヒオが新聞広告に応募して探偵社に雇われ、老人ホームに潜入調査に向かう。ターゲットとなるソニアの子供が依頼主。ソニアがホームで虐待にあったりしていないか、窃盗に遭ったというが職員に泥棒がいるのではないか、それを調査に向かうのだ。女性の入居者が男性の10倍ばかりもいるそのホームで、新入りでスーツを着たセルヒオに恋する者(ベルタ)が現れたり、詩作して歓迎する者(ベティタ)がいたり、認知症なのか母親が迎えに来ると信じては外出したがるばかりか、手癖も悪い者(マルタ)がいたり、自身の記憶と論理の整合性に自信が持てずに不安を抱える者(ルビラ)がいたりして、それらの人物とセルヒオがことごとく向き合い、対処し、時には癒やしていくのだから、物語性はたっぷりだ。ドキュメンタリーだということがにわかには信じられないのだ。


広告に吊られやってきただけのセルヒオが、手癖の悪いマルタを結局はいちばん近くにいて(そして彼女の被害者であるはずのソニアすらもが)相手にしたり、ルビラを癒やすべく「泣いて良いのだ」とアドバイスし、彼女の娘や孫娘の写真を手に入れて癒やすなど、すぐれた知性を発揮するのも驚き。


探偵など雇って心配するより、家族が会いに行くのが老人にとっては一番の薬、というのは予想しうる主張であるし、予想しうる主張だとしても感涙を禁じ得ないのだが、そうした感動などよりも、やはりあくまでも驚きなのは、これがドキュメンタリーとして撮影されているということだ。クルーはセルヒオが潜入調査に入る2週間前にホームでの撮影を始め、たまたま入ってきた新入りであるセルヒオを追うという形で撮影を続けたのだという。監督が言っている「ドキュメンタリー映画製作者として私が用いる手法は、ロムロ(セルヒオの雇い主。つまり、探偵)が用いる手法と似ている」(プログラム: 9-10)。アルフォンソレイェスが言うように、スパイとジャーナリズムは根が同じなのである。




モンブランのマイスターシュテュック149のニブ(ペン先)のEFが細すぎたので、ペリカンのスーベレーンM800はMを使っていたのだが、ペリカンはモンブランよりペン先が太いので、これのEFがちょうど良いのだと気づいた。そしてペリカンは簡単にニブの交換ができるので、EFのそれを手に入れた。案の定、実にいい。(下は軸に装着したところだが、ピントの位置がずれているように思う)





2021年7月7日水曜日

またサボり癖が出ちまったぜ

ずいぶんとサボってしまった。Bloggerでのブログを始めて以来、一度も投稿しなかった月は先月がはじめてではあるまいか?


先々月(5月)も一度しか投稿していない! しかもそのとき、相撲放送中のTV画面の写真を掲載したのだが、今、次の場所がもう始まっているのだ! その間に美ノ海は久しぶりに幕下に陥落し、豊響引退して年寄り山科を襲名した。


忙しいというわけではなかったが、仕事はそれなりにやっている。



昨日発売の『すばる』8月号には、マリオバルガス=リョサ「ボルヘスとの出会い」というのを訳している。これはちょうど一年ほど前に紹介した、Mario Vargas Llosa, Medio siglo con Borges の一部、インタヴューなどだ。


アンナツィマ『シブヤで目覚めて』阿部賢一、須藤輝彦訳(河出書房新社、2021)が面白かったので、授業を1回使って須藤さんにこの作品について話してもらった。


日本時間6月24日未明には、メキシコやスペインと繋ぎ、UNAMのカルロスフエンテス講座が主催するオンライン講座にゲスト出演した。


映画のパンフレットへの寄稿が2点。セバスティアン・ボレンステイン監督『明日に向かって笑え!』(アルゼンチン、2019)


2001年の経済危機の際に、インサイダー取り引きのようにして巻き上げられた自分たちの金を取り戻す人々の話。8月6日公開。


もうひとつは:オーレル監督『ジュゼップ 戦場の画家』(フランス、スペイン、ベルギー、2020)。バルセローナのイラストレーター、ジュゼップバルトリが、内戦後、アルジェレス=シュル=メールその他の収容所で過ごした話。彼のイラストをも利用したアニメーション。


そしてもうすぐ配信されるはずの書評で取り上げたのは: ルルヒオガビラン『ある無名兵士の変遷——ゲリラ兵、軍人、修道士、そして人類学者へ』黒宮亜紀訳(現代企画室、2021)。いろいろと考えさせられる本で、当然のことながら書評では書ききれないことばかりだ。


センデロルミノーソ(SL)が活動を始め、そのとばっちりをくってジャーナリストたちが殺された事件(バルガス=リョサがその報告書を書いている。「ある虐殺の真相」桑名一博訳『集英社ギャラリー 世界の文学19 ラテンアメリカ』所収。そしてそれに対する反論もある。細谷広美の仕事など)——ここからペルーの内戦が始まる——の直後くらいに、そのすぐ近くのアヤクーチョでSLに参加し、軍に捕虜になって軍人になり、さらに修道士になり、最終的に文化人類学を学ぶことになるガビランの自伝であり、周囲の人々に取材したエスノグラフィーを含む本だ。まるで『赤と黒』ばりに20世紀後半のペルーで農村部の先住民が生きて行くには聖職者か軍人になるしかない、でなければSLに加わるか、というような社会構造が透けて見えそうだ。


インディアス群書の15。1984年に配本の始まったこのシリーズも、残りは3冊のみのようだ!