2010年12月31日金曜日

年の瀬に思う/思わない

先日、友人と話していて、これがとてもいいのだと話題に出ていた、Diccionario de americanismos (Asociación de Academias de la Lengua Española / Santillana)。話を聞いた翌日に注文して、もうやってきた。いつもながらのスペイン書房の迅速な対応には助かる。年の瀬だというのに。

残念なのは、今はこの辞書が活躍しそうな仕事でなく、なんでこんなことまで俺がやらねばならないのだ、という種類の仕事に追われてその有用性を充分に確認できない。我が身の不幸を嘆く。環境を呪う。

いろいろな人がブログやツイッターで今年をまとめようとしている。ぼくはそんなこと、できない。それどころではないし、そもそもそんな気はない。どうせ3ヶ月後にまた区切りがやってくるのだし(学年末)。

そういえば、先日観た『人生万歳!』は、いろいろあってくっついたり離れたりした幾組かのカップルが揃って新年を迎えるシーンで終わるのだったが、そこで主人公のラリー・デヴィッドが、「正月の何がめでたい? またひとつ年を取って死に近づくことか?」というようなセリフを吐いていた。

どこかの僧のようじゃないか、と思ったのだが、それが誰の言葉だったのかが思い出せなかった。「門松は墓場への一里塚」。どうせ、一休とか雪舟とか沢庵とか、その種の子供向け読み物の主人公になりそうな人物の言葉としてぼくは認識したに過ぎないはずだが(だからこそ、本当にそれはその人が言ったことなのか、怪しいものだが)、ともかく、この言葉、正月でひとつの年を迎える、いわゆる「数え年」のシステムだから成り立つ考え方だと思っていた。それが、同様の考え方がウディ・アレンの映画の主人公の口から出てきたのだから、驚いたという次第。

ぼくは、ともかく、3月が区切りだと思っているので、まだ年は取らない。

2010年12月30日木曜日

関わりたいにもかかわらず……

ツイッター上で紹介されてこんな記事を読んで、それはそれで面白いと思ったのだが、にもかかわらず、……引っかかってしまうんだな、なんというか、とても細かいことに。……にもかかわらず。

「にも関わらず」だ。引っかかってしまうのは。今、この誤字があまりにも氾濫している(先日、これが誤字であることを卒論の学生たちに指摘したら、心底驚いていた。感動すらしていた)。この連語は、今どきの活字メディアでは開いて(つまり、平仮名で、という意味)使用するのが主流だと思うのだが、あえて漢字で表すなら「にも拘わらず」だ。『広辞苑』でも『大辞林』でも『大辞泉』でも『日本国語大辞典』でも、この字か、せいぜい、それに加えて「にも係わらず」という漢字が載っているだけだ。「にも関わらず」なんて、ない。「関係する」からの転用だろう、「関わる」としては出てくる。それの打ち消しだから「関わらず」だと思ってこの字を使うのだろうが、ともかく、主な辞書には登録されていないのだ。だからぼくも「こんな誤字には関わらず読み飛ばす」という用法なら気にならないけど、「誤字であるにも関わらずよく使われる」なんて使用された日にゃ、肋骨の周りの神経がむずむずしてならない。教授会の資料などにこんな字が出てきたら、その場で赤ペンで訂正して、周囲の同僚たちに笑われたりする日々だ。

ま、ともかく、昨今の活字文化の主流は、こうした語は開くのだから、「にもかかわらず」としておけばいいのだよ。と、これだけ言っているにも関わらず……もとい! にも拘わらず……にもかかわらず、誤字は後を絶たないのだな。……おっと! 跡を絶たないのだな。

あ、ちなみにもうひとつ、おなじその記事の中で「ナイーブ」という語が出てくる。「アフターグッドは、理想に燃えるウィキリークス主催者側の姿勢を「ナイーブな人たち」と評した」と。引用元がnaiveという語を使っているのだから(I just think they're naive)、この「ナイーブ」(ぼくは「ナイーヴ」と書く)、「単純な」の意味だということはくれぐれもお忘れなく。「繊細な」の意味は英語にもその基になったフランス語にもない。そのことをわかって「単純な」の意味で使う人と、そうではなく、日本語で受け入れられているような「繊細な」の意味で使う人がいるから、ややこしてくしかたがない(にもかかわらず〔!〕、かく言うぼくも、「単純な」の意味で使用して話をややこしくすることがあるわけだが)。もういっそのこと、「ナイーヴ」なんて外来語は使わない方がわかりやすい、とナイーヴなぼくなどは思ってしまう。

2010年12月29日水曜日

詩的錯乱(delirio)とはこのことだ?

ちょうど暦の一回り、12年前、ぼくはギラン・バレー症候群の疑いがあると言われて入院した。そのとき、忘れないようにこのことの経緯を書きつけようと思って、病院のベッドでノートに書きつけた。その記録が、まるでシュルレアリストたちの自動筆記(オートマティスム)の詩のようだ。今では冷静に思い返すことができるので、書いておく。

不思議なことのみ多かりき。
1998年10/21(水)神田外語、授業中、いささかの疲れを感じる。前の週、発表準備のために、たいした風邪でもないのにサボったのがたたったのか? ーー帰途、電車の席に座って読書した(眠り込んだ)のはもっと直接に作用したろうか。ぼくは風邪をひいてしまった。
翌日、法政を休講し、医者へ。……医者に連れるからといって、必ずしも適材適所に切れるわけでもない。T家の機能、「伝統」の継承ーー支離滅裂になった。26(月)早稲田、27法政、28(水)神田外語を休講にし、29(木)法政へ出講。学生たちに惨々にいたわられる。風邪というよりはその後遺症という感じ。体はいうことをきかず、まっすぐ歩行できず、反動が追い越してゆく。ーー結局、1、2限ほとんど授業をせず、2限、法政側、ぼくとアメリカン・スタイル・ファミリー・ダブルス。を引き出そうなんざ、……あほうが、よほどCono Surについてのお化けは抜き述べね。術が法政はよほど←You Teach は目を覚めるほどこれだけすごい連中Only Only You Only You?  の中に隠していたことは、連鎖はどうなった……連陵寧夢辺中程レイバばかりだぼくは関連多料業のひっぱられるかという柳原孝敦

奇跡とは邂逅だ。ぼくは邂逅を求め街を歩く……偶然というのは1/nの出来事なのだから、n のうちにはいらなければならないのだ。ーーところが、よほど疲れたのか、ぼくの体は絶対必然の雲の中を漂うーー10/30に寝る。翌日はタクショクで学会だったが、K(注:これは実名)に行かないのか、案内しろと、電話でさいそくされる。しかし、異常なまでにつかれていたぼくは、電話を切り、無視……ーー目が覚めた。夕方の鈍い光が重いカーテンの向こうに認められる程度のわかりにくい瞬間 夢。ちくしょう。何時だよ、と呟いたかどうか知らないが、とにかく、そう呟きたくなるほどに、ぼくは直前の記憶と現在の時空の近接性を疑ってはいない。しかし郵便受けにたまった新聞の数は、ぼくに経過した日数を過ちなく告げていた。5枚……5部はあるかに見えたそれらの新聞を、最初から辿り直すでなく最終日付を確認するでなく、コンビニで買った弁当を食いながら、ただ、ばくぜんと数日を眺めるだけだった。この事実が、早稲田と神田外語の授業をすっぽかしたことを意味するという避けがたい認識と共に、新聞の最終の日付が11月4日(水)であることをぼくが確認するとほぼ同時に『ニュース・ステーション』のオープニングが日付を告げた。

11月11日(水)MRI検査をする。テクノロジーの最先端というのは、森の中のようだった。しかし、あんなペースであんな被験者を苦しめるのなら、まだテクノロジーもーー
脳や体の断面、断片をうつすこのMRIというのは、受ける立場から言えば、首を固定され、非常に狭いドームの中に入れられ、きつつきの音を人工音にしたような、工事中の電動ドリルの音でもあるような、そんな音がそのドーム中を走り回る。ぼくらがやるべきは、気が狂わないよう、なるべく頭を殺すこと。

そしてまた、なんと言っても、長い! 小一時間ばかりもそんなことをさせられちゃあ、本当に気が狂いそうだった。
淀川長治 死亡。

どうだろうか? がんばってまだかろうじて論理に踏みとどまっているだろうか? 最初の区切りの前に名前を書いたのは、書類の署名のつもりなのだろうか? そして今思い出したことは、ここに書かれていない10/25には当時の東京都立大であるワークショップに参加し、ひどく具合が悪かったので、自分の発表だけして帰り、10/30には人事関係で面接をひとつこなし、11/7(金)に法政の事務の人の勧めにしたがって診療所に行き、そこから病院に直行と相成り、即入院、その晩に11月11日という日付以前の部分を書いたということだ。この4年後、ぼくはパニック障害に陥る。つまり、このときからの12年間は、ぼくにとっては、失われた12年間なのだ。暦の一巡、ぼくは生きずして生きてきた。

2010年12月28日火曜日

さらに張り裂けそうな胸

昨日書いた「胸が張り裂けそう」なノートには、ぼくの先生の死の前後のことも書かれている。ぼくは自身体調を崩し、師の死を知り、それからもうひとつ個人的にとても悲しい出来事に遭遇し、三重の意味で苦しかった。しかもそのとき患った病気というのが、自分はこのまま死ぬかもしれない、死ぬのは怖い、こんな怖い思いをするくらいだったら死んだ方がましだ、いっそのこと死んでやる、という矛盾した思考法をぼくに強いるものだったので、余計に、本当に苦しかった。その後、ぼくは4年間、抗鬱剤を飲んでつらい日々を送った。

それからも4年が経ち、ぼくはどうにか通常の体調に戻った(といっても、いろいろと失ったけれども)。しかし恩師は亡くなったままだ。ぼくたちは年中行事として、今年も、遺影に線香をあげに行った。先輩や後輩、友人たちを伴って。

ぼくがその「胸が張り裂けそう」な年のノートを見返したのは単なる偶然で、この年にこれらのことが起こったということを忘れていたのだけど、でもともかく、そこにある種の奇遇を読み取り、今年はことさら感慨深かった。

生き残った者の義務として、ぼくらは亡くなった人たちの記憶を、こうして毎年新たにしている。ぼくたちが死んだ後、ぼくたちの次の世代の者たちが、ぼくたちのことをこうして記憶してくれるかはわからないけれども、そしてぼくはその点に関して、かなり悲観的な観測を持っているし、それはそれでいいのかとも思うけれども、少なくともこういった価値観を植え付けられた者として、線香をあげ、手を合わせる。

2010年12月27日月曜日

社会主義について考える?

昨日、ノートを一冊使い終わり、新しいノートを卸そうとしたら、未開封のモレスキン・スモールがあることに気づき、久しぶりに小さいノートを携帯してみようと思った次第。やはり小型を使っていた2002-2004年、パニック障害で苦しんでいたころのノートを読んで、自分自身を哀れんで胸が張り裂けそうになったことも関係しているのかも。(右が胸が張り裂けるノート、左は映画のパンフ)

さて、社会主義について考える、と言っても、要するに、観てきたということだ。

ジャン-リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』(スイス=フランス、2010)
パンフレットも近年ではまれに見る充実の作品。さすがはフランス映画社配給。3部(3楽章)構成。第1部「こんな事ども」は豪華客船内の何組かのカップルや人々の情景。第2部「どこへ行く、ヨーロッパ」は田舎町の一家とTVクルーの情景。第3部「われら人類」は第1部に立ち返って話を一気にまとめる断片の数々。

つい最近、もうひとりのJ.L.G.ことホセ・ルイス・ゲリンが、サラウンド・システムのステレオを駆使して街の喧噪(つまり、ノイズ)を、嫌味にならないよう、端正に秩序立てて構築した世界にぼくは驚嘆したのだった。さて、今回、本家本元(というのはゲリンに失礼だが、少なくとも順番では)のJ.-L.G.、ジャン-リュック・ゴダールは、もう嫌味になることもいとわずノイズをノイズとして放置して、ぼくらに歴史を提供した。

タイトル・ロールからノイズは現れる。いかにもゴダールらしいおびただしい引用からなる本編のその引用の源泉を紹介する字幕の画面が2度切り替わるごとに現れるビープ音だ。これが耳障りで、3分ごとに痰を切っていた斜め後ろの老人のノイズが気にならなくなったほどだ。

豪華客船での船旅を扱った第1楽章では、海の青が鮮やかなデジタル映像を見せてくれているかと思ったら、突然、解像度が低すぎて輪郭さえおぼつかず、色もにじんだ映像が挿入される。あるいはかすれたり、コンピュータのCPUだかメモリだかの不足でフリーズしたような映像も出てくる。ノイズとは映像のそれでもあるということだ。

この第1部では、かろうじてスペイン内戦中、スペインからソ連に渡る最中の金が紛失した話を巡って、その鍵を握るらしい人物ゴールドベルクとその孫娘らしい人物らの会話がなされるのだが、突然の風の音や船内放送(サラウンド・システムを利用したノイズの氾濫)などによって話がかき消され、いったい何をしゃべっているのかわからなくなる。ノイズとはこうして意味を剥奪されたセリフの内容でもある。

こうした三重のノイズが、やがて意味をなしていくかのように思えるから、この映画は不思議だ。もちろん、ノイズとして立ち現れ、挿入される映像が『戦艦ポチョムキン』やら『オーソン・ウエルズのドン・キホーテ』(!)などからの引用であることは、あまりにもゴダール的でもある。どんなものが引用されているかは、公式サイトでも確認できる。引用ではないが、船の中の誰の部屋だったか、絵を描いている誰かの船室の机の上にはナギーブ・マフフーズの本が載っている。こういうところがゴダールだ。

ノイズの重なりが作り出す偶然のエピソードがふたつある。いずれもぼくの観ていた1回きりの出来事だ。終わり近く、船の甲板に吹きすさぶ風の音に混じり、映画館内のファンが壊れて立てる強い風の音が聞こえてきた。終わってから館内の人がお詫びを言っていたが、なに、これこそこの映画にぴったりの出来事だ。

本編前のCMで、成海璃子によるクラレのものが流れた。アルパカが出てくる、あのCMだ。例の痰を切ってばかりの老人が連れの人に、「なんだあれは? 何の広告だ?」と大声で訊いていて微笑ましかったのだが、映画の中でもアルパカが出てきた。さすがにその老人、映画中だけあって、そのことについて特にコメントはしていなかった。本当は欲しかったところ。「ああ、さっきのあれか」と。

2010年12月24日金曜日

小説とは情報だ。あるいはサツマイモで世界を考える

村上春樹や島田雅彦も言っているように、小説とは情報だ。プロットとは別個に、どれだけ考えさせられる情報が詰まっているかが問題だ。優れた小説はちょっと読んだだけでいろいろなことを考えさせられる。

原書には目を通していたし、映画化作品も見ている(順序は逆だが)、何より来年、授業で読もうと思っているので、今すぐに読む必要もなかったのだが、バルガス=リョサ『チボの狂宴』をパラパラとめくってみる。やっぱり面白いんだよな。いろいろと考えさせられる。

……緋色の花弁と黄金色(ルビ:こがねいろ)のめしべをつけたハイビスカス(ルビ:カイエナ)、別名“キリストの血(ルビ:サングレ・デ・クリスト)”の花を見つけるのは気分がよいものだ。(14ページ)

の一文を見つける。メキシコではハイビスカスはjamaica(ジャマイカ。ただしスペイン語風にハマイカと発音)だ。少なくともハイビスカス・ティーは té de jamaica (ジャマイカ茶)。ジャマイカの向こう、ドミニカ共和国ではカイェナ(つまり、カイエンヌ。もっと向こうだ)と言うのだろうか? と立ち止まる。

内地でサツマイモと呼ばれるものは、サツマ、つまり鹿児島ではカライモと呼ばれる。カラとは唐のこと、として「海南の道」の交易を辿った柳田国男が思い出されるところ。

サツマイモと言えば、メキシコではcamote、キューバではboniato、スペインではbatata……などという語法を辿りながらヨーロッパとアメリカの植民の歴史に違う光を当てたのは、まさにドミニカ共和国の作家ペドロ・エンリケス=ウレーニャだった。

ジャガイモがヨーロッパに根づくのは意外に最近のこと。18世紀だ。一方、サツマイモはもっと早くにもたらされた。コロンブスその人が第一回目の航海から持ち帰ったともされている。で、ジャガイモpapaがヨーロッパにもたらされたときにサツマイモbatataの影響を受け、patata(英:potato)と語が変形した。一方でサツマイモは、アメリカからヨーロッパにもたらされたものの、原産はアメリカとは特定されず、オセアニアや中国などにはあったとされるが、でもフィリピンにはスペインが、日本にはポルトガルが持ち込み、……と考察を展開している。(Pedro Hinríquez Ureña, Para la historia de los indigenismos , Buenos Aires, Instituto de Filología, Universidad de Buenos Aires, 1938

サツマイモという言語がアンティール諸島と日本のアンティール(南西諸島。ハイビスカスの島々だ)との広がりと交易をともに知る手がかりとなるというこの一致、興味深くはないか? ぼくはもう10年くらい前にそう発想して、何か書きたいと考えていたのだけどな、うまく実を結んでいないな……ということをバルガス=リョサの小説から思い出したのだった。

でも、それとは別個に、このエンリケス=ウレーニャのような人の翻訳なんかもたくさんあれば、ぼくの授業も楽になるのだけどな。

2010年12月23日木曜日

迷って恵比寿

見に行かなければと思っていたが、今朝、起きてみてたら行けそうだったので意を決し、さて、ではどちらにしようか悩んだのだった。

ジャン=リュック・ゴダールとウディ・アレン。

結局、より近い方に(というわけではないが、ともかく、そんな気分だったので)。恒例のシャンデリアの飾られた恵比寿に。

ウディ・アレン『人生万歳!』(アメリカ、2009)

監督40作品目だそうだ。本当は70年代半ばにゼロ・モステルのために書いた脚本。モステルの死によってお蔵入りになっていたのだが、2008年、俳優組合のストが見込まれたので、撮影時期を早めなければならないという理由で、この古い脚本を引っ張り出してきて、手を加え、ラリー・デヴィッド(『となりのサインフェルド』だ)を主役に仰いで撮ったということのようだ。

これが意味していることはただひとつ。ウディ・アレンは毎年一本は映画を撮るとのノルマを自らに課し、それを守っている。

実際、円盤形をした今回のパンフレットにはフィルモグラフィーが載っているが、69年の監督デビュー作『泥棒野郎』と71年の第2作『ウディ・アレンのバナナ』の間に空いた年があるけれども、その後は確実に年1本以上のペースを守り続けている(91年も途絶えているが、前年に2本撮っている)。書き続けること、1本書き、次の1本を書いたら、君はもうシナリオライターだ、と言った(引用はうろ覚え)この人物ならではの偉業。

もちろん、ウディに浴びせられるであろう批判は、予想できる。同じ歌が歌われている。若い女性を見出しては使っておきながら(今回はエヴァン・レイチェル・ウッド)、彼女たちを馬鹿にしすぎだ(『誘惑のアフロディーテ』のミラ・ソルヴィーノがその極端な例)、等々。

でも、いつかも書いたが、アレン自身が何かの映画で描写している。絶望したときにひょっこり入った映画館で見たマルクス兄弟の映画に救われた男の話を。彼は自身の映画がそんなものになるようにと考えているかのようだ。年に1度の救い。

デヴィッド演じるボリスが客に向かって話しかける(他の登場人物はそれをおかしな行動として眺める)シーンなど、よくよく考えると、実は単なるメタフィクション的要素とは言えない何かを含んでいるようでもあるのだが、それが些細なことのように思われるほどに、ウディ・アレンはウディ・アレンなのだ。

ノーベル賞級の量子力学の研究者だったボリスがパニック障害に陥り、自殺未遂を引きおきしてから零落、それがいかにもアメリカ南部的家庭で育ってそこを家出してきた少女メロディ(ウッド)を泊めてやることになり、結婚し、彼女を捜してきた母親はボリスの友人によって写真と性に開眼、すっかり人生を変え、さらにメロディの父親までニューヨークにやって来て……というコメディの細部(メロディの母マリエッタ〔パトリシア・クラークソン〕が写真に目覚め、コラージュによるヌード写真の個展を開く、などというところ)が、なるほど、70年代半ばでもおかしくはないな、と思わせる。

見ていたらスーザン・ソンタグを思い出したので、帰りに書店に寄って買ってきた。

スーザン・ソンタグ、、デイヴィッド・リーフ編『私は生まれなおしている:日記とノート1947-1963』木幡和枝(河出書房新社、2010)
編者のリーフは、ソンタグのひとり息子。ソンタグがレズビアン、もしくはバイセクシュアルであることはいわば公然の秘密だったが、性に関する欲望までも赤裸々に(日記だから当然だ)綴ったもの。編者による序文の結びはこういうもの:

 確信をもって言おう、読み手としても書き手としても母は日記や手紙を好んだ——親密なものほど好んだ。とすればたぶん、作家としてのスーザン・ソンタグは私のしたことを了解するだろう。ともあれ、そう願うしかない。(12ページ)

2010年12月22日水曜日

日暮れまでに二度叫ぶ水曜日

夕方、帰宅後、TVの夕方のニュースを見ようとしたら、あるぼくと同年代くらいの女性タレントが、元夫が別の2、3歳年上の女性タレントと不倫をしていたとツイッターで呟いた、そのことを受けてその年上女性タレントが会見をした、というニュースが流れていた。こんなこと、ニュースでやることか? と思ってチャンネルを変えたら、まったく同じ情報を流していた。

あほか! 

買ってきたキャベツを床に落としながら叫んだ。

その数時間前にも叫んだのだった。昨日報告した『フィガロ・ジャポン』の記事のことだ。確認した。『野生の探偵たち』翻訳者の名前が

柳原考敦

となっていた。

もうネット上では何度も書いている。何度も書かねばならないほどにぼくはこの誤字に苦しめられている。うんざりだ。こんな誤字を犯して毫も恥じない者が活字文化の世界で暮らしていてはいけないと思う。

編集長宛に苦情の手紙を書いた。かなり怒っていたけれども、必死になって抑えて書いた。「私の名前を正しく表記していただきたい」と。

正しい名前を名乗る権利が欲しい。私の正しい名前……

2010年12月21日火曜日

旅に出よう

旅に出よう、という感じの写真で『野生の探偵たち』を推してくれたのは雑誌『フィガロ・ジャポン』。実物はまだ確認していないが、白水社エクス・リブリスのブログで

昨日から肋間神経痛がぶり返し、内蔵が圧迫されるように感じてどうも調子が悪いのだが、癒される。

もう疲れた。そうだ、旅に出よう。

まずはドミニカ共和国だ。

エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』佐川愛子訳(作品社、2010)
マリオ・バルガス=リョサ『チボの狂宴』八重樫克彦・由貴子訳(作品社、2010)


いずれもドミニカ共和国の独裁者レオニダス・トルヒーリョを扱った小説。これらが届いた。これにジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短くも驚くべき人生』(新潮社、予定)が出ればトルヒーリョを取り上げた小説三作のそろい踏みだ。来年、授業に使おう。

2010年12月20日月曜日

フィクションの不自由と本当らしさ

教え子がエキストラで出るから見ろと言われ、TBSのドラマ『獣医ドリトル』というのを見た。最終回だった。教え子は、ああ、エキストラの悲しさ! よくわからなかった。

で、話は少しずれるが、ちょっと気になることがあった。

やたらとクールだけど偏屈な小栗旬演じる獣医の傍らで、直情的でやさしい看護士井上真央が成長していく(井上には少し小栗に対する憧れというか、恋心が芽生えている)というのがメインプロットで、小栗の友人で大学の助教の成宮寛貴とその先生石坂浩二などが獣医師会との軋轢を起こしているというのがサブプロットのドラマ。サブプロットの一要素として、獣医師会の重鎮國村隼に対して息子たちが反抗しているというエディプス的ドラマも展開されていた。

その最後の要素の話。國村隼が息子たちの反抗に気づき、次男の部屋に入って屋探ししていた時に見出した書き留め封筒。「東大医学部の願書」と驚く國村隼は、この子も俺を裏切り、獣医ではなく(人間の)医者になろうとしているのか、と落胆するというシーンがあった。

うーん、でもなあ……。別に医学部希望でなくとも、たとえ文系でも、国立大学進学を考えたことのある人なら、東大が学部別の入学募集でないことは知っているはずだ。いや、東大のことを知らなくても、願書を送る先が学部とは限らないということはわかるはずだ。「入試課」などの部署であるはず。つまり、これから出そうとする願書の、あらかじめ印刷された宛名だけを見てその封筒の持ち主(差出人)が「東大医学部」に志望しているかどうかなど、わかりようがないはずなのだ。

そんなわけで、このシーン、現実の観点、本当らしさvraisemblableの観点から言うと、不自然だ。

でも一方で、ストーリーの流れから言って、ここでこの息子が父の意志に反して獣医学部や農学部でなく医学部を志望しているらしいということがわかる要素がなければここの場面は成り立たない。ここは見ている者に、コールリッジの言う「不信の中断」を要求しても、少しくらい不自然でも、「東大医学部の願書」のセリフを吐かせなければならないというわけだ。それがフィクションの弱み。不自由。

別に「東大」でなければこの不信感は一段下がったと思うのだけど(そもそも東大に獣医学部はあるか?)、まあ何しろ医学会重鎮の息子の獣医学会重鎮の反抗的な息子の話。ここはひとつ、入るのが一番難しいと言われている「東大医学部」である必要があったのだろうな。この要素を決定するのも、いわばひとつの本当らしさ。フィクション内部での本当らしさの追求というわけだ。

うむ。難しいなあ……なんてことを考えていたから、教え子の姿を見落としたのではない……と思う。

2010年12月16日木曜日

オマージュへのオマージュ

ふっふっふっ、この話、面白いじゃないか。

そうか。やはり早くも気づいてしまったか。そりゃあそうだろう。本人だかなら。

種明かしをしよう。あの小説をくだんの若手俳優の作品としてリライトさせ、彼の名で発表させたのは私だ。つまり私が山田洋一だ。

何しろ盗作を主張しているこの人物は私の教え子だ。彼の書いた小説なら、たいていは持っている。彼は新人賞に応募する前に私に必ず原稿を持ってきて、意見を求めるのだ。私はそれを読み、彼自身のオリジナルは落選したけれどもリライトしたら良くなりそうだという作品があれば、時々、別の売れない作家志望の人物に売ったりしていた。私はいわばそういう裏の作家エージェントのような仕事をしているのだ。大学教師というのは世を忍ぶ仮の姿だ。

ちょうど、この人物の書いた小説『UTSUTSU』の落選の事実を知ったころ、その若手俳優の妻である人気歌手から夫が小説家になりたがっているという話を聞いた。私とその若手俳優の妻がなぜ知り合いなのか、どのような知り合いなのかは聞かないでほしい。大人の事情というものがある。私から口に出して言えることは、その若手俳優の妻こと人気歌手の、私はファンだということ、そして、私が彼女の中で気に入っているのは、その透明な歌声と、同じくらい透明な上腕部の柔らかい筋肉の肌触りだということくらいだ。

ともかく、私はその妻から話を聞き、P社の編集者にその話を持ちかけた。私は本名でP社から翻訳を2冊ほど出している。そのときの担当編集者に話したというわけだ。担当氏は今回の新人賞にも関わっている。『UTSUTSU』をリライトし、タイトルを変えて、その若手俳優の作品として例の賞をあげるというのはどうだろう、と。話題になるかもしれない、と。

「『1Q84』方式というやつですね?」編集者は電話の向こうでニヤリとした。
「『空気さなぎ』方式のように思えるかもしれないが、少しねじれがある」私は電話のこちら側で眉をひそめた。「私の教え子の名はふかえりの名と違って、いっさい表に出ないのだから」
「なるほど。失礼。でもともかく、面白いですね」
「だろ?」
「ひとつ賭けてみますか」

そんなわけで『UTSUTSU』は『MABOROSHI』と名を変えて世に出ることになったのだよ。許してくれ。確かに、若手俳優が賞金を返上すると言ったのは彼のスタンドプレーで計算外だった。本当は賞金の1割を、「原作者」として君にあげることになっていたのだけどね。それができなくて君は怒るかもしれない。だが、若手俳優は今度は印税を私の故郷に寄付すると言った(これでこの寄付の理由がわかっただろう? 私がかんでいるのだよ)。つまりは、先日の水害で被害を受けた私の実家に寄付するのだ。その金で実家を修復したら、残りを君に全額やろう。それで手を打ってはくれないか?

2010年12月12日日曜日

シンポジウム終了

東京外国語大学総合文化研究所と東京外国語大学出版会共催のシンポジウム「世界文学としての村上春樹」終了。

柴田勝二はポスト日露戦争の漱石の意識とポストモダンの村上春樹の意識を対比させ、藤井省三は村上作品にみる魯迅の影を浮き彫りにし、亀山郁夫は父殺しのモチーフに始まるギリシャ悲劇的な根源を熱く語り、都甲幸治はアメリカ文学の担い手としての村上春樹をドン・デリーロ『マオⅡ』と対比させた。

主催者である柴田さんがいきなり予定時間を20分も超過する発表を行って、予定の時間はだいぶ延びたのだけど、まあ内容としては皆さん面白かった。白状すると藤井省三の書いたものは読んだことがなかったので、彼がこれまでに書いたことの繰り返しなのか、新たな指摘なのかわからないけれども、魯迅と村上春樹の比較は目からウロコ、という感じだった。

実際、ぼくもデビュー当時から村上春樹の小説はすべて読んではいるのだが、研究者として、あるいは批評家として読む態度をこの作家に対して保持したことはないので、村上春樹論のたぐいはたまに目についたものしか読んでいない。そんな身からすれば、どれも教えられることの多い読みだった。うーむ、やはりすぐれた小説というのは豊かな読みを換気するのだな、と。

観客の入りを危惧していたのだが、ぼくの予想に反し、かなり来ていた。200人近かったのではないか? 大盛況。やはり村上春樹だ。討論の時間には慶應で村上春樹で卒論を書いているという学生から質問というか、コメントがあった。うむ。必要なことではあるだろうが、この時期だけに、卒論書いてる方がいいのでは、と心配にもなった。

2010年12月9日木曜日

シャンプーは使うな、という話?

アーサー・ビナードさんによる講演会「もしも文字がなかったら:未知のことばを求めて」。終了。

ぼくが『空からきた魚』(集英社文庫)所収のエッセイ「ミスった?」を引用して、フランス移民の子孫である彼の姓Binardが移民の登録の際のスペルミスから来た可能性がある、という話をして彼の紹介をしたので、それを受け、綴り字と発音が一致しない英語と漢字を輸入してかなにした日本語とのもともと文字のなかった(と思われる)言語の話から説き始め、言葉のリアリティと言葉が表すもののリアリティの話をしながら昆虫からイラク、アフガン戦争の話にまで展開し、そうした言葉の難しさ、大切さを保証するものとしての文字に表記することまでの考察を展開。最後は詩を朗読された。

懇親会では図書館の若い職員らが歯は朝起き抜けに磨くか、それとも朝食後に磨くかという質問におよび、ついでにビナードさんの出身大学コルゲートは歯磨きを思い出させるが、その名はどこに由来しているのか、という話題にまでなった。結局、あの歯磨きの財団の名だそうだ。そういえば、講演会の最後ではビナードさん、シャンプーなど使うだけ無駄だと言っていたが、歯磨きペーストは使うのだろうか? 

久しぶりにスーツなど着ていったのだが(茶色いホームスパンのスリーピース)、スーツそのものというよりは緑色のシャツと緑に金色のストライプのネクタイがすてきだと、何人かの学生に褒めていただいた。えへへ。でもシャツもネクタイも締めていったことはあるのだけどね。

気づいたら木曜日は、冬休み前はもう1回しかない。

さ、明後日11日(土)はシンポジウム「世界文学としての村上春樹」です。ぜひ!

2010年12月7日火曜日

あまり知らない学生の将来を心配する

で、ともかく、月曜日には慶應に行った。自主ゼミという形式の勉強会。ここで何か映画について話せと言われたので、先日『コヨーテ』に書いたことに少し肉付けし、実際の映像なども少し見ながら話した。

ぼくはその『コヨーテ』の記事でリプステインの『死の時』(1965)がマカロニ・ウエスタンを思わせると書いたのだけど、このことの意味はもう少し考えてもいい、と思いながら話していた。

大学近くの沖縄料理店で懇親会。

そして今日は法政で代講しているゼミの二次募集面接。ちょっと気になることがあった。仮にも少しでもこの面接に受かりたいと思うなら、嘘をついてでも、そのための方便を弄しなければなるまいにと思うところで、何だか屈託なく素直に調子外れなことを言う学生が数名いた。うーむ、「戦略」という単語を知らないのかな、と言いたくなった。

そんなことを現役のゼミ生たちに話したら、嘘をつくなんていやだ、と即座に反応する学生がひとり。

もちろん、これは一部の例だ。一般化するつもりはないし、世代の問題かどうかもわからない。けれども……どうしたものかな、と思う。

戦略的に語るということを「嘘をついてでも」と装飾することは、一種の偽悪趣味だ。嘘などつきたくない、というのは一種の自己陶酔だ。ぼくが「嘘をついてでも」と言ったのに対して「嘘はいやだ」と応えるなら、それは単なる2つの言説の衝突だ。挑発的に言うぼくも悪いと思う。でも、「嘘をついてでも」と偽悪的に語られる以前から嘘をつけない(いや、つまり、戦略的になれない)という人がいるのなら、それは何かイデオロギー的だと思うのだな。

面接で嘘のつけない人の将来が心配だ。

2010年12月5日日曜日

痛いところを突かれて考えさせられる

このところ評判になっているのが、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を:〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(河出書房新社、2010)。で、まあぼくも手に入れて読んでみた(と言っても、まだ1/5だが)。

まだ途中だが、いきなりそんなぼくのスケベ心が批判されていた。『夜戦と永遠:フーコー、ラカン、ルジャンドル』(以文社、2008)で話題になった著者が、河出の編集者に語った五回のインタビューというか独り語りというか、そうしたものをまとめたもの。第一夜は「文学の勝利」。

どんな分野のどんなことがらについてもそつなく、しかしある種のパターン化された言辞を弄して語ってしまう「批評家」と他のことはからっきしわからないが、あるひとつのことについては何でも知っている「専門家」とをともにファロス的な欲望と切り捨て、自分のやってきたことはただ読むことなのだと、そしてその読む行為に、望むらくは少ないものを何度も何度も読む行為こそが重要なのだと説いた夜。

レイェスだってルルフォだって、メキシコ映画だって論じられるばかりか、佐々木中だってよく知ってるぞ、というような態度を取ろうとするぼくは、こうして、その当の佐々木中に批判されているという次第。とほほ、である。てへへ、である。

さて、そんなことより注意を喚起したいのは、今、佐々木が、この「批評家」的態度の由来、というか、少なくとも同年代の者にはびこるこの「批評家」的態度の蔓延の理由を、彼が学生時代を過ごした東大の教養部の改革後の雰囲気に求めていることだ。彼が大学に入学した当時、「上からの大学改革の嵐が吹き荒れていた。それが可能にしたある種の教育の典型的なものに触れ、それに反撥した」(15ページ)のが彼だという。

90年頃から教養部の解体が叫ばれ、いや、命じられ、東大がその改編に打って出た。とはいえそこは教養学部が存続を勝ち得た数少ない例なのだが、というのも、おそらく、専門課程としての教養学部の強化によって勝ち残ったのだろう。『知の技法』やThe Universe of English などのシリーズでいち早くリメディアル教育ののろしを上げ、表象文化などの新しい分野を作った。そのころ学生として東大に入った73年生まれの佐々木中が、その時代の大学改革の弊害を唱え(「大学の教養学部のカリキュラムが最も貧しい意味で「批評家」を生み出すようなシステムになっていた」同ページ)、そこへの反撥から自身の批評活動が出発したと言っているのだ。

ぼくたちは好むと好まざるとにかかわらず、その「上からの大学改革」後の大学に勤めている。この指摘には耳を貸した方がいい。

2010年12月4日土曜日

かわいい子供(たち)

別にぼくの趣味ではないが、いくつかぬいぐるみのようなものを持っている。学生からもらったのだ。まあ、こうしたものをくれるのは女子学生だけど、男子学生からもらったらおかしいな、と思う。

で、ともかく、もらいものだから、持っている。捨てるわけにはいかない。ちょっと恥ずかしいな、と思いながら持っている。くれぐれも、ぼくの趣味ではない。でも捨てない。もらい物だから。教え子の分身だからだ。子供みたいなものだからだ。これを捨てるくらいなら着なくなった服を捨てる。身軽になりたいから。

で、先日、ちょっとした服を買ったときにもらった熊。ぬいぐるみを捨てるくらいなら服を捨てるといっていたぼくが、服を買ってぬいぐるみをもらった。さすがに服屋らしく手脚がボタンで留まったこのぬいぐるみ、置き場所もなく所在なさげにマックの隣に座っているのだが、ふと何かを思い出させた。以前、卒業する学生たちにもらった熊のぬいぐるみがこれに似ていると思ったのだ。さすがにこんなチェック柄ではなかったと思うけど。

2010年12月3日金曜日

いろいろと勉強になる金曜日

中野達司『メキシコの悲哀:大国の横暴の翳に』(松籟社、2010)。ご恵贈いただいたのだ。先輩なのに、恐縮。

メキシコ独立から1976年のハニガン事件まで、米墨関係の社会史とでも言えばいいだろうか。テキサス・レンジャーやフィリバスター、ブラセロ・プログラムといった、ぼくも少しは扱わざるを得ない問題について色々と教えてくれる。

フィリバスター(スペイン語ではフィリブステーロ)とは、合衆国から南下、メキシコ以南の国々で革命を起こすことを目的とした人とその行為のこと。ニカラグアで大統領就任を宣言したウィリアム・ウォーカーが有名。ぼくはこれに反応した知識人たちの話をかつて書いたことがあるが、実は、ウォーカー前後に同様の行為がたくさんあったことは詳しくは知らなかった。というか、それが「フィリバスター」と用語化して言いうることだとの意識はなかった。ウォーカーへの非難のみがそういう意味合いを持ったのかと思っていた。これが用語化されるほどの現象であるならば、当然、それにもっとも苛まれたのはメキシコをおいて他にはない。ソノラ州のような北部の州にほかならない(たとえば、『野生の探偵たち』で語られるエピソードのいくつかは、そうしたフィリバスターに対する恐怖の記憶を伝えているように思えるところがある)。

テキサス・レンジャーは、テキサスの国境地帯の治安を守る司法官だが、これが、メキシコ人と見れば見境なく殺す。そのことの恐怖をもとに、反逆者としてのメキシコ系住民を称える民衆詩(コリードという)などが生まれるのだが、それの研究で合衆国におけるチカーノ研究の礎を築いたのがアメリコ・パレーデス。今福龍太の先生だ。この人が採録したコリードが、実は今でも歌い継がれて、録音されていることを知り、先日、注文したのだった。で、そのパレーデスらも引きながら、その後の研究の成果も踏まえて、中野はメキシコ系住民とテキサス・レンジャーの(そしてアングロ系テキサス人の)緊張関係を描いている。

ふむ。いろいろと勉強になる。なにしろぼくは、ある授業とあるシンポジウムで、このテキサス・レンジャーの記憶とルイス・バルデスの映画『ズート・スーツ』が通底しているという見解を述べたことがあったのだった。

そして「序」の次の一文を読むとき、このパレーデスの採取したコリードとの(そしてバルデスの映画との)パラレル関係が見出され、一気にフィクションと米墨関係の緊張とが結びつけられるはずだ。

 映画やTVドラマでお馴染みの「怪傑ゾロ」は、米国が獲得したばかりの頃のカリフォルニアを舞台とするフィクションである(時代などの舞台設定は作品によって様々ではある)が、ゾロのモデルとなったのではないかと考えられているメキシコ人がいる。その人物は、妻を米国人に陵辱された上に殺され、復讐の鬼となって神出鬼没で米国人を襲い、恐怖させたと云われ、米国に住むメキシコ人の間で、これも英雄譚として語られたものだった。(11-12ページ)

ほら。ゾロを読みたく、見たくなるでしょ?

2010年12月2日木曜日

カメラ・アイ

ぼく自身の授業ではやっとジャームッシュの『デッドマン』を語るための準備が整い、他のちょっとお手伝いしている授業でギジェルモ・アリアガ『あの日、欲望の大地で』(2008)を終わりの10分ほどを残して鑑賞。うむ。わかってはいてもシャーリーズ・セロンよりもキム・ベイジンガーの方が若いと思い込んでしまうのはなぜだろう? 

家に着くと届いていたのが:アルベルト・マングェル『奇想の美術館:イメージで読み解く12章』野中邦子訳(白水社、2010)

あくまでもマンゲルだと思うのだが。マングェルでなく。でもまあ、『架空地名辞典』が彼の翻訳の最初だろうか? それ以来のずっとマングェルで表記されているからしかたないのかな。アルゼンチン生まれでスペイン語話者なのだが、英語で著作を出している。ぼくはこの人の本はスペイン語版で持っているものが多いが、これは持っていなかった一冊。

ジョーン・ミッチェル、ロベルト・カンピン、ティナ・モドッティ、ラヴィニア・フォンターナ、マリアナ・ガードナー、フィロクセノス、パブロ・ピカソ、アレイジャディーニョ、C-N・ルドゥー、ピーター・アイゼンマン、カラヴァッジョ。——さて、このラインナップからどんな全体像が描けるか?

各章にはエピグラフがついている。それがなかなかいい。

「よい物語とはもちろんすべて絵と思想からなる。それらがよく混ざりあうほど、問題はうまく解決する」(ヘンリー・ジェイムズ「ギ・ド・モーパッサン」)
「もしも、すべてが正しいとしたら、鏡から鏡へと、まったく虚栄が映らないとしたら、私は世界が造られる前に私がもっていた顔を探す。」(W・B・イェイツ「若く、年老いた女」)

などだ。そして極めつけ:「自分のカメラのレンズになってしまえば、もはや動けず、硬直したまま、干渉さえできない」(フリオ・コルタサル「悪魔の涎」)

コルタサルの「悪魔の涎」はアントニオーニの映画『欲望』の原作になったもの。ある日、写真を撮ったら、その写真の中で殺人事件が起きてしまった、という話……と思わせながら、実は語り手がカメラのレンズになっていた、という話。そのあたりからの引用。ぼくは凍りつく。固まる。カメラ・アイになり、しばらく右のページにあるモドッティの写真を見つめた。

2010年12月1日水曜日

地を這って想像力をはばたかせろ

先刻予告のごとく、アーサー・ビナードの講演会を行う。図書館主催だ。ぼくはこの委員である。で、当日には演者の紹介をしなければならない。本来図書館長の仕事で、図書館長がやっていたのだが、どういうわけか今年はぼくがやらなければならない。そんなことがあっていいのかどうかはわからない。ともかく、ぼくがやらねばならない。

そんなわけで、何冊か彼の本を読んでみた。とおり一辺の紹介ではなく、作風などを紹介するというのが慣習だからだ。

なかなか面白い。斎藤美奈子はアーサー・ビナードを「おそるべき言葉のコレクターである」と評価している(『空からきた魚』解説)。立川談四楼は必ずオチをつけると、彼の文章の特徴を分析している(『出世ミミズ』解説)。ふむ。どれもそのとおりだと思う。でもぼくは実際の講演会の紹介では、ちがう話をしようと思う。

その話をここで書いてはしかたがないので、さらに違うことを。

長江朗は「自転車と徒歩の視線がアーサー・ビナードの文章の根っこにある」と断じている。そして、すぐに続けて、「彼の文章は自転車のペダルをこぐようにして紡ぎ出される」と。つまり、話がリズムへと移っていく。そこに移らず、「自転車と徒歩の視線」のことにも気を留めてほしいものだと思う。地上を這わせる視線が作り出す想像力。

そんな想像力を彼が持っていると感じさせるのは、ウォレス・スティーヴンスの詩 Tea  とそれの福田陸太郎による翻訳「お茶の時間」を比べるときに発揮されている。

 原作は映像的で、カメラアイが低いアングルで寒い公園をうつしてから、暖かい室内へと移動、明かりの下のぬくぬくしたクッションにズームインして、紅茶を飲む男女二人を画面に出さずに、間接的に艶っぽく描く。巧みな比喩は、読者のイマジネーションをくすぐるけれど、表現される世界は全て日常の範囲内だ。それに引き替え、日本語訳のほうはいきなりファンタジーへと飛び立ち、帰って来ようとしない。それぞれの出だしは次の通り。

When the elephant's-ear in the park
    Shrivelled in frost
公園の象の耳が
霜でちぢまったとき (『日本語ぽこりぽこり』小学館、2005、44-45ページ)

この比較のしかた! 

まあ、オチは、要するに "elephant's-ear" というのはベゴニアのことであって、「象の耳」ではないぞ、視線を下に落とせ、ということなのだけど。