2020年10月31日土曜日

やっぱりX-E 3 が好き


Fujifilm X-E 3 である。数年前に導入し、気に入っている。名著『テクストとしての都市 メキシコDF』掲載の写真の何分の一かはこれで撮影した。センサーはAPS-Cなのだが、フジは頑としてフルサイズ・センサーのミラーレスを作らない方針のようだ。さしたる本格派でもない僕には、充分だ。


一眼レフ風の真ん中に山のあるタイプのカメラも持っていたが、僕はやはり、一般的に言ってもレンジファインダー式の、上がフラットなものが好きなようだ。車もセダンは好まないから、よほど出っ張ったものが嫌いなのだろうと思う。ともかく、そんなわけで、結局、これで充分と改めて確認し、これのみで行こうと思った次第。

こんなレンズをつけてみたのが正解であった。七工匠(7 artisans)の35mm(35mm換算で53mm相当)f1.4、MFのレンズ。これがなかなかいい。

こんな感じ。加えて逆光でいい具合にゴーストがでて、まるで古いレンズのようだ。

こんなのとか、

こんなのとか。


レンズ交換式のとは別にいわゆるコンデジも持っていて、これもかつてはCanon Powershotシリーズを愛用していたのだが、いつの間にかフジのX 70 に換わっている(自分で換えたのだが)。

うーむ、なんだかフジの回し者のようだ。

2020年10月26日月曜日

次の日曜日の遠出



わざとらしくこんな画像を載せてみる。



前の週の日曜に兄が死に、母が上京し、金曜に通夜、土曜に葬儀があった。


ここでは書くことがはばかられる宗教問題や、書くと長くなるので省く人間関係もあり、人の死は残された者の心痛の種でもあるのだ。いろいろあって、母を送って一泊で地元に帰ることになった。日曜日に行って、月曜日に戻った。


空港の待合室での収穫。



文(かざり)潮光(英吉)『奄美大島民謠大觀 復刻版』(南島文化研究社、1933/文秀人、1983)。


これに復刻版があるとは知らなかった。しかも復刻自体がかなり前のことで、それでもまだ空港の売店で買えるなんて! 僕はかつてこれの原版を都立図書館の目録に見つけてそれを参照した。以前発表した短篇小説「儀志直始末記」(『たべるのがおそい』Vol.7)の主要な発想源のひとつだ。



次は、みき。


神酒ではない。どのような言葉の由来かは知らない。米とサツマイモのデンプンとでつくる飲み物で、そういえばオルチャタみたいなものだ。もう少しドロドロした飲み物。これが意外と好き。



これはふねやき。「ケンムンのおやつ」だと(『奄美大島民謡大観』風に言えば、ふねは「船」のように発音されては困る。「ケンムン」のケはけでもないしきでもない。ンにいたっては存在すら疑われる。「ばけもの」では断じてない。「日本文字にはない發音である」〔13ページ〕)。黒糖の菓子なのだが、僕が認識しているふねやきよりははるかにパウンドケーキ風である。芭蕉(ばしゃ)……つまりモンキーバナナの葉が敷いてあって、歯触りを除けば、つまり風味と味は、なるほど、ふねやきだ。焼きたてですと言われて買ったのだ。うまい。



この菓子に敷かれた芭蕉の木(個体としては別物)。子どものころはこれに立派な実がなった。



廃墟風の我が家。上の芭蕉の木が向こうに見える。

2020年10月18日日曜日

日曜のお出かけ



こうして窓を写真に撮ると、二重露光したような効果を得られる。



目的地に少しばかり早く着いたので、コーヒーとガトー・ショコラでおやつ。


目的地はここ。



といっても、ノスタルジーに駆られて故郷に帰ったのではない。羽田の到着ロビーだ。来年には90歳になる老母が急遽上京することになったので、迎えに行ったのだ。休日で当日のことなので急にはレンタカーなど借りることができず、電車で行って、タクシーに乗せた。


だいぶ足腰が弱っている母が、係員に車椅子で助けてもらって上京したのは、今朝未明、兄が死んだからだ。可愛そうに。子どもの方が母より先に死んでしまった。


そんなにべったりな仲でもない……どころか、高校に入って家を出たので(兄も僕も)、離ればなれに暮らしいる期間の方が圧倒的に長い。昨年4月には癌が見つかり、治療していたので、つまりそんなに唐突というわけでもなかったし、喪失感が大きいわけでもないのだが、それでもわずか2歳違いだ。堪える。


柳原友厚(1961.12.5-2020.10.18)R.I.P.

2020年10月7日水曜日

ポロを探せ

パブロ・ラライン『エマ、愛の罠』(チリ、2019)


相変わらず悪意の冴えるパブロ・ラライン。彼に敬意を表して、僕も悪意を込めて、いわゆる「ネタバレ」(すれすれ)で書く。というか、そうしないことにはこの悪意は伝わらない。


物語の筋は、このエントリーのタイトル通りのものだと思った方がいい。ポロというコロンビア移民の子どもを養子に迎えたエマ(マリアーナ・デイ・ジローラモ)とガストン(ガエル・ガルシア・ベルナル)の夫婦は、しかし、ポロが放火事件を起こし、エマの姉が火傷を負ったことを機に施設に戻され、どうやら他の夫婦に新たに養子に出されたらしい。性病が元で不能になったガストンと12歳も年下のエマのやりとりは愛憎半ばし、まるでその種の心理劇かと錯覚させる。


一方で、ガストンはバイセクシュアルを匂わせるし、エマは実際、消防士のアニバル(サンティアゴ・カブレラ)とも、離婚訴訟のために相談に行った弁護士のラケル(パオラ・ジャンニーニ)とも、そしてレゲトン・ダンサー仲間の女性たちとも関係を持っている。レゲトンのリズムと奔放な(というより双方向に開かれた)性。これも映画が観客をミスリードするひとつの要素だ。トレイラーなどは明らかにそれを全面に押し出している。


夫婦は憎しみ合い、罵り合い、でもときに惚れ直し合いながらポロをどう扱えばよかったのかと話している。が、肝心のポロは出てこないのだ(本当は出てくるのだけど、それがそれとして知らされない)。そして、実はエマの行動はポロ(クリスティアン・スワレス)と再び巡り会うために計算されたものだったのだということが最後近くになって明かされる。


素晴らしいのは、それからラストまでのわずか5分ほどのシークエンスだ。再び巡り会ったポロをどう扱うのか。ガストンと同じツーブロックの髪(最近、どこかの高校で禁止になったとして話題になった髪型)にする。その後のことは、さすがに書かないでおこう。ここにララインの悪意の多くが詰まっている。そしてその悪意はコロンビア人の子を養子にしたメキシコ人演出家とイタリア系(といっても、この場合は演じる女優のことだが)チリ人ダンサー兼ダンス教師の夫婦が取り得る、現在では最善の、間文化的な家族とコミュニティのあり方を示唆しているのだから痛快だ。妻の踊るレゲトン(ヒップホップとメレンゲなどのミックス)を蔑むガストンと、妻がいるから他の女と関係は持てないと尻込みするアニバルの複雑な表情が、その悪意にして善意であるものを受け入れられないでいる者の心を代弁している。


ガエルがララインと組むのは3度目だが監督はこの国際的な人気者の優男/男優を困らせた表情にすることに長けている。『ジャッキー』でナタリー・ポートマンを美しくなく(醜いとまでは言えない)撮った人らしい。





マグネシウムの粒が洗濯洗剤+芳香剤代わりにいいらしいというので、買ってみたぞ。


2020年10月6日火曜日

世界が縮小している

僕は扁桃腺が悪いので、のど飴を持ち歩いている。お気に入りはAsahi のはちみつ黒糖のど飴で、これは売っている場所が限られているので、時々、困る。



先日、いつも買っていた店でブツが見当たらないと思ったら、パッケージが変わっていた。それで気づかなかったのだ。


が、このパッケージ、変わっただけではない。どうも量が減ったようなのだ。持続時間が短い。袋も開けづらくなっているし、……うーむ。値段は変わらないのに。最近、こういう例が多くないか? 値段は変わらないけれども、パッケージを刷新して、減量をカムフラージュする。


日曜の晩、ついついNHK-BSのプレミアムステージを見てしまった。


三好十郎作、栗山民也演出『殺意 ストリップショウ』鈴木杏ひとり芝居@シアタートラム。


圧倒されたのだった。1950年の作品。


ストリップショウを今日が最後だからとダンサァの緑川美沙が自らの半生を振り返る形式。兄の先輩の社会学者・山田先生を頼って上京し、最初は先生宅に住み込みで学び、後に関連の新劇の劇団に入った美沙は、先生の弟の徹男に恋をする。山田先生は社会派でいっぱしの左翼だったはずが、すっかり転向し、信奉者たちを戦争にけしかけている。その中には徹男もいる。徹男は学徒出陣で出征後、死亡。戦後、美沙はストリッパーに、そして高級娼婦に身をやつす。久しぶりに山田先生の講演会を見かけて聞きにいったら、彼は再転向して民主主義と労働運動を語っている。美沙は殺意を感じ、彼をつけ狙う……


といった話をひとりで2時間、下着姿(ダンサーの衣装としての下着、といった感じの格好。それに薄手のロング・カーディガンを羽織った姿)で語る鈴木杏は、やっぱりすごいのだ。


見終えてしばらく眠れなくなってしまった。


でも、もう授業が始まっている。つらい……

2020年10月1日木曜日

ブログもこまめに更新しなきゃと、月初めにはいつも思うのだけど……

10月になってしまった。否応なしに。授業も始まってしまった。9月の末には博士論文の審査があったりして、いろいろと大変だった。博士候補(まだ教授会を通過していないので、候補のままだが)は某私立大学に専任教員として4月から勤めることになったようだ。めでたい。



小田香監督『セノーテ』の劇場公開用パンフレットに「神話を幻視する」という文章を書いた。



『ユリイカ』10月号ペドロ・コスタ特集に「靴を脱ぐ女」という文章を書いた。



疫病を忌避してあまり出歩かないものだから、ソーラー電池式懐中時計の電池が切れた。


そして今日は「新・今日の作家展2020 再生の空間」@横浜市民ギャラリーに行ってきた。


「メキシコシティの探偵」(2020)をはじめとする4本の地主麻衣子のビデオ作品およびインスタレーションと、「震災後ノート」などの山口啓介の作品の展示。


「メキシコシティの探偵」は地主さんがメヒコで撮ってきた映像にボラーニョの詩の朗読をかぶせたもの。若きボラーニョのだらしなくロマンチックな詩が乾いたメヒコの街角を歩く名も知れぬ人々の背中に跳ね返る。


「震災後ノート」は圧倒されたので、帰宅後、授業の準備ノートがいつもより綿密になった。影響を受けやすいのだな。展示は10月11日まで。


ついでながら、今期の授業ではマリオ・バルガス=リョサ、オクタビオ・パス、アルベルト・ルイ=サンチェスなどを読む。