2012年7月24日火曜日

フィルム交換を知らせる染みを、久しぶりに見た


行きたくてもずっと行けなかったホセ・ルイス・ゲリン映画祭@イメージフォーラムを、やっと観に行った。2本だけだ。

『影の列車』(1997)

1920年代後半の映写マニアの晩年を、彼が撮った家族のスナップ(リュミエール兄弟がよく撮っていたような)を80年後に再編集しながら再構成する、という形式。20年代のフィルムというのも、もちろん、ゲリンが撮って引っ掻いたりして(なのか?)古いフィルムのように加工したもの。現在の映像は、窓枠、半開きのドアの向こうに見えるポートレート、鏡、水面に映った月、雷雨、自動車のヘッドライトとそれでできる陰影、等々、映画が100年かけて作ってきたトピックと、それを表現する撮影技術の粋を凝らして作ってある。編集作業中の私たちがフィルム内の人々の視線、手品のネタ、影、鏡などから、画面にはいないけれども存在してるはずの撮影する「私」を想起していく、一種メタ・シネマ的映画。

これだけの映画史を描きたげなゲリンが、『シルヴィアのいる街で』でも存分に発揮した、音声録音と再生のうまさを、ここでも既に発揮しているゲリンが、ここにただひとつ入れなかったものは、セリフだ。

結論として、映画はセリフなしでもなり立つのだ、と言えそう。

『ベルタのモチーフ』(1983)

作家のデビュー作。少女が村はずれの家に住みついた異者に魅入られ、それまでの人間関係から離れて成長していく話。

と書けばビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』を思い出す人も多いらしい。

冒頭のふたつめシークエンスは、ベルタ(シルビア・グラシア)が隣人イスマエル(ラファエル・ディアス)のトラクターに乗せられ、ある村に入っていくというもの。手前には村の名が書かれたプレートがかかっている。

次のシークエンスは地平線まで続くうねりのある草原をベルタが走っていくというもの。"Ber-ta" という2音節の名の呼び声が聞こえる。

ほらね? 『ミツバチのささやき』でしょ? 

結論:すぐれた作家は紋切り型を恐れず、他者が切り拓いたトピックを堂々と引き受ける。

それでいいのだ。だからこそぼくらは映画に引き込まれるのだ。

もちろん、ベルタが走る草原はアナが走る草原よりも高い草に覆われており、ベルタの方がはるかに大人だということがわかる。アナより大人だからもっと淫靡だ。もっと生々しい。

水が印象的でもあった。

2012年7月21日土曜日

そしてやっぱり映画を見よう


ガストン・ドゥプラット、マリアノ・コーン『ル・コルビュジエの家』(アルゼンチン、2009)を試写会に呼んでいただいて、見たのだった。トレイラーはこちら

傑作だ。いや、傑作というか、何というか、しゃれた、スタイリッシュな映画だ。

白と黒に二分割された画面から始まるオープニングが、すでにしゃれている。黒い部分をハンマーで叩くと、白い部分からセメントくずが落ちていくので、これが表と裏を表しているのだということがわかる。やがてポッカリと穴があき、しゃれた始まりだと思った自身の価値判断が恥ずかしくなるような、一種、暴力性とでも呼ぶべきものがむき出しになる。先入観にポッカリと穴があくのだ。

うむ。やるな。

ブエノスアイレス州ラプラタに実在するル・コルビュジエ設計になるクルチェット邸に住むデザイナーのレオナルド(ラファェル・スプレゲルブルド)が、壁に窓用の穴を開けた隣人ビクトル(ダニエル・アラオス)に悩まされ、侵食され、脅され、なったつもりもないのに友だちだとされて友情を押し売りされ、……というコメディ。コメディでなければ隣人の脅威の向こうに見え隠れする暴力の話。かと思いきや、最後の10分くらいで急展開。そしてやはりしゃれた感じのエンドロールが現れると、唸らずにはいられないのだな。傑作だ。いや、スタイリッシュな映画だ。

原題はEl hombre de al lado 『隣の男』。ビクトルの恐さに焦点を当てたタイトルだ。邦題はクルチェット邸でオールロケのデザイン性を強調しているという次第。ガラス張りの壁越しにロングショットで屋外が見えるシーンで、手前の、焦点から外れた位置に同じくル・コルビュジエのシェーズ・ロングが置かれていたりするところなど、細部の作り込みが、この題を決定させたのだろうな。レオナルドがデザインして彼を有名にしたという椅子も実在するデザイナーによる実在する椅子だ。これがまたすてき。

最後の展開は、もうすぐ邦訳の出るセサル・アイラなどを彷彿とさせる……と、さりげなく宣伝しておこう。

どさくさに紛れてもう一言、宣伝するならば、ビクトルがアルベルトに差し出すイノシシのマリネ、この扱いは去年邦訳の出たカルロス・バルマセーダみたいだ。アルゼンチンはアイラ的なものとバルマセーダ的なものが混然となる物語に満ちている?……

牽強付会だが。

演劇も見よう


燐光群の公演『宇宙みそ汁/無秩序な小さな水のコメディー』@梅ヶ丘BOXに行ってきた。

2本立て、というか、2本目の「無秩序な……」はさらに「入り海クジラ」、「利き水」、「じいらくじら」の3本から成り立つオムニバスなので、4本立て? みたいなものだ。

ぼくが坂手さんからときどき見に来いと誘っていただくようになったきっかけは、一昨年、大学で開催したシンポジウム。そのときの録音がまずくて、残念ながら活字にできていないのだが、ともかく、そのとき、例えばデイヴィッド・ヘアー『ザ・パワー・オブ・イエス』のようなドキュメンタリーらしきものを劇に仕上げる要素は何なのか、と問いかけたのだった。坂手さんは舞台に上げる、それだけで劇になるのだと応えて印象的だった。

で、今回の「宇宙みそ汁」、なるほど、俳優を舞台に上げて詩を読ませたらそれだけで劇が成立するのだということが納得できる。清中愛子の三田文学賞受賞の詩や、その他、『宮の前キャンプからの報告』所収の詩だと思われるものを円城寺あやをはじめとする俳優陣が読み、動きをつける。すべてが清中の詩によって成り立っているわけではないと思うが(確認していない)、日記風の詩のようなものによって語られていく世界は、展開の速いオムニバス形式の、確かに演劇のようだ。

2012年7月16日月曜日

もっと映画を見ようよ


やっと見に行けた。ペドロ・アルモドーバル『私が、生きる肌』(スペイン、2011)

これは2011年の作品で、舞台は2012年のトレードということになっているから、いわば近未来SFだ。

別に2012年が舞台でなくとも、完全なる整形という不可能なことを扱っているのだから、SFだ。アントニオ・バンデーラスが復讐と亡き妻への忘れがたい思いを実現するために秘密の整形手術を行う話。

ロベール(バンデーラス)の暮らすシガラル(別荘)にはティツィアーノの絵が二枚掛かっている。いずれもカウチに横たわるウェヌスを描いたもの。そのウェヌスの仕草をなぞるようにカウチに寝そべるベラ(エレーナ・アナーヤ)を、モニターで覗くロベールが、ちょうど対称を描きながらカウチに座るとき、その2枚のティツィアーノをなぞって美しい。この構図に魅入られると、もう後はアルモドーバルの世界だ。クイアでジャンキーでメロドラマ的。

アルベルト・イグレシアスの音楽も美しい。

2012年7月15日日曜日

消えた小顔ポーズ


前回、掲載しようと思っていて忘れた写真。『文藝年鑑2012』、新潮社。ここにラテンアメリカ文学の2011年を振り返っている。

Facebook上である学生が、中畑、篠塚、原の写真入りのジャイアンツのウチワの写真を掲載し、このころにはもうピースサインがあったのだ、と驚いていたので、よせばいいのに、教師根性からコメント。何を言っているのだ、Vなど、連合国軍の兵士がしていたサインだ、と示唆。だいぶ驚いていた。

連合国側が勝利のVを指で作って突き出していた映像なら、いくつも残っていると思う。たぶん(うろ覚え)。カルペンティエールは『春の祭典』でVが氾濫していたことを書き残している。このVサインが、ヴェトナムのころには平和のピースサインになる。68年ころを扱った『ノルウェイの森』では、みどりが主人公に向かって、「ピース」と言いながらVサインを作るシーンがあった。このころからピースは定着していくはずだ。

学生へのコメントで80年代にはみんながピースサインを作っていた、と書いた後できになって、80年代半ばの写真を見直してみた。みんな、というほどではなかった。平均すれば半数ほどがピースを作っている、というところだろうか? 

つらつらと思い出すに、プリクラなどが出てきたころ、女の子たちが両手を広げるポーズをやたら作っていたのではなかったか? そのほうが顔が小さく見えるというのだ。その勢いに圧されて、確かに一時期、カメラに向かってピース、は少なくなっていたように思う。それがいつからか、また形勢逆転、今では両手を広げるポーズなど見ることもない。代わりにかつてよりもはるかに高い確率で、皆がピースを作っている。

気になるのだ。気になってきたのだ。両手を広げるポーズ、これが消えたのはいつだ? どのように消えていったのだ? このポーズのはかない隆盛は、ぼくが今書いたように、プリクラの普及に対応するのか? 

おそらく、くだんのFacebookの学生は、この両手を広げるポーズからの形勢逆転でピースが席巻するようになった時代にこのポーズを内面化していった世代なのだろうな……と思っていたら、その人物からのさらなるコメントが。彼女が中学生くらいのときに両手を広げるポーズは消えていったのだそうだ。

消えたポーズが気になる。今度写真を撮るときにやってみよう。脇を締めるようにして腕を前に突き出し、手のひらを広げる、あのポーズ。

2012年7月14日土曜日

小田急線の電車に乗って


藤沢の鵠沼高校に出前授業というのに行ってきた。高校1年生を相手に、いくつかの大学の教員が体験授業や大学の説明やらを行うという催しに参加してきたというわけだ。乗るはずだった小田急線特急ロマンスカーが前日からの雨の影響で運休(ぼくはつくづくと雨男だ)、やきもきしたが、事なきを得ず、ひとつの素材を基に、グレードによってどんなアプローチをしうるか、という話をしてきた。

今どき、大学の教員はそんなことをしなければならないのだ。この話を持ち込まれたとき、断るための正当な理由がなかったので引き受けたのだが、そうしたら次から次へと同様の授業の打診が来た。授業日のものばかりだったので、さすがに断った。断ったはいいが、ということは、これまでこの種のことを誰かがやっていたし、ぼくがやらなければ他の誰かがやることになるということだ。

大変だなあ、……

などと考えながらくだんの高校に行ったら、いただいたパンフレットの中に、「オープンスクール」のお知らせ。

うむ。高校は高校で中学生に対し、こんなことをやっているのだった。どこも大変なのだった。

高校生たちは、素直で元気で、まあ好印象だった。同時に、大学1年生ともそんなに大差はない印象。質問を受けつけたところ、「彼女いますか?」と来た。こういうところは、さすがに高校1年生だ。

君ね、その話をすると、君は泣くぞ。大人というのがどれだけの失恋の涙の上に生きているのかがわかって、大人になるつらさに泣くぞ、というのがぼくの答。

2012年7月4日水曜日

自転車に乗って


セサル・アイラについて書いた『毎日新聞』「新世紀世界文学ナビ」の記事が掲載された。

今日は会議の数が少なかったので、立川でチェオ・ウルタードとアンサンブル・トラディシオナル、フィーチャリング・ダビー・ペーニャを見に行った。6月末の土曜日は東大の駒場キャンパスでのトーク&コンサートに行ってきたので、今回は二度目だ。

ぼくは考えてみたら、チェオ・ウルタードは演奏しか聴いたことがなかったのだったが、今回は彼のヴォーカリストとしてのすばらしさも堪能できる。充実の2時間であった。

入り口でクワトロが売っていた。5万円だった。だいぶ悩んだ。

帰り道、雷のような音が聞こえていた。あれはおそらく、花火だ。

2012年7月1日日曜日

6月もエントリーは8記事だった


ウンベルト・エコ『論文作法:調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳、而立書房、1991

なんてのを、必要性があってぱらぱらと捲ってみるのだが(もう何度目だろう)、これについて、2つばかり。

まず、傍系の、非本質的なこと。谷口勇訳のウンベルト・エーコはすべて「エコ」という表記になっている。オンビキ(ー)がない。使用するインクの量が少しだけ少なくて済む(エコ?)というわけだ。他のエーコは「エーコ」とオンビキ入り。

まあ「エコ」/「エーコ」の違いくらい分かっているからいいけれども、近年では検索エンジンでの検索結果に影響しないか心配だ。でも逆に、最近はそれくらいの揺らぎは認めて拾ってくれるのかもしれない。時々、間違いでない表記も、気を使って訂正してくれたりするものな。

ぼくも「カルペンティエル」や「コルタサル」が主流の昨今でも「カルペンティエール」「コルターサル」とやっているのだから、人のことは言えないのだが、趨勢に反した表記を主張し続ける人の性格が忍ばれる。あ、ただし、ぼくはオンビキを省く趨勢に反してオンビキを書いているのだが、谷口さんはオンビキを入れる趨勢に反してオンビキを省いているから、向きは逆だ。

第二点。まあぼく自身の目下の感心に影響されるのだろうが、時々、とても警句的な文章に出くわす。そして膝を打つ。

 (略)それというのも、学位志願者が、神の問題とか、自由の定義の問題とかを僅か数ページのスペースで解決できるものと思い込むからである。私の経験からいえば、この種のテーマを選んだ学生はほとんど決まって、学問的研究によりも抒情詩に近い論文、評価に値する内的組織づけもない、ごく短い論文を書くのが常である。
 そして、よくあることだが、学位志願者に対して、「君の論述はあまりに個性化されており、一般的、略式であり、歴史記述的な検証も引用も欠如しているね」と異議を述べると、「ぼくの真意が理解してもらえなかったのです。ぼくの論文は、ほかにごろごろ見かける陳腐な編纂の練習みたいなものよりもはるかにましですよ」との応答がかえってくるものである。
 なるほど、そういうこともあるかもしれないが、またしても経験の教えるところによれば、こういう受け答えをする学位志願者の考えは決まって曖昧で、学問上の謙虚さに欠け、伝達能力が乏しいのが常である。(18-19)

こうした一節を読んで、耳が痛い思いをしたのは、修士論文を書いている最中のぼくだったとしてもおかしくないわけだ。あるいは、てやんでえ、俺はそうではないや、と思ったか? で、今では、むしろエーコの側に立って、まことにそのとおりだ、と唸っている次第。