2020年12月31日木曜日

今日で2020年が終わるだなんて、とりあえずは信じないでおこう

こんなものを買った。


丸いまな板。この方がスペースを有効活用できるような気がして。


六本木に行ってきた。「ジョン&ヨーコ ダブルファンタジー展」@ソニーミュージック六本木ミュージアム。

出会いのきっかけとなったヨーコの作品や


「ベッドイン」で “Give Peace A Chance” を作ったときのベッドとギター、


その他さまざまなテクストやビデオなど。


巽孝之さんはジョンが自身の政治運動や発言を “phony” と表現していて、それが『ライ麦畑でつかまえて』のキーワードで、それゆえに殺されることになったのだと、同じ展示を見て伝えている。さすがだ。僕にそこまでの観察眼を期待しないでくれ。



帰りに久々にキャンティに寄った。写真はそのこととは特に関係ない。

2020年12月28日月曜日

今月は映画の話が多い

情報が解禁になった。〈現代アートハウス入門〉という企画で小田香さんとお話をすることになった。


2月1日(月)のことだ。アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロ監督『トラス・オス・モンテス』(ポルトガル、1976)を観て、それについて話す。アートハウスつまりミニシアターでかかった現在では古典といっていい作品を上映し、それについて映画監督たちが(時にはゲストとともに)語るという7夜連続の企画。その第3夜に僕は登壇するという次第。第1夜『ミツバチのささやき』第4夜『緑の光線』などもいくらでも話したい対象の作品ではあるが、ともかく、第3夜だ。アントニオ・レイスのドキュメンタリー的手法に影響を受けたのがペドロ・コスタ。そのコスタの教えをタル・ベーラの映画学校で学んでいるときに受けたのが小田香さんだ。僕は小田さんの映画『セノーテ』のパンフレットにちょっとした文章を書いた縁がある。コスタについても、以前告知のごとく、『ユリイカ』コスタ特集に書いたのだった。


ところで、蓮實重彦『見るレッスン――映画史特別講義』(光文社新書、2020)ではドキュメンタリーを撮れる監督に優れた作り手がいることが指摘されている。そして、現在の日本が第三の全盛期にあるとする蓮實は濱口隆介などのその傾向を高く評価している。加えて、世界に伍する優れたドキュメンタリー作家として小森はるかとともに小田香の名を挙げている。ふたりは「日本の宝」なのだそうだ。


そんな「宝」と僕はちゃんと話すことができるのだろうか? 


まあいいや『トラス・オス・モンテス』というのはポルトガル北部、スペインとの国境地帯でこの辺は400年もの長きに亘って追放ユダヤ人たちが住んでいた地区で、つまりは、ブニュエルの『ラス・ウルデス/糧なき土地』(1932)の地の裏に当たる場所だ。そんな話をしようではないか。そして、それ以上に、小田さんの話を伺おうではないか。

2020年12月27日日曜日

愛おしいぞ

2日前のことではあるが、届いた!


西崎憲編『kaze no tanbun 移動図書館の子どもたち』(柏書房、2021)。


僕はここに「高倉の書庫/砂の図書館」という「短文」を掲載している(125-40ページ)。以前、やはり西崎憲さんの編集する『文学ムックたべるのがおそい』7号に「儀志直始末記」という短篇小説を発表した。そこでは盲目となる自らの運命と折り合いをつけるためにボルヘスになることを決意した伊地知孝行という人物を作り出したのだが、実はそう決意する前から彼はボルヘス的な環境に生きていたのだという話……なのか? 基本的には僕が小学生のころに読んでいた学研の〈中学生の本棚〉シリーズをめぐる思い出を島尾ミホでまとめたもの、という方がわかりやすい説明かもしれない。


しかし、それにしても、執筆陣が豪華で、自分が恥ずかしいくらいである。編者の西崎憲も書いているが、その他には我妻俊樹、円城塔、大前粟生、勝山海百合、木下古栗、古谷田奈月、斎藤真理子、乗金顕斗、伴名練、藤野可織、星野智幸、松永美穂、水原涼、宮内悠介、そして、僕だ。な? 気後れするだろ?


星野さん(「おぼえ屋ふねす続々々々々」! ボルヘスの笑える要素をうまい具合に引き出していて面白い)と僕とでゾーン〈ボルヘス〉を形成する。そこに勝山さんが加わってゾーン〈スペイン語〉が成り立つ(彼女の作品はタイトルが作品内の謎への解答になっている)。何しろタイトルが「チョコラテ・ベルガ」だからだ。 “Chocolate belga” だな。ほかにもおもしろい作品ばかりだ。松永さんはアンナ・ゼーガーズとその子供、そして宮本百合子を重ね、そこに「自分」を重ねる文章。ゼーガーズだ! 


装丁も可愛らしいし、タイトルに合わせて図書貸し出しカードのような栞がついていて、それがまた可愛らしい。そしてその裏には執筆者のうちの誰かの短詩が印刷されている。僕のは自分の作品の前口上みたいなものだ。



2020年12月14日月曜日

映画三昧、といってもいいかな?

昨日は予告通りラテンビート映画祭でダビッド・マルティン・デ・ロス・サントス『マリアの旅』を見た。これもすばらしかった。


そして今日、セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像』(フランス、2019を見てきた。カンヌの脚本賞とクィア・パルム受賞作。


結婚を前に姉が死んだ(たぶん、自殺した)ために、修道院を出て、どこかの孤島の城で身代わりの結婚に備える娘エロイーズ(アデル・エネル)の肖像画(見合い画?)を描きに来たマリアンヌ(ノエミ・メルラン)は、エロイーズが前任者に描かれることを拒否したので、単に散歩の同行者を装ってこっそりと描いて欲しいと依頼される。マリアンヌはチラチラと彼女を見ては夜、記憶に頼って細部を描き留め、そこから全体を再構成する。そうやって描いた絵を、しかし、まずは素性を明かしてエロイーズに見せてから渡したいと言ったためにエロイーズ本人に否定され、もう一度描き直すことにする。母(ヴァレリア・ゴリノ)がしばらくパリに行っているので、戻ってくるまでの5日間で完成させることというのが条件だ。今や堂々とモデルとしてエロイーズにポーズを取らせて描くマリアンヌは、欲望を抑えられない(視点は一貫してマリアンヌにある)。2人は関係を持ち、愛し合いながら絵を完成させていく。


かくして絵は完成するのだが、絵の完成は別れをも意味する……


何よりも自分の名前で創作できなかった時代の女性画家の創作をめぐる作品だ。それが絵であるから、そこには見る見られるの関係が入り込んでくる。見られる対象であるエロイーズは最初衣服にくるまれた後ろ姿でしかない。やがてフードがズレおち、走る彼女のふくらはぎが覗き、ちらちらと斜め後ろからの顔が見え、そしてやっと振り向いたその顔がはっきりと見える(振り向くことはこの映画の重要なモチーフでもある)。こうして顔が露わになった後も、しばらくはマリアンヌによって窃視された横顔しか見えなかったりして、巧みな視点操作が行われる。こうした窃視は恋に落ちた者の落ち着きなさを表していると同時に、その執拗さはねっとりとした欲望の表現でもあるように見える。官能的、と言えばいいのかな? 


一方で、いったんは仕上げた絵をモデルが拒否するなど、作家とモデルの関係をも描く芸術家映画の要素ももちろん持ち合わせている。親が不在の間に羽目を外す子どもたちの物語も映画ではよく描かれるが、母が留守にしている間に2人は関係を持つのだから、このタイプの変種とも言える。振り返ることはこの作品の重要なモチーフだと上で書いたが、エロイーズがマリアンヌと使用人のソフィ(ルアナ・バイラミ)に読んで聞かせるオルフェウスの物語も別れの物語を盛り上げる。いろいろな要素が詰め込まれた作品だ。最後には「コウルリッジの花」(ボルヘスの同名のエッセイ参照)のモチーフまで示して小憎らしい。


そして何より、最後のヴィヴァルディ「夏」(『四季』)の演奏が胸を打つ。そこでのアデル・エネルが外語時代のある教え子(母親がドイツ人だったかな?)によく似ているので感慨もひとしおなのだ。


写真はイメージ。

2020年12月13日日曜日

映画三昧、ともいかない

ラテンビート映画祭が開催中である。今年はオープニングの1本を除き、オンライン配信でやっている。今日まで。オンライン配信だから全部観られるだろうと思っていたが、案外忙しなく、今のところ3本しか観られていない。今日、駆け込みでもう1本くらいは観ようと思う。


観たのは、『モラル・オーダー』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ベネズエラ』、『息子の面影』だ。真ん中のやつはクラウドファンディングの見返りに無料で鑑賞。


マリア・デ・メデイロスが20歳ばかり年下のしかも元使用人と不倫する話! と喧伝されているかもしれない『モラル・オーダー』は、実際には自分の親の築いたものである大新聞社を夫に乗っ取られようとして戦った女性の実話を基にした物語。


マラカイボ湖畔の水上の集落に取材したドキュメンタリーである2本目は、明らかにこのところの政治の不安定が原因である石油問題が絡んでいるのに、それでも政権を支持し信じる村の顔役然とした女性と、半政府派の学校教師の対立を描きつつ、それすらもが馬鹿らしくなるような村の凋落と退廃を非情に描いている。


『息子の面影』は国境越えの不法労働移民の問題かと思いきや実はその途中で遭遇する危険性のある麻薬カルテルを中心とした組織による収奪と人間狩りの問題でもある現代メキシコを描く、しかし、ロードムーヴィーの趣を持ったもの。途中、これは現代版『ペドロ・パラモ』か! と思わせる箇所あり、レイガダスを想起させるような幻想的かつ恐怖の場面ありで実に面白い。傑作だ。



ところで、ソニーのデジタルペーパーを使っている。PDFリーダーとしてのこの器機は、読みやすく書き込みもしやすく助かるのだが、いかんせん、ページめくりが素早くできない。高速でページを送りながら読むべき箇所を探さなければならない大部の文書を読むには辛い。その点ではiPadでAdobeリーダーやPDF Expertを使って読む方がいい。気づいたら、ソニーのもの以外にもたとえば中国のメーカーの電子ペーバーがたくさん出ているのだが、どれも良さそうに見えるそれらの商品のレビューを探しても、この点について触れたものはあまりない。かろうじて富士通のQuadernoに関してAmazonのユーザーレビューでページ送りが遅いのがいけないとの指摘があるくらいだ。


この点がよければ迷わず新たな器機を導入したいと思うのだが、それがわからない限りは導入には踏み切れない。これが改善されていなければ、現在のソニーのデジタルペーパーとiPadの体制でなんら問題はないからだ。


うーむ。どなたか、ご教示を請う。


ニューヨーク本店がこのたびのコロナ禍で破産したと聞き、東京店、というか日本法人は大丈夫だとの報に安心はしたものの、潰れて欲しくないので、支援。というわけではないが、ブルックスのセーター。久しぶりにセーターを新調したのだ。

2020年12月6日日曜日

映画監督気分

前回書いたように、ヨーロッパ系の人はミニマリストを自称していてもソファやカウチは持っている。それらはミニマルな家の要素という考えだろう。日本のミニマリストたちはソファなど持っていないことが多い。


僕もどちらかというとソファはミニマルな要素だと考えていた節がある。


が、つらつらと思い返すに、ソファでは特にくつろいだという意識はないのだった。1人がけの肘掛け椅子(これすらも1人がけのソファと称する者はいるにしても)で充分。


今の家に越してきてから、以前の家に置いていた肘掛け椅子が少し大きく感じた(レイアウトの問題)。それで小さめの2人がけのソファにしてみたのだった。が、やはり今ひとつなのである。やっぱり2人がけがいいかもよとアドヴァイスをくれた人が隣に座りに来るわけでもなし、やはり肘掛け椅子がいいのだ。


が、かつてのそれはもう処分した後だった……


そこで、取りだしてきたのが、ディレクターズ・チェア。これが僕は案外好きだ。これまで臨時の椅子としてしか使わなかったこれを、改めてソファの代わりに置いてみた。



なかなかいいじゃないか。本当はサブの机はダイニング・テーブルにもなるものがいいとは思うのだが、この間取りではそう贅沢は言えない。

2020年12月1日火曜日

プチ・ミニマリスト

4月に引っ越しをするに際してYouTube でルームツアーのようなことをやっている人の動画をたくさん見たわけだが、そういう動画の中にはミニマリストを誇るものも少なからずあった。ミニマリスムとLOHAS≒無印系が隆盛のようである。


余談だが、日本語で発信しているミニマリストと英語やスペイン語などで発信してるミニマリストには決定的な違いがあるようだ。後者はそうはいってもほぼ必ずソファもしくはカウチを部屋に置いている。カウチを必要最小限と見るか否か。そこには大きな溝があるように思う。


さて、ともかく、そんなわけで思ったことは僕は本(やDVD、CD)はそれなりに持っている方ではあるが、その他の生活必需品についてはだいぶミニマリストなのだということ。ほぼ毎日料理をするのだが、炊飯器もないし、鍋などフライパンと雪平鍋代わりにも使える深いパンだけだ。あ、スキレットもあった。そうそう、土鍋も。人はこうして自らを発見するのだろう。

こんなのを使っていた。左手。メンズビオレの洗顔フォームは、泡になって出てきて、ひげそりにも使えるというもの。が、そろそろ中身を補充しなければという時期になってふと気づいた。石鹸も最近は泡のものにしているのだった。右のやつだ。ひょっとしてこれで事足りるのではなかろうか? 試しに使ってみたら、確かに、これで支障はなかった。ふむ。では注ぎ足すのはやめようではないか。こうしてまたひとつミニマリストになっていく。

そういえば、同じくメンズビオレのこんなやつも少し前に導入したのだった。シャンプーも洗顔も身体を洗うのもこれひとつで事足りるというやつ。ミニマリストだ。僕としては単に縮小経済を生きているだけなのだが。