2022年12月21日水曜日

えぐられる肉体

子どものころ、掻爬という言葉の意味を知ったときにその生々しさ(「生々しさ」という言葉では表しきれないような痛み。肉体を削り取られる痛々しさ)にショックを覚え、その痛々しい感覚のままに頭にこびりついたものだ。そんなことを思い出させる映画を観に行った。映画の日で1200円だった。


オードレイ・ディヴァン監督・脚本『あのこと』フランス、2021、アナマリア・バルトロメイ他


今年のノーベル文学賞受賞者アニー・エルノーの「事件」菊地よしみ訳(『嫉妬/事件』堀茂樹・菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫、2022)の映画化作品。エルノーの経験に基づく(オートフィクションなどと称される)話で、人工妊娠中絶が法的に禁じられていた時代(小説の設定は1963年)のフランスの、地方都市の大学に通う女子学生が妊娠し、中絶の道を模索する話だ。飲食店の娘である彼女(映画の中の役名はアンヌ・デュシーヌ。バルトロメイが演じている)は卒業後教師になり、ステップアップすることを望んでいたので、ここでドロップアウトするわけにはいかないと思っていたのだ。


人工妊娠中絶の痛々しさ、そこへ向かうアンヌの焦り、大学都市の寮の雰囲気、いかにもフランス映画の大学のシーンに出てきそうな教室の雰囲気。映画がその観客による「体験」の感覚を謳うのはこうした要素の積み重ねによるものだろう。


ところで、これ。



よしだたくろう(吉田拓郎)『今はまだ人生を語らず』(CBSソニー、19742022


一曲目の「ペニーレインでバーボンを」に「テレビはいったい誰のためのもの/見ている者はいつもつんぼ桟敷」という歌詞があり、そのために長いこと再生することができなかった。CBSCBS時代の拓郎の全曲集を出したときはこの曲だけ外され、全てのアルバムがシャッフルされて再編されていた。2006年のつま恋でひさしぶりに歌ったときには「見ている者はいつも蚊帳の外」と歌詞を改変して歌った。


このたび、拓郎の引退宣言をきっかけに、「ペニーレインでバーボンを」のオリジナル歌詞もそのままに、74年のアルバムをリマスターして発売するというので、買ったのだった。パネルつき特別版(左下)。僕はもともとのオリジナルのアルバムを持ってはいたのだが、もうなくしてしまったので。


ところが、ふと気になってわが家のCDをかき回したところ、見つかった。CBSソニーが「CD選書」のシリーズ名の下に1990年ごろにリリースした『元気です』、『ライブ ’73』とともにこれを買っていたのだった(左上)。


そこまでのコレクターではないので、CD選書版は、よかったら、どなたかに差し上げます。ご連絡ください。


そして、去年の大晦日に見た映画、國武綾監督『夫とちょっと離れて島暮らし』(リンク)DVDが発売されたので、買ってしまった(右)。


2022年12月20日火曜日

ジョニー・アッベスの鞄

授業で以下の小説を読んでいる。


Mario Vargas Llosa, Tiempos recios, Alfaguara, 2019.


仮に『難儀な時代』と訳しておこう。1950年代、軍政を脱却して民主化され、農地改革などによって近代化の道を歩もうとしていたグワテマラを、ユナイテッド・フルーツとCIAが共謀して共産主義の、ソ連の橋頭堡になろうとしているとのキャンペーンを張った上で再び軍政化する話。民主的に大統領に選ばれて農地改革を進めたものの退陣させられるハコボ・アルベンス、その彼に恨みを抱いてCIAと手を組み、「解放軍」を名乗って政権転覆、その後大統領になるものの暗殺されたカルロス・カスティーヨ=アルマス、彼の愛人になるマルタ・ボレーロ、その家族、らの半生と、カスティーヨ=アルマス暗殺に関与したかもしれないエンリケ・トリニダー=オリーバやジョニー・アッベス=ガルシーアらの暗躍が交互に描かれてバルガス=リョサらしい展開だ。


さて、最後に名をあげたアッベス=ガルシーアはドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーヨの秘密警察SIMの長官だった人物(カルロス・カスティーヨ暗殺にトルヒーヨが関与していた、という解釈なのだ)。つまり、この小説はまた『チボの狂宴』(2000/八重樫克彦、八重樫由貴子訳、作品社、2011)の続編というか、姉妹編というか、スピンオフというか、そんな趣もある。


トルヒーヨ暗殺後、SIM長官の職を解任され、日本大使館に飛ばされるジョニー・アッベスに関しても『チボの狂宴』で描かれているのだが、そこでは大統領ホアキン・バラゲールの視点から描かれていた。ところが今回はアッベスの立場から、もう少し詳しく描かれているのだ(XXX章)。大統領との会見の翌日、カナダ経由で日本に発つことになったアッベスは、こう叙述される。


 彼についての伝記や新聞記事、歴史書に現れる最後の写真(ただし彼はその後何年か、あるいは何年も生きながらえるのではあるが)は、この日の朝、カナダ行きの飛行機の搭乗口に向かう際に撮られたものだ。そこでの帽子をかぶった彼はそれ以前の写真ほど太っても膨らんでもいないようだが、私服姿、暗い色のネクタイに細身の三つボタンのジャケットを二つ掛けにし、大きな書類鞄を手にしている。まったく不釣り合いな白い靴下が、SIM長官は上品さなど微塵も知らぬ出で立ちだとのトルヒーヨ元帥の言葉を裏づけている。(295-96


 授業は10回から12回でこの小説を読み終えるという主旨のもので、毎回、参加者が内容をまとめて報告し、疑問点などを協議するというものだ。必然的に一度に30ページばかりを読むことになる。今日、このページを担当した受講生がハンドアウトにこの写真を貼りつけてきた(リンク)。現実の出国直前のアッベスの写真だ。小説での記述そのままである。この細部は『チボの狂宴』にはなかったもの。

(ちなみにこのリンクを貼った記事には、アッベスがその後ハイチに行き、デュヴァリエに仕えたとの説が紹介されている)


さて、バルガス=リョサはただ「大きな書類鞄」と書いているが、その手に持っている開口部ががま口式のその鞄は、Top Frame Briefcaseとかローヤーズ・バッグ、ドクターズ・バッグとも呼ばれるが、日本では圧倒的にダレスバッグとして知られている。ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官として戦後の日本に来日した際に持っていたので、そう呼ばれることになったバッグだ。そしてダレスこそはサンフランシスコ講和条約後、奄美群島の日本本土復帰を「クリスマス・プレゼント」の言葉とともに伝えた人物であり、その後、弟のCIA長官アレン・ダレスとともにグワテマラへの軍事介入を強行した人物だ。もちろん、『難儀な時代』にもたびたび登場する。


たぶん、ダレス・バッグはこの時代、あるいは一般的な書類鞄だったのだろう。けれども戦後の日本においてはその名を得ることになるほどに印象的に映ったらしいダレスとの繋がりを考えると、アッベスが国を追われるようにして去る(小説の中では日本にということになっている)際に手にしていた鞄には、もう少しの形容詞節がついてもいい。



写真上:僕の愛用するヘルツのソフトダレスバッグ(リンク)。永遠の定番。

また間が開いてしまったのだ

12月16日(金)には大原とき緒監督・主演の短編映画 Bird Woman を観に行ったのだ。シネマ・チュプキ・タバタで。


僕はこれの制作ためのクラウド・ファンディングにも参加したのでオンラインで見ることもできたのだが、小さいながらもスクリーンで、アフタートークつきで見られるし、田端は比較的近い(歩いて行けるし、実際、歩いて行った)ので、出かけていったのだ。


通勤電車での痴漢に悩まされている女性とき(大原)が友人のアーティストの作った鳥のマスクをかぶり、「バードウーマン」を名乗って電車内の痴漢を撃退、女たちの共感を得ていくという20分ほどの話。


最初に着替える(変身する)場所が都内に2箇所ほどあるらしい透明のトイレ(鍵をかけると壁が白濁して中が見えなくなる)であるところが、僕が気に入った点のひとつ。スーパーマンが電話ボックスで変身することの向こうを張っているのだ。


翌17日(土)、立教の授業後、受講生の方からその存在を教えていただき、昼は他の用があったので、それが早めに終わったからソワレには間に合ったので観に行ったのが、


神里雄大作・演出、『イミグレ怪談』岡崎藝術座東京公演@東京芸術劇場シアターイースト。上門みき、大村わたる、ビアトリス・サノ、松井周出演。


英語、スペイン語字幕つきの劇は、そのスペイン語のタイトルをHistorias de fantasmas inmigrantes という。3人の移民幽霊たちの話だ。


戯曲の段階では登場人物たちは番号で示され、それぞれ一人称はeu、二人称はvoce とポルトガル語で書かれている。さすがだ。ただし、上演にあたっては名前は「それぞれの俳優の名で演じられる」し、人称代名詞は「普段使うもの/使いたいもの」を使うとの指示である。実際、松井周は松井周を名乗っている。


沖縄とブラジル及びボリビアの移民に加え、ラオスへの移民を扱い、神里のふたつのルーツに第3極が加わったというところだろうか。そのラオスがヴェトナム戦争の影をいまだに引き摺っていることが語られ、「似たような話」を抱える沖縄と繋がる。

2022年12月4日日曜日

久しぶりなのだ

だいぶ長いことブログの更新を怠っていた。


いろいろと心を悩まされることがあって……というのは嘘で、単に愚図にしていただけだ。「していた」と過去形で書いたが、これから先もその愚図に陥らないと決まっているわけではない。


さて、そうは言っても最低限の仕事はしていた。


たとえば、これ。


ペドロ・アルモドバル『パラレル・マザーズ』(スペイン、フランス、2021。これの劇場用パンフレットにちょっとした文章を書いた。その一部が宣伝用コメントとして使われたりもした。


病院における子どもの取り替えの物語と思わせておいて、実際は1) 子どもや親といった関係が血縁による必要はないこと、 2) 劇中で演劇が用いられていること、の2点において『オール・アバウト・マイ・マザーズ』(1999の続編と言っていい。


一方、特にスペインの歴史との関わりを明示する必要のなかった前作との差異は、この作品のもうひとつのプロットであるスペイン内戦時の無縁仏(「仏」という語が彼らにふさわしいかどうかは別として)の発掘と再埋葬の作業に存する。内戦中ならば敵対する側であっただろう2人の母親が一度は子を取り替え、その後、それぞれにふさわしい子を持った上で和解し、無縁仏を手厚く葬るラストは、親子関係と国家の歴史(伝統)の類似と差異を暗示しているようでもある。


アルモドバルに特徴的な(カメラのホセ・ルイス・アルカイネに特徴的というべきか?)真上からのショットというのが少なかったという指摘をネット上で見かけたが、なるほど、言われてみれば1カットだけだったかもしれない。でもまあ、衣装やセットは相変わらずすばらしい。


つる子と二葉は相変わらず追いかけている。1118日には二葉の東京での独演会@日本橋公会堂に行ってきた。「子はかすがい」は2度目だが、巷間言われている子どもの役のうまさもさることながら、実はおかみさんの役割に独特の色気を出しているのだと気づかされた。女物の着物を着ていることもその一因だろうか?


またしても(去年に続き今年も)NHKの新人落語大賞、3位くらいの点数で大賞獲得ならなかったつる子も、今度、念願の「芝浜」おかみさんバージョンを聴きに行く予定だ。


今の家ではフレッツ光を使っていたのだが、今年に入ってから接続が悪くなっていた。一方で母の家などネット環境のないところに行くことも増えたので久しぶりにモバイル・ルーターを手に入れた。使ってみると家の中もこれ1台で充分用を果たすことが確認された。それで光を解約し、家の中でもモバイル・ルーターで済ませることにした。


もうひとつ最近の出来事としては、Audible を導入したことがあるだろうか。アマゾンの主宰するオーディオブックだ。サブスクリプションで聴き放題というのがあるので、たとえば、買うだけ買って積ん読中のものを、隙間時間に読み聞かせしてもらったりしている。なかなかいい。


ところで、原文に「視線」とあるのにそれを「めせん」と読む事例があった。「しせん」ではなく「めせん」と。俗語(かつての映像業界の俗語)「めせん」の横暴はここまできているのか?