大学でいくつか仕事を仕上げ、行ってきた。
もちろん、ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』(1992)でマルメロを描いていた、あの画家のことだ。「グラン・ビア」という、文字どおりマドリードの目抜き通りグラン・ビーアを描いた絵などで知られる(ザ・ミュージアムのページにはこの絵が掲載されている)。エリセは来日時、ロペスが(ジャスパー・ジョーンズらの)スーパー・リアリズムと比較されるのだなどといっていた。いかにも、実に写真を切り取ったようなリアルな筆致で有名。入場券になった「マリアの肖像」にしても、「グラン・ビア」にしても、写真かと見まがうほどだ。
が、ぼくはそれと意識してロペスの絵を見るのは初めてだと思うが(長崎県美術館に行ったときには「フランシスコ・カレテロ」は展示されていなかったと思う)、何と言うのだろう、特にマドリードを描いた一連の大きな絵など、息を呑むほどに写真的なのだが、近づいてみると、紛うかたなき油絵の筆致。なんだかその質感というか手触りというか、それがはぐらかされるのだ。
たぶん、このマジックこそがロペスの面白み。今回の展示品では「死んだ犬」(1963)や「眠る女(夢)」(1963)、奇しくもぼくが生まれた年に描かれたこの2点に集約される、不思議な現実感覚が驚きだ。
私が実際のモデルを前にしているとき、もし私が何かを描かなくてはならなくて、その写真を与えられたとしたら、そのプロポーションを写すのに、私は三〇分で済ませてしまうでしょう。私にとって最初はとても簡単なのです。私にとって難しいのは、光を当て、大きさを決めることです。まさしくそれは、写真が決して私に与えてくれないものなのです。(略)私が言いたいのは、写真を撮っても、写真はデフォルメするということです。写真はデフォルメします。経験から分かったのです。写真をこうして置くと、物が動き始める。(『アントニオ・ロペス――創造の軌跡』木下亮訳、中央公論新社、2013、144、145)
写真はデフォルメするのだ。絵とは異なる形で現実をデフォルメする。遠近法と光、色彩によってその現実を克服しようとしているロペスは、とても不思議な感覚を見る者にもたらす。