昨日報告した苅谷(2012)は、ついでに買った1冊なのだった。本当は、
苅谷剛彦『知的複眼思考法:誰でも持っている創造力のスイッチ』(講談社+α文庫、2002)
を求めて行ったのだ、本屋には。
ぼくの勤める東京外国語大学では今年から「基礎演習」という授業が始まった。1年生の秋学期に全員必修の授業だ。大学での勉強の仕方、論文の書き方などを訓練する授業だ。ぼくは担当していないけれども、この授業の準備をするWGのメンバーだ。その集まりが昨日あって、そこでの資料にこの書名を見いだし、これだけは読んだことがなかったので、買い求めに行ったのだ。
まさに外語に勤め始めたころ、2004年当時のノートを見返す機会があった。ぼくはその年と翌年、集中して大学論や大学の授業の進め方、論文の書き方、などに関係する本を読んでいたようだ。学生たちのレポートのできがあまりにもひどくて、「論文・レポートの書き方」なんて小冊子を作って大学の個人ページにアップしたりした。その参考に読んでいたのだろう。そんなわけで、「基礎演習」の授業について考えるときに名前の挙げられる本にはたいてい、目を通していた。が、この苅谷(2002)は未読であったという次第。だから、買ってきた。
論文の書き方というよりは、そのための設問の立て方に役立てられるような考え方の訓練の書だ。
話はずれるが、この第4章「複眼思考を身につける」の3「〈問題を問うこと〉を問う」「ステップ1 問題のはやり・すたり」(334-344ページ)では注目すべき指摘がなされている。
ここで苅谷は1989年と1996年、ふたつの少年恐喝事件の新聞記事を比較し、「いじめ」の語が後者にだけ使われていることに注意を促す。それから『広辞苑』の76年版(第2版改訂版)、83年版(第3版)、91年版(第4版)を引き、91年版のみに「いじめ」の語が出ていることを突き止めるのだ。つまり、「いじめ」というのが学校内外における就学年齢児の暴力、恐喝事件等をさすようになったのは、90年ころなのだ、と。
そして逆に、いったん「いじめ」という語が定着すると、なんでもかんでもそれに結びつけるようなレッテル化、ラベリングが進行すると。
ところで、苅谷はだいぶ早い時期(46-47)のコラムでロラン・バルト『神話作用』を挙げ、彼の神話作用とは「歴史を自然に移行させる」ことだとの言葉を紹介している。「いじめ」という語はこのように歴史化可能なのだが、そういった意識を抱かず、それを自然と感じてしまうことが、つまり神話化だ。だからこうした「自然」な概念を歴史化することは、脱神話化。「いじめ」の脱神話化を行っているという次第。
そういえば、90年ごろ、ある「いじめ」による自殺事件を受け、蓮實重彦が新聞紙上で個別の刑事事件相当の犯罪をそんな語で糊塗して反応を誤ってはいけないと指摘したことがあった。その文章にぼくは目から鱗が落ちる思いをしたのだった。爾来、恐喝や暴行を「いじめ」と、強制わいせつを「セクハラ」と表現する婉曲語法を意識するようになったと思う。