2016年12月31日土曜日

砂漠への旅

ちょっと前にこういうツイートをした。

大見嵩晴のメールマガジンの文章について呟いたのだ。。

大見の文章はボラーニョ批判なのだが、どうにも的外れだ。まず第一に『野生の探偵たち』を読んで鼻白んだと、というのも「この小説は数十頁で収まる内容を邦訳にして八百頁程度に引き伸ばしたものだったからである」と。第二に、にもかかわらず訳者の柳原〔つまり僕だ〕が「めっぽう面白くて紛れもない傑作なのだけど、何しろ長くて難解なこの小説」と書いているのをあげつらい、ボラーニョの読者は彼の作品を難解だと思っているようだがそうではない、というのが論点。ボラーニョは難解なのではなく、「つまるところ、それは難解さを装った書物であり、頁を捲るという肉体労働を続けるだけで、難解さと対峙したと誤解できる書物なのである。そのような小説を求める読者とは難解を受容している自分に酔いしれるために書物を消費しようとしている読者である」とまで言い切っている。

まず、僕が「難解」だと言ったのはスペイン語を日本語にすることが難解だと言う意味。僕は小説に難解さなど感じない。第二に、「難解さと対峙したと誤解できる書物」とつき合う「自分に酔い痴れる」読者が「書物を消費」しているというが、書物を「消費」するという行為は、長い話を数行の話に縮めてしまうようなもののことだ。ロラン・バルトはそう呼んでそれを「テクストの快楽」の対極に置いた。つまり、「八百頁程度に引き伸ばした」話を「数十頁に収まる内容」だと断言するのが「消費」だ。テクストを消費したがっているのは大見の方ではないのか?

次に僕がいぶかしく思うのは、なぜこの人はボラーニョではなく、その読者を批判するのか、ということだ。読者は好きなように読むものだ。もちろん、消費だけする者もいれば、思いがけない楽しみを引き出す者もいる。読者批判は自分にも返ってくる。天に向かって唾を吐く行為だ。読者を蔑む者は読者から蔑まれる。

こうした大見のような論に勢いを与えているのが寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』で、なるほど、そこではボラーニョの読者はアメリカあたりの批評家に追随して、などと、根拠の怪しいことを書いている。いつもの戯れ言だ。無駄な遠吠えだ。そして彼は短篇や中篇がボラーニョの本領発揮だとした上で〔もちろん、このことには異論はない。中篇も面白い〕、長篇は「象徴体系」に欠ける、などと切り捨てる。

象徴体系? (まさかアレゴリーのことではあるまいな)

いつの時代の話なのだろう? ボラーニョが要求しているのは、そんな使い古しの判断基準などではないのに。ボラーニョの読者はボラーニョに「象徴体系」などという古臭いものなど求めてはいないのだ。書く対象が異なれば手法が異なる。手法が異なればそれを叙述する言語も異なる。批評のタームが一変する。そんな当然の事実を前になまじっかな批評の言葉は空しいだけだ。

長篇を長いとか無駄だと言って切り捨てる手合いには、ボラーニョ自身の長篇内での文章を読ませて差し上げよう。『2666』の第二部「アマルフィターノの部」の結末近く、アマルフィターノが読書家の薬剤師の読む本について感慨を巡らせている。薬剤師が『変身』や『バートルビー』といった短いものを主に読んでいることを知ったアマルフィターノは考えるのだ。

いまや教養豊かな薬剤師さえも、未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことを知ろうとはしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを。(野谷ほか訳p.228)

ボラーニョの長篇の読者は彼が「我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っている」その姿を見たいのだ。なんらかの「象徴体系」に収まる行儀良さでもなければ、「数十頁に収まる」ようなまとめではない。

たとえば『2666』が読者に呼びかけているのは、サンタ・テレサという架空の街、それを取り囲む砂漠にやって来いということだ(その意味で『野生の探偵たち』も半ば同じだ)。砂漠を見て、砂漠を感じて、そこでアルチンボルディという作家がどこにいるのかわからないけれども、彼が近くにいることを感じることだ。「批評家の部」のペルチエがそう感じたように。植物の墓場である砂漠地帯で累々と死屍が積み重ねられている終末の光景を眺めることだ。文字どおり「血と致命傷と悪臭をもたらすもの」が横たわっている様子だ。ボラーニョに魅入られた読者たちが欲しているのは、そんな終末の様相を呈する場所でボラーニョがいったい何を見、何を感じているのかを推測することなのだ。ボラーニョとともに見た砂漠の光景を描いてみることなのだ。

ボラーニョのランボーへの傾倒は明らかだ。『野生の探偵たち』の中心人物のひとりベラーノにアルトゥーロという名を冠し、その彼をアフリカに死なせている。自らの分身をランボーに同定した。ランボーは詩を棄てて砂漠に消えたのだ。詩は砂漠に消える。『野生の探偵たち』の第三部でランボーの話が出てくるのは偶然ではない。ベラーノはソノラ砂漠でランボーを感じているのだ。砂漠とは詩人(場合によっては詩を棄てた詩人)が感じられる場所だ。

一方で、ボラーニョの北はボルヘスの南と同じだ、というのような話を僕は授業でしたのだった。北が南であるならば、突き詰めていけば砂漠はパタゴニアの凍ってやせ細った台地と等価なのだとも。ブルース・チャトウィンがそこに伝説の続きの死(サンダンス・キッドだ)と詩(詩についてのトリビア)を見出したように、ボラーニョも伝説の続きの死(セサレア・ティナヘーロ)と詩(詩についてのトリビア)を見出している(『野生の探偵たち』の場合)。おびただしい数の屍の果てに詩を見出している。


うむ。2017年は少し砂漠を旅してこよう。

2016年12月28日水曜日

もうすぐ年が改まる。

先日の「はじめての海外文学フェア スペシャルの動画がアップされた。僕もしゃべっている。当然。



グラナダの丘サクロモンテにクエバと呼ばれる洞窟形式の家が軒を連ねている。その場所のジプシー、つまりロマたちの共同体で自然とフラメンコを学んだバイラオールやカンタオールたちの群像を彼らが踊りや歌を披露していたサンブラ(という呼び名だ)の跡を紹介しながら、みずからアーティストでありこうした歌の採取や保存に取り組んでもきたクーロ・アルバイシンが案内・紹介しながら進む。時にクーロらの子ども時代のモノクロの映像が挟まって愛嬌がある。

師弟関係や親子関係など確認しながら何度も巻き戻して見たいものである。

夜は小笠原伯爵邸でディナー。なんだか恋人たちのクリスマス・ディナーみたいだ。


俳優・宅間孝行は実は三池崇史版『愛と誠』(2012)の脚本も書いている人物で、近年はこのタクフェスというやつをやっているようなのだが、何しろ友人の女優が客演しているので観に来た僕としては、開演前の触れ合いタイムなど、たじろがされた。

劇自体は「オムニバス」と呼んでいた。春、夏、秋、冬の四章にプロローグ、エピローグを加えた作品で、僕はそれをオムニバスというよりは連作短篇と呼びたい。春の中山競馬場で客の金まですった銀行員が夏の花園神社境内ではアングラ演劇の俳優をやっていて、秋には暴力団の若頭へと転身していて、……というように、宅間孝行がひとりの人間の4つの異なる人生のステージを演じている。


夜、入浴中に地震が来た。初めての経験だった。

2016年12月25日日曜日

母を憎む

レイナルド・アレナス『襲撃』山辺弦訳(水声社、2016)

「超厳帥」が統治する社会で、囁きや人の股間を見つめる、規定された以外の語(「私、寒い」など)をしゃべるなどの行為が罪になる、そんな社会で罪人を次々と殲滅という名の死刑執行に追い込み、「愛国大英雄」として「超厳帥大演壇」の「名誉登壇者」となった「俺」は、母を憎み、彼女を殺すことを目的としているが、どれだけ探しても見つからない。「超厳帥」の部下でナンバーツーの「大秘書官」はこの「大演壇」の席で母を見つけ出せるはずだと甘言を弄する。しかして、登壇の当日……という近未来SF。

52の短い章からなり、各章につけたタイトルは何らかの本(脈絡のない)からの引用になっている。ただし、章の中身とは無関係。自身の作品からの引用もある。最終第52章だけが表題と同じ「襲撃」というタイトル。

母への嫌悪の凄まじさと性欲への意識が印象的。母親と出会えると期待した出来事の前の晩、逃げても逃げても母に放尿され、股間の陰毛に窒息させられるエピソードなどは、もう何と言うか、……何とも言えないのだ。父殺しというテーマは馴染みのものだが、これは母殺しの小説。

不思議な章ごとのタイトル以外に、この作品を読みにくくし、かつ読むドライヴとしている言語操作はいくつかの次元に渡っている。

1) 「五月蠅(うるさ)い」などの漱石風の漢字使い。
2) 「良留(ヨル)」「皇苑(コウエン)」などの通常の単語を別の漢字表記で表したもの。
3) 「複合家族」「大厳都」などのSF的設定ゆえの造語。この次元の造語、「複合独房」「愛国地獄」「移動式監獄」などはふと立ち止まって考え、笑ってしまう。

ここにアレナスが言論弾圧を受けたキューバ革命政権などの、あるいはより広範に言って独裁体制への批判を読み取ることは容易ではある。「発言撤回大ホール」、「大衆への見せしめ」としての「象徴的打撃」などの語は革命政府の強要する自己批判そのものだ。けれども、やはりそれ以上に気にかかるのは母への嫌悪、そして女全般に対する嫌悪感だ。実に、何と言うか、……何とも言えないのだ。


『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行による邦訳が存在する)に始まる五部作〈ペンタゴニーア〉(五部作pentalogíaと苦悶agoníaを繋げた造語)の最終作。エイズを発症し自ら命を絶った亡命作家が最後に至った地点がこれだと考えると圧倒されるというか、言葉を失う。

写真はイメージ。昨日乗った都バス。そういえば、『襲撃』の人物たちはバスに乗るのではなく、バスになる。これもまた笑えるんだか悲しいんだかのエピソード。


2016年12月18日日曜日

またしてものぞき見趣味発動

池上彰、佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方――新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意』(東洋経済新報社)

僕は池上や佐藤の影響圏にあるわけでなく、彼らの著作はそれぞれ2、3冊ずつ読んだという程度なのだが、何しろいろいろ悩むところ多くて読書論のようなものを読んでしまいがちで、なんといってもこれを手に取ったのは、前を通り過ぎたからに他ならず、が、ふと見れば冒頭にふたりの書斎や文具などの写真がふんだんに載っているからという次第。つまりまあ、他人の書斎をのぞき見する例の趣味ですな。

まあ、タイトルが2時間ドラマのそれみたいで、ほとんどすべてを言い尽くしているのだが、新聞、雑誌、ネット、書籍、そして中学・高校の教科書・参考書などにわけて活用法をふたりが話し合っていく、というか、ふたりのそれぞれの活用法を披露し合っていくというもの。

佐藤など本は「超速読」と「普通の速読」と「熟読」に分けるというだけあって、この本の作りそのものが、二色刷で大事なところに蛍光ペンを引いた風の色づけがあったり、項ごとにまとめがあったりで、速読用にできている。

本などの読み方もさることながら、ふたりが揃って2013年末から2014年初頭にかけての頃に新聞が変わったと感じているという指摘をしているところなどは、証言として貴重かと思う。池上はさらに2008年のリーマンショック以後新聞広告が変わったといい、男性用精力増強剤の広告が最初に『朝日新聞』に出たときに「心底、驚きました」と言っているのも面白い。僕も、同様に驚いた。それから包茎手術を勧める整形外科のCMがTVの深夜帯でもない時間帯に流れ出した時にも驚いたけれどもね、僕は。さすがに池上さんはそんなものは見てないか。

ふたりともメモを取るのに速記用シャープペンシルを使っている(0.9ミリと1.3ミリ)というので、実はその速記用シャープペンシルなるものの存在を知らなかった僕はひどく気になったのだった。で、気になったはいいが、あくまでも軸の太いものが好きな僕は、もっと気になる、こんなものを見つけてしまった。(リンク)ファーバー・カステルのエモーション。


なんだこれは! 欲しいぞ! サンタさんにお願いすればもらえるかな? 

2016年12月12日月曜日

文具会社、注目のイベント

そんなわけで、昨日、「はじめての海外文学スペシャル」というイベントに行ってきた。「はじめての海外文学フェア」というフェアがいくつかの書店で行われていて、今年が2回目なのだが、そのスペシャル・イベント。フェアで推薦人を務めた翻訳家たちのうち19人が、自分のものであれ他人の訳したものであれ、推薦の1冊を3分間の制限時間内で紹介するというもの。

「ビギナー編」と「ちょっと背伸び編」があり、僕はビギナー編の推薦をと依頼されたので、自分の訳したものだけれども、エドゥアルド・メンドサ『グルブ消息不明』を推薦した。それについて概要を話し、ごく最初の方で、何度も車に轢かれて首が抜ける箇所を読んだ。

みなさんそれぞれ、1冊ないしは2冊を面白く紹介していた。英語以外の言語からの翻訳も多数。緊張するだの人前で話すのは久しぶりだの言いながらも、うまくまとめ、面白い話しばかりであった。面白そうな作品ばかりであった。

さて、ところで、終了後、サイン会などが開かれた。場所がABC(青山ブックセンター)本店の上の施設だったので、ABCで買って、その本にサインをもらう、なんてことも可能だった。ともかく、サイン会が開かれたのだ。すると、サインペンも用意されていたのだが、かなりの数の翻訳家たちが自らの万年筆を取り出し、サインしていた。

万年筆だ。

パイロットの80周年記念の限定品を持っている人、巻物式の筆入れに何本もの万年筆をさしている人、ペリカンのスーベレーンをさりげなくひけらかす人(僕以外に、ということだが)……等々。


ふむ。職業柄、と言えばいいのか? ここにこれだけの需要があることに文具会社は注目すべきだろうな。

2016年12月11日日曜日

声を聴く、感覚を表現する、招喚する

昨日は昼から6時間の長丁場で行われた「和田忠彦教授退任記念シンポジウム 遊戯のはじまり」@東京外国語大学に行ってきた。

第一部「感覚の摘み草」では岡田温司、小沼純一、沼野恭子、福嶋伸洋、山口裕之、松浦寿夫が登壇。感覚を言葉で、絵画で表すことの困難についてそれぞれの立場から話した。

第二部「ことばのたろんぺ」(たろんぺというのは秋田の方言でつららのこと)に登壇したのはジョルジョ・アミトラーノ、木村榮一、澤田直、都甲幸治、栩木伸明、西成彦、久野量一。みんな面白い話をするものだ。

第三部に和田忠彦さんご本人の講演「声の在り処 詩から詩へ」。エウジェニオ・モンターレをよりどころとして記憶を召喚したふたりの作家、イタロ・カルヴィーノとアントニオ・タブッキについての話は印象的だった。

最後に「読みまどろむ」として土肥秀行、くぼたのぞみ、ぱくきょんみ、山崎佳代子がそれぞれ和田さんの書いたものや訳したものの一節を読み、コメントした。時間が押していたので和田さんご本人は朗読できなかった。

なんでも和田さんご自身が、若い頃、まだ京大の大学院生だったころと言っただろうか?、ドイツ文学の野村修さんの退職記念連続講演(つまり、最終講義として自分が話すのでなく、野村さん自身が聞きたいと思う人の話を聞く、という会を開いたのだそうだ)で話すことになったのだとかで、それをヒントに、最終講義でなく、こうした会にしたのだとか。

パーティーも盛況だった。パーティー後は、何人かの仲間たちとひさしぶりに吉祥寺の〈けむりや〉に行き、結局午前様、池袋からタクシーに乗ることになった。カメラをなくしたことに気づいて慌ててタクシー会社に電話したら、どうやら車内に置き忘れたようだ。着払いで送ってもらうことにした。


今日は、これ(リンク)。僕も登壇する。来てね。

2016年12月6日火曜日

蝶が舞う あるいは魔術的リアリズムの皮相な真相? 

『百年の孤独』のマウリシオ・バビロニアという人物には常に黄色い蝶または蛾(同じことだ。同じ単語なのだから)が飛び回っている。

これが意外に多くの人の心に残る要素のようで、よく引き合いに出されているのを目にする。「蛾」ではなく「蝶」なのでは? なんてものも含めて(繰り返すけど、同じ単語だ)。ガボの葬式の時にも黄色い蝶を舞わせたらしい。

これをして驚異的、魔術的、と言うべきかどうかは議論の分かれるところで、コロンビアのある地方では、季節になると蝶が大量に舞う光景が見られる。一種の風物詩だ。僕も『百年の孤独』を読むよりも前のことだと思うけれども、TVでその映像を見たことがあった。NHKなんかがよくやっている、外国のちょっとした話題を紹介するような番組だか番組内のコーナーだかでのこと。

蝶が大量に群れをなして飛ぶのは風物詩だとしても、それがひとりの人間に常についてまわるということは、なるほど、あり得ない話であって、それをして人は「魔術的」というのかもしれない。でも、それはむしろ、マンガみたいなキャラクター設定ということだろうと思う。常にある匂いに包まれる小町娘のレメディオスと同様の造型だ。

今日、2限の時間、そんな話をしていたら、3階の教室の窓に大量の黄色い虫がぶつかってきた。見ると蝶が大挙して窓を襲っていた!…… 

……よくよくみるとチョウではなくイチョウだった。イチョウの枯れ葉(『落ち葉』!)が風に舞って窓に打ちつけたのだ。

ま、「魔術的リアリズム」ってこの程度のことです、と僕は授業を締めくくった。

(以上の話には、フィクションがある。他のテクストを読んでいて、窓にイチョウが押し寄せ、見て錯覚して驚き、『百年の孤独』の話をした、というのが正しい順番。そしてそれは授業半ばのこと。すぐには終わらなかった。現実はそんなに美しくは終わらない)


いや、でも本当にイチョウが3階まで舞い上がってくるというのは、すごいことだと思う。

あ、そうそう。ここにエッセイ書きました。
『NHKテキスト 基礎英語1』2017年1月号。月替わりエッセイ「ことばのプレゼント」だ。今日の出来事に負けず劣らずマジカルな記憶の問題について書いた。

2016年12月4日日曜日

人間は一番美しい……のか? 

とある授業で次の小説を読んでいる。

Lucía Puenzo, Wakolda (México: Tusquets, 2011)

ルシア・プエンソはルイス・プエンソ(『オフィシャル・ストーリー』など)の娘にして自身、映画監督でもある。で、この小説を自分で脚色し、映画化したのが同名の映画(アルゼンチン、スペイン、フランス、ノルウェイ、2013年)。邦題は

『見知らぬ医師』(オンリーハーツ)

小説内のある科白の後の文章が、構文は難しくないのだがどうにも意味内容が納得がいかず、何かのヒントになればと、その科白を映画で確かめてみようとしたのだが……結局、その科白は別の人物が別の場所で発していたのだった。

『見知らぬ医師』は実在のナチスの人体改造実験を推進していた医師ヨーゼフ・メンゲレをモデルとしたフィクション。メンゲレはリオ・デ・ジャネイロの海岸で溺死するのだが、その前にアルゼンチンに隠れていたという話。

ブエノスアイレスを離れ、バリローチェというパタゴニアの街に逃げる途中のメンゲレ(アレックス・ブレンディミュール)が、エンソ(ディエゴ・ペレッティ)とエバ(ナタリア・オレイロ)の夫妻の娘リリット(字幕ではリリス、フロレンシア・バド)に目をつけ、道案内を頼み、ついでエンソたちが死んだエバの母の後を継いで開いた宿屋に投宿する。年のわりに背の低いリリットに身長が伸びるホルモン治療があるとして持ちかける……

ナチを逃れて多くの人が、そして多くのユダヤ人が逃げてきたアルゼンチンにはアドルフ・アイヒマンも潜入していた。メンゲレを助ける元ナチ医師グループの存在がなかなかに恐ろしい。原作小説では人体を改造することに心血を注いでいた医師(小説内ではホセを名乗っている)のリリットやその他の人間に対する眼差し、あくまでも被検体に対する眼差しが、時に笑いすらも産み出す。さすがに映画ではこうした心理に立ち入ることまではできていない。代わりにリリットのナレーションが伝えていた。また、小説の言葉にはもう少し彫琢が欲しいと思うところがあるのだが(不用意に同じ語をすぐ近い場所で繰り返したりということがある)、小説にはない言語外の要素、音楽と映像は美しい。


写真はイメージ(昨日、東京都写真美術館ホールで買ったホセ・ルイス・ゲリンの新作前売り券のおまけにもらった絵葉書)。

2016年12月3日土曜日

バレエも美しい


この作品がフォーカスするのは3人のバレリーナ。アリシア・アロンソとビエンサイ・バルデス、それに少女アマンダ。

冒頭、アリシア全盛期の何十回と続くピルエット、継いで負けず劣らず続くビエンサイのピルエット、そしてまだ駆け出しで、数回も続かないアマンダのピルエットが連続で映される。

それ以前に、「この作品がフォーカスする」と言ったのだが、一番の冒頭から始まって上映中何度かフォーカスのぼやけたアリシアやリハーサル中のバルデスの姿などが映されるが、これはごく若い頃から網膜剥離に苛まれたアリシア・アロンソの視界を再現しようとしたものに違いない。アリシア(1921年生まれ)は実際、今では目はほとんど見えないのだけれども、それでもわずかに見える人の輪郭などを頼りにレッスンをつけているのだから驚きだ。「表情が硬い」などと叱責を飛ばすのだ!

アリシアにレッスンをつけてもらっているビエンサイ(字幕はヴィエングセイ)は押しも押されぬキューバを代表するプリマなのだが、リハーサル中は常に悩んでばかり。それがプロというものだろう。

アマンダはプロのバレリーナになりたくて、それを支えるために仕事をやめた父母とともに地方から上京してきて、バレエ学校の試験に臨もうとしているところで、ある日、レッスンの後にアリシアに稽古をつけてもらっているビエンサイの練習風景を覗くことになる。

盲目で高齢のアリシア・アロンソは、今では当然、激しい動きはできないのだけれども、その彼女が最低限の動きで振り付けの要点をビエンサイに示してみせるシーンがある。そのときのアリシアの動きにはハッとする。カルペンティエール『春の祭典』で、語り手=主人公のひとりベラが、自分に欠けているものはリズム感だとの観測を述べる箇所がある。リズム感と言っても、リズムに合わせることができるとかできないという話ではない。リズムに合わせつつ、独自のゆったりとした動作でリズムを支配する、そんな動きができないのだ、と。そうした動きができる人でないとプリマは張れないと。菊地成孔はファッションモデルたちがわざとリズムを外して歩くことを指摘し、そのずれにモードがあるのだと言っているが、それはこれに似たような動きのことを言っているのだろう。タメ、というか、腰……そうしたタメがいまだ堂々として、その時だけ年齢と盲目の条件を忘れさせる。そんな瞬間がある。


ところで、タイトル。原題はHorizontesと複数形だが、『ホライズンズ』でなくていいのかな? でも、そういえば、「地平線、水平線」を意味するこの英語の単語、かつては「ホライン」と表記していたと思うのだが、今では「ホライン」なのだ……ま、些細なことだが。