『2666』が出てしばらく経ったころ、反応を見ようと、何度かツイッターやウェブページで検索をかけたことがある。反応はきれいに二様であった。
1)これから読む/読みかけである/読み終えたことを報告する嬉しそうな記事。
2)長くて/高くて手が出ない/読めそうにない/読み終えられるとは思わない、と嘆くもの。
2)の中には相当数、読みたいのだけど長すぎる、高すぎる、というのがあった。高すぎるとという意見にもいくらでも反論はできるが、まあそれは別の話。ぼくが不思議でならないのは、読みたいけど長すぎる、という反応だった。
なぜ読み始める前に長いと思う? 読みたければ最初のページを読んでみればいいのだ? で、おそらく、読んでいる人というのは、長いと嘆いたり驚嘆したりする前に、もう読み始めている人たちなのだ。その人たちを見習って、最初のページだけでもいいから読んでみればいい。長さに見合うだけの喜びの得られない本だと判断すれば、そこで捨て置き、以後、語らなければいいのだ。長いけれども面白いと思ったら、何年かけてでも読む決意をすればいいのだ。決意などしなくとも、本当に面白ければ、何年かけてでも読むだろう。読みたいけど長すぎる、読めない、というのは、なんというか、実に悲しい未練だ。四の五の言わずに読みやがれって話だ。
と、ここまで書いて思ったのだが、うん? 待てよ……ふと我が身を振り返った。ちょっと立場を変えてみよう。ぼくはそういえば、書きたい、書きたいのだが書くのは難しいのだ、と昨日も書いたような気がする。
……ふむ。書きたい、でも書けない、と言っている輩は、確かにいつまで経っても書かない者なのかもしれない。未練たらしい単なる言い訳なのかもしれない。書いている者は、どう書こう、なんて考える前にもう書きだしている者なのだ。きっと……
さ、仕事仕事……
今年の3月に参加した会議に提出したペーパー、読んだよ、次、うちに投稿しない? という誘いのメールが、ある雑誌から来ていた。原稿依頼ではなく、勧誘なのだが、どうしよう、せっかくだから書く? でもおれ、そういえば、英語で論文書いたことないし、書けるかな? ……などと朝から考えていた。だから、書く人はそんなこと考えずに、もう書きだしているはずだ。四の五の言わずに、ということだ。