2016年7月31日日曜日

おのれの愚図なるを嘆く

昨日はある人の博士論文の事前審査(というのをやるのだ)があって、それは3時間ばかりの仕事なのだけども、何やら疲れるもので、その後の時間を無駄に過ごした。

事前審査では論文そのものに教えられることもあったが、いつものごとく他の審査員の先生たちの態度や言葉に学ぶこと大であった。

今日はある原稿の〆切り日で、前からわかっていたはずなのだけど、結局、当日になってうんうん唸るはめに陥っているのはいつものこと。

お題はキューバ映画について。3,000字。

こんな、目の前の〆切りに追われているときに限って、長期的な約束を少しでも先に進めたい、あの本の原稿を書いてしまいたい、この目の前の仕事があるからあれができないんだ、と逆恨みする(ある雑誌への記事を書いているわけで、僕はここ数年、こんな仕事をあるていどしてきて、それらの原稿を集めれば、もう2冊分くらいの分量にはなるはずなんだけど、実際には単行本にするにいたってはいない。そして、単行本を書く約束は、こうして遅々として進まない、と……)のは、典型的な愚図の思想なんだな。

愚図なんだ。
 
でももうすぐ書き終えると思う。「もうすぐ書き終える」からと、こんなところに寄り道しているようでは、結局、書き終えることはないのでは、との不安も頭をもたげる。

実際に何か原稿を書く時には、それ以前にメモを取り、メモを基にしたパラグラフがいくつもあり、それらを組み合わせたり書き換えたりしながら、どうにか文章を成形して行く。その成形過程のことを「書く」というのだが、メモやパラグラフが足りないまま〆切り当日を迎えると、こんな風になる。そしてこんな風になると、こんな風に他の文章を書いたり、よせばいいのに、最近、見る習慣をなくしているはずの野球を見たりしている。そしておそらく、もう少ししたら、夕食を作り始めるだろう。脱稿は、かくして、先延ばしにされる。


ともかく、書き終えたら、明日は現文研究室の合宿♪ (書いておかないと忘れてしまいそうだ)

2016年7月28日木曜日

エマ・ワトソンは大人なのだ

フロリアン・ガレンベルガー『コロニア』(ドイツ、2015)

試写会で観てきた。コロニア・ディグニダーというチリに実在したドイツ人コロニーを舞台にしたフィクション。このコロニーはコロニア・レナセルとしてボラーニョが『アメリカ大陸のナチ文学』に記した同様のコロニーのモデルだと思われる。幼児の性的虐待やピノチェト時代(そしてそれ以前から)の拷問の場所としても知られる。

アジェンデ政権に連帯してチリに滞在していたダニエル(ダニエル・ブリュール)がクーデタによって監禁され、このコロニアで拷問を受ける。ルフトハンザのCAとしてちょうどチリに来ていた恋人のレナ(エマ・ワトソン)は帰りのフライトをキャンセルし、自らこのコロニアへの入所を志願して恋人を助けようとする。

リアリティとしてみれば、脱出劇の最後の最後のサスペンスは、さすがにそこまではあるまいと思う。また、その状況での脱出は不可能とは思われる。でもまあ、これも追っ手の恐怖の隠喩なのであり、映画のサスペンスを高める手法なのだから、僕たちはそういうものとして手に汗握って観る。

幼児虐待や性的虐待をあからさまに描いていないところは品を保っていると言うべきなのか? つまりは、サスペンス、なのだ。

クレジットを観ていたら、『チリの闘い』からの引用があると書いてあった。気づかなかったな。


そして僕は『ハリー・ポッター』を観ずに生きてきたので、エマ・ワトソンをよく知らず、幼子のイメージだけがあったのだが、大人だった。僕の抱くイメージなど、どうでもいいことだが。

2016年7月27日水曜日

語るかも

パトリシオ・グスマン『チリの闘い』3部作(チリ、フランス、キューバ、1975-1978)

を試写会で観てきた。日本語字幕つきをスクリーンで、3部通しで観るのははじめてだ。

改めて思うことは、これは3部通しで見た方がいい、ということ。1部と2部の対称の構成がみごとだからだ。そして総括のような意味を持つ3部のその意味がよくわかるからだ。

第1部は「ブルジョワジーの叛乱」。アジェンデ政権打倒のためにブルジョワたちが(合衆国の後ろ盾を得て)ボイコットやデモを仕掛ける、その政権打倒のための記録だけれども、冒頭は9.11のクーデタの際の大統領官邸空爆の映像で始まり、最後に6月の最初のクーデタの試みで幕を閉じる。フランス人のカメラマンが銃弾を受けて倒れる寸前に撮った映像だ。

第2部「クーデター」はこの1部の最後の映像から始まり、日を追う形で最終的なクーデタまでの動向を追う。そして最後にまた、9.11の官邸空爆の映像。そんな風に対称をなすというわけだ。


それにしても、クーデタ直前、内戦の予感を皆が抱いているチリの空気の不穏さは、2002年のカラカスをも思い出させるし、現在の東京にも比せそうだ。このタイミングで公開されることの説得力!

2016年7月24日日曜日

語ってきた

22日(金)には告知のとおり、紀伊國屋で都甲幸治さんと『第三帝国』について、ボラーニョについてトークしてきた。

勧善懲悪という摂理の働かない戦争のゲームを生きることそれ自体の危うさを小説に展開することの意義やら面白さやらについて、都甲さんが大いに語り、僕が相づちを打ったり、少し言い添えたりして、大盛況であった。

大盛況、というのは人数の上でも、ということ。紀伊國屋書店新宿南店でだけ『第三帝国』先行発売となったのだが、50部ばかり搬入したうち20数部が売れたとか。

すごい。

先行販売はまだ続いているらしい。

そういえば、都甲さんは、『第三帝国』が思いのほか厚いと言っていた。

そう、厚いのだよ。

今日、24日は大学院の入試説明会だった。


ちなみに、話題のポケモンGOでモンスターを探しているらしい人は東大本郷キャンパスにもかなりの数、いた。

2016年7月21日木曜日

重版……じゃなかった初版出来!

ロベルト・ボラーニョ『第三帝国』柳原孝敦訳(白水社、2016)

なのだ。今日、出来てきたのだ。出来してきたのだ。

何冊目になっても嬉しいものだ。

そして、いよいよ、明日は紀伊國屋での都甲さんとのトーク。先行販売もある!


頑張ります。

2016年7月20日水曜日

男と女の行き先は……

ヘルマン・クラル監督・脚本・製作『ラスト・タンゴ』(ドイツ、アルゼンチン、2015)

フアン・カルロス・コペスとマリア・ニエベスの「タンゴ・アルヘンティーノ」のコンビの出会いから解散までを本人たちへのインタビューと記録フィルム、それに若い世代の踊り手たちによる再現ドラマ風の舞踊で再構成したもの。山形国際ドキュメンタリー映画祭などにも出品された作品らしいが、インタビュアーが再現ドラマを演じる若い踊り手たちであることによって、疑似ドキュメンタリーのフィクションの様相を呈している。ドキュメンタリーとして観ることはないと思う。フィクションだ。ドラマだ。

アトランタという名のミロンガで出会ったニエベスとコペスのふたりが、踊りのパートナーとしても人生のパートナーとしても仲良くなり始めのころ、『雨に唄えば』を観に行ったと回想するシーンで、アジェレン・アルバレス・ミニョとフアン・マリシアの若いダンサーふたりが、鉄橋の屋根に守られて『雨に唄えば』のシーンを彷彿とさせる踊りを(しかし、タンゴで)踊る場面はすてきだ。アルバレス・ミニョはまだ学生だそうだけれども、魅力的だ。

帰りの電車で読み終えたのが:

ハビエル・マリアス『執着』(白川貴子訳、東京創元社、2016)

以前訳された『白い心臓』がマリーアス(僕はこう表記しよう)の代表作とされていたのだが、2011年刊のこの作品でそれが刷新された観のある、それだけインパクトの大きな作品だ。

語り手=主人公のマリアは、出勤前のカフェで毎日のように見かけて気になっていた夫婦のうち、夫ミゲル・デベルネが惨殺されたことを知り、妻ルイサに話しかけて知己を得る。夫の親友だというハビエル・ディアス・バレラとも知り合い、関係を持つようになるが、ディアス・バレラは親友の妻ルイサに夢中のようだ。

ある晩、ことを終えてディアス・バレラの部屋のベッドに寝ていたマリアは、訪問者との話を盗み聞きし、ディアス・バレラが人を使ってミゲルを殺させたらしいという疑いを抱く……

そしてその事の真相をディアス・バレラがマリアに語って態度決定を迫り、後日譚が語られて、という、それだけの比較的シンプルなストーリーなのだが、とにかくマリーアスの小説は登場人物たちの一つの言葉、一つの行動に対する思弁の展開が豊かで、これで330ページばかりの小説になるのだ。

おふざけのない、深刻なセサル・アイラ、と今だったら言いたくなる。ただし、デュマの『三銃士』、バルザックの中篇『社ベール大佐』、そしてシェイクスピアの『マクベス』が引用され、下敷きにされ、ストーリーにスパイスを与えている。

いくつかあるキー・センテンスのうち、とりわけ、『マクベス』の「死ぬのはもっと先でもよかった」が、種明かしの段で効いてくる。


でもところで、ミゲルとルイサの夫妻にミゲルの親友ディアス・バレラという組み合わせにはménage à trois のモチーフがあると言いたい。男と女、合計三人の微妙な関係。幸せなカップルと、それを見守る独り身の男。実はそのカップルの片方に思いを寄せ、そのために(たぶん)独り身でいる男。僕自身の役回り……

2016年7月18日月曜日

今日も劇を観たぞ

坂手洋二作・演出『ゴンドララドンゴ』(燐光群)@ザ・スズナリ。

1988年、昭和天皇が死の床に伏せっていたころに端を発する物語。ゴンドラに乗ってビルの外装の手入れをするバイトをしていた俳優のロクさん(大西孝洋)が仕事仲間のトラさん(猪熊恒和)と体が入れ替わってしまう。とりあえず眼前の問題であるロクさんの劇団の公演を乗り切り、ロクさんになったトラさんはトラさんの妻ノリコ(都築香弥子)と再婚。元来はぐれ者のロクさんはトラさんの見た目のままロクさんの子供トオル(杉山英之)を連れて放浪の旅に出る。その後、どうやら怪しい教団に入信したらしい。が、95年に教団は大きな事件を起こして司直の手にかかり、それを機に親子は逃げだしたらしい。

その1995年に端を発するもうひとつの取り替え物語がある。ある作家が不倫関係にある編集者のヒトミ(円城寺あや)と共に交通事故に遭い、肉体は死に、意識は彼女の体に棲みついてしまうというもの。そのことなどを作品に書いたので、女優に成長したトラさんの娘ミチ(百花亜希)が相談にやって来る。

教団脱退後のトラさんの行く末についてはここには書くまい。あ、そこに来たか、と思わせる展開。88-89年、95年というふたつの転換点に、ありきたりと言えばありきたりな取り替え物語を掛け合わせると、これが面白い試みになる。単に人間が入れ替わるというだけでなく、入れ替わる直前のロクさんが発していた実は劇の台詞だったという言葉、「自分の命と引き換えに、世界中の人を救えるとしたら?」が関係してくると、プロットは一気に歴史性のあるものになる。88-89年とは昭和天皇崩御とそれに伴う元号の交代、ベルリンの壁の崩壊などの年であり、95年は阪神淡路大震災とオウム真理教により地下鉄サリン事件の年なのだから。


劇中劇などの遊び心もあるし、何より、昨日の世界の記憶をくすぐり、深刻にならずに楽しめる作品、といった感じ。

2016年7月13日水曜日

エマ・ストーンが教え子なら俺だって……

ウディ・アレン『教授のおかしな妄想殺人』(アメリカ、2015)@丸の内ピカデリー3

ニューポートの大学の哲学科に新たに赴任してきたエイプ(ホアキン・フェニックス)は実存的悩み(と昔なら言ったろう)に取り憑かれているし、そのせいもあって、赴任前からいろいろと噂も立っていた。曰く教え子と寝るだの変人で敵が多いだの……

そうした噂はむしろ異性を惹きつけるもので、自然科学科のリタ(パーカー・ポージー)は夫のある身でありながら彼を誘惑してかかる。優秀な教え子ジル(エマ・ストーン)もボーイフレンドひとりには決められないなどと言いながらエイブとの関係を進展させようとする。

無意味の感覚にとらわれているエイブは書きかけの本も進まないし、一時的に性的不能に陥っている。ところが、ジルと一緒にいたダイナーで、後ろの席の会話を盗み聞きし、そこで名指しされた悪徳判事トマス・スペングラーを、その見知らぬ人に成り代わって殺すことによって人生の意味が見出せるのではないかと考える。そう考えたところから、実際、彼は生気を取り戻し、リタとも関係を持ち、しまいにはジルともできてしまう……

実存主義的、と言ってしまおう。実にこうした展開は好きだ。大学の教室のセットもすてき。エマ・ストーンがとびきりチャーミングだ。

何と言っても感心するのは、誰にも気づかれないはずだった完全犯罪がリタにばれそうになったときに、まだ真相をしらないジルとリタが、その問題についてバーで話すシーンがあるが、ここで、恋敵であるはずのふたりの間に、嫉妬のドラマを何ひとつ用意しなかったということだ。安易な愛とジェラシーの三角関係の話にされたら、たまったものではない。そんな展開にしないところがウディ・アレンのいいところなんだな。

しかし、それにしても、大学を舞台にするフィクションでは常に教師と教え子とが関係を持つ。15キロも増量して役作りしたというホアキン・フェニックスの、ぼってりと腹の出た中年体型でも、エマ・ストーンを魅了できるのだ! 


おかしいなあ? 俺はあそこまで腹は出ていないが、俺にはストーンみたいな優秀で美しい学生、ついてこないぞ(優秀で美しい学生はたくさんいるが)……

2016年7月11日月曜日

わくわく

ある程度予想されていたとはいえ、選挙の結果には常に失望させられる。とんでもない国に住んじまったものだ。若い教え子たちには言いたいな。一刻も早くこの国を立ち去れ、それが君たちの身のためだ。


縮小する新宿南口店3階カフェ横のスペースでのトークショウ・ファイナルだ。そこでボラーニョ『第三帝国』をめぐって、解説の都甲幸治さんとトークをするのだ。

さらに、今度はこちらのリンクで白水社の告知を読んでいただきたい。なんと! その日、他の書店に一週間ばかりも先駆け、『第三帝国』を先行販売するのだ。ずいぶんとお得じゃないか! しかもトークは無料、予約不要だ。(本は無料とはいかないが)

その日、雨が降らなければエスパドリーユまたはアルパルガータで行こうかな、とは先日も書いた。実際のウォーゲームも持って行っちゃおう。


それにしても、紀伊國屋書店のサイトにはもう書影が上がっているが、かっこいいと思わないか? 

2016年7月10日日曜日

投票したぞ

ツイッターに書いたことだが、初めての選挙は1983年の衆議院議員選挙。20歳になったちょっと後にすぐにあった選挙だ。既に東京に住んでいて、住民票も移してあったから、行使できた。当時の東京7区は新聞では菅直人が最下位の予想だったが、蓋を開けてみればトップ当選だった。当時の第2党は社会党。

爾来、投票を棄権したことはない。選挙権という権利を手に入れた以上は行使するのは当然だという態度だ。

支持政党を持ったためしはない。確固たる政治的信念があるわけでもない。強いて言えば政権与党には投票しないということくらいが原理原則。よほどのすぐれた政策をしていれば、あるいは選挙の争点に関して政権与党が正しいことを言っているという確信があれば話は別だが、そうでなければ与党には入れない。そして、この原理原則が崩れたことは、今のところ、一度もない。

今日、どこに、誰に投票したかは秘密だ。だって秘密選挙なんだから。誰それに、何党に入れよう、などと、少し口を滑らせたら、公職選挙法違反だしね。

ただし、公職選挙法違反のような広告を今朝の朝刊に出した政党もあるようだが。こうしたことは厳しく追及されなければならない。

ならないのだが、もうこの国はタガが外れてしまって、いろいろなことが狂ってしまっているので、これが追求されないということもあるかもしれない。


不気味だ。

怖い。

息が詰まる。


快適だった。


今度、『第三帝国』出版記念のイベントがあるのだが(詳細は後ほど)、その時には、雨が降らない限り、これで行こうか、などと思っている。

2016年7月9日土曜日

劇を観たぞ

薦めた以上は行ってみた。守山真利恵演出『この村に泥棒はいない/コルネリア』プレヴュー公演。

この順番で書かれてはいるが、演目としては逆の順。シルビーナ・オカンポの「鏡の前のコルネリア」、そしてガルシア=マルケスの「この村に泥棒はいない」をそれぞれ脚色した劇を、むらさきしゅう、鎌田紗矢香の2人芝居で。

受付というかホワイエ(と呼ぶべき狭いスペース)は写真展のようになっている。開場すると実際の演技スペースの前にもう一部屋あって、そこにも写真が飾ってあるが、ひょっとしたら役者かもしれない男女(事実、役者)が中心に立ち、座っているので、見て回るのが憚られる。奥の部屋ですと紹介されて入ったスペースには、これが客席だろうと予想される丸椅子が9脚並ぶだけ。舞台装置は姿見に丸椅子、狭いクッション椅子が3脚。

なるほど、プレヴュー講演とはこういうことなのだ。

自殺願望のあるコルネリアが、泥棒や昔の恋人など(の幻影? いずれもむらさきしゅうが演じる)に向かって、そして鏡に向かって自らの人生と願望とを語る「コルネリア」では、官能と絶望、幻想が記憶に寄り添う。「この村に泥棒はいない」は『ママ・グランデの葬儀』の一部をなすマコンドものの短編。鎌田沙也香が一転、妊婦の文字どおりの身重の演技で唸らせる。マコンドの数倍の田舎に育った僕には身につまされる話。

本公演は会場を変えて行われるはずだが、2つの部屋を使った舞台作りなど、どんな風に作りかえられるのだろう? 


2016年7月5日火曜日

劇を観よう

なんと! ガルシア=マルケスの「この村に泥棒はいない」が劇になるのだ。さらにシルビーナ・オカンポの「コルネリア」が。

詳細は、ここをクリック

さらには、感想集。ここをクリック

昨日、4日(月)はフアン・ビジョーロ作の独り芝居「雨についての講演」をセルバンテス文化センター東京で観てきた。上演後、フアン・ビジョーロと演出家アントニオ・カストロ、それに役者の丸尾聡、演出の山下由らのトーク。

これは日本演出者協会のやっている国際演劇交流セミナーの一環としてのもので、ビジョーロとカストロは日曜から明日の水曜まで連続でティーチインやシンポジウムらをやっている。

で、今日も二人に加えて吉川恵美子さんとのシンポジウム「演劇と言語」を聴きに行ったのだった@芸能花伝舎。

ビジョーロは劇作家として、劇の持つ時間が黙読で得られる時間とは異なること、エクリチュールでは表し得ない演劇言語があることなどを語り、カストロは自身の仕事の中でとりわけ言語を意識させられた四つの例を語った。

明日はカストロ作品の紹介と「誰が観客(読者)か」というシンポジウム。僕は授業で行けない。


みんな、行ってね。

2016年7月3日日曜日

展覧会ふたつ

『第三帝国』が一段落ついたので、土日はいずれも展覧会に行ってきた。

まずは、ロメロ・ブリット展@池袋西武ギャラリー。

ブラジル出身でUSA(マイアミ)在中のポップアーティスト。マイケル・ジャクソンなどにも愛された作家だ。ディズニーのキャラクターとのコラボレーションもしている。こんな風に。

ハートをモチーフにした作品も多く、なるほどハートウォーミングな作品が多い。

日曜日は「アルバレス・ブラボ写真展――メキシコ、静かなる光と時」@世田谷美術館。

マヌエル・アルバレス=ブラーボのキャリアを総括的に振り返る192点。加えてアンリ・カルティエ=ブレッソンからのスペイン語の手紙やエドワード・ウェストンからの英語の手紙、種々の雑誌などの資料もあって見応えはたっぷり。後に約束が控えていたので、むしろ時間が足りなかったくらいだ。

世田谷美術館は以前、フリーダ・カーロ展もやっていた。メキシコへの目配りが利いているというべきか?

アルバレス=ブラーボに触発され、その後の食事の場所をモノクロで撮ってみた。


2016年7月2日土曜日

復習

料理のレパートリーを増やすコツは、レシピ本や料理番組などで見たものをすぐに一度作ってみるということだ。一度作ればなんとなく身につく。忘れてもなんとなく思い出す。

先日、NHKの「きょうの料理」で夏豚汁、などというのをやっていた。茗荷にキュウリ、プチトマト、しそ。で、翌日、スーパーに行ったら、茗荷が大量に安売りにかかっていた。

む、あれを見て真似たがる多くの人を狙ったのか? それとも単なる偶然か? 

ともかく、茗荷を買い、作ったのだった。しそを入れる直前の図。


で、残りは冷や汁にしてもいいですね、と言っていたので、2杯目は冷蔵庫に入れ、翌日、冷や汁としていただきました。それもまたよし。

2016年7月1日金曜日

予習

7月27日にはロベルト・ボラーニョ『第三帝国』の翻訳出版が予告されている。拙訳だ。

版元・白水社のサイトでの紹介は、ここをクリック

380ページと書いてあるが、実際には、都甲幸治さんによる解説と僕のあとがきまで含めると400ページくらいにはなるはず。ボラーニョ・コレクションでは最も長い作品だ。

〈第三帝国〉という実在のウォーゲームを、コスタ・ブラーバ(カタルーニャの海岸)のある町のホテルでプレーするドイツ人青年の話だ。ウォーゲームというのは、実在の、あるいは架空の戦争をモチーフにしたボードゲームだ。

翻訳するに際して〈第三帝国〉を入手して馴染みたいと思ったのだが、叶わなかった。

その代わり、「第三帝国の最期」という類似のウォーゲームは入手した。『コンバット・マガジン』によるもの。名前からわかるように、ナチス最後のベルリンの攻防をモチーフにしたゲーム。

こんな盤の上でプレーする。実際の地図(けっこう大きい。テーブルいっぱいに広げることになる)を分割する「へクス」と呼ばれる六角形のマスに

こんな駒(歩兵師団、航空部隊、といった軍のユニットと、その能力などを書いたもの)

を配置し、ターンと呼ばれる攻撃回を交互にプレーしてゲームを進める。〈第三帝国〉は季節がひとつのターンになっているようだ。

小説『第三帝国』後半では〈火傷〉と呼ばれる謎の青年と主人公が毎日1ターンずつゲームを進め、その戦況説明がなされる。それが、現実の生活とあいまって主人公を追い詰めていく過程が緊迫感を湛える。


このゲームをしながら、ぜひとも、読んでいただきたく。