2014年5月19日月曜日

今日も電話が鳴っている

月曜日には慶應義塾大学三田キャンパスで文学部の2年生を相手にスペイン語の購読の授業を持っている。ボラーニョの短編「通話」Llamadas telefónicas を読んでいる。3回くらいで読み終わって別の作家の別の作品に行こうというつもりではじめたのに、まだ終わっていない。やれやれ。

まあいい。ボラーニョの分身と見なされるBとXの悲しい恋の話なのだが、その電話での最後の会話のところを、今日、読んだのだった。別れてしばらくして電話したら、Xはやけに冷たい。対応もそっけない。電話を切ったあと、Bは「Xの番号をもう一度回す」(ダイヤルなのだ、ダイヤルがどういうことだかわかっているかい? 急いでかけると、もどかしいんだよ)、そのくせXが電話に出ると、黙り込むのだ、Bは。

もう一方の側では、Xの声が言う。もしもし、どなた? 沈黙。そして言う。もしもし、それから、黙り込む。時間――BとXを分け隔てる時間、Bがついぞ理解できないでいる時間――は電話線を伝い、圧縮され、伸びをし、その本性の一部を垣間見せる。Bは知らず知らずのうちに泣き出していた。彼は知っていたのだ。電話をしているのが自分だということをXが知っていることを。そして黙って電話を切る。(松本訳は手許にないので、拙訳)

さて、問題は「Xの声が言う。もしもし、どなた? 沈黙。そして言う。もしもし、それから、黙り込む」だ。これの原文はこうだ。 "la voz de X dice: bueno, quién es. Silencio. Luego dice: diga, y se calla". 

最初の「もしもし」は"bueno"だ。これ(ブエノと読む)は通常、「良い」という意味の形容詞だ。ところが、これはメキシコでは「もしもし」の意味で日常的にもっとも使われる表現だ。Xはスペイン人だ。たぶん、めったなことでは電話で "bueno"なんて言わない。ということは、Xは相手がメキシコ語法の染みついたスペイン語話者であることを想定して(あるいは期待して)電話を取ったのだ。

Bはボラーニョの分身だとされる。短編内ではBの素性は明かされないが、ボラーニョの分身であるなら、ボラーニョは15の年から数年間、最も多感な時期をメキシコで過ごしたのだから、電話で "Bueno"と言ってもおかしくないかもしれない。ぼくですら、いまだに、たまに"bueno"と言う。そっけない受け答えで電話を切ったけれども、XはBからかかってくることを期待して、受話器を外した。そして "Buneo"に反応しないので、しばしの沈黙の後、 "Diga"(おっしゃってください、だ。直訳すると)と言い直した。その言い直しを聞いてBはXが電話の向こうにいるのはBだと知っていると確信した。

切ないなあ。このやり取り、とても悲しい。「もしもし」をメキシコ語法とそうでないのと、訳し分ける日本語の訳語はないけれども(だから松本訳からもそのことはわからないけれども)、だから訳し分けられないことを非難する気はさらさらないが、でも、最初が "Bueno"たどわかってしまうと、本当に切ないやり取りだ。


こんなことを力説していたのでは、そりゃあ授業は前には進まない……

2014年5月18日日曜日

さあ、読んどくれ!

アレッホ・カルペンティエル『失われた足跡』牛島信明訳(岩波文庫、2014)

満を持して(?)岩波文庫で再刊だ。ぼくの運命を変えた1冊だ。ぼくは30年前にこの小説に出会い(翻訳出版はそれよりもう少し前。原書は1953年だから61年前)、これで学部の卒論を書いたのだ。

出会いから10年後、94年に集英社文庫として出されたときには、大学院生だったぼくはそこに「解説」を書いたのだった。(今回、それはなし)

が、そのことよりも重要なのは、集英社文庫に収めるに際して、訳者の牛島信明先生は少し訳に手を入れた、そのときの修正のひとつは、ぼくの卒論がもとになっているということだ。

とは言え、たいしたことではない。それは本質的な改訳ではない。主人公=語り手の愛人Moucheを、当初の訳では、スペイン語話者ならこう読むだろう、という勘にしたがって「ムーチェ」としていた。ぼくは卒論でこの人物がサルトルの戯曲『蠅』Les mouches から採ったのではないか、との推論を展開した。まあ、これをムーチェと読むかムーシュと読むかはどちらでもいいことだとは思うけれども、ともかく、94年、牛島先生は、あれ、ムーシュにしといたよ、君の説を受けて、とおっしゃったのだった。

ぼくが84年に初めて『失われた足跡』を読んだときには、サルトリアンであるなあ、という感想があったのだ。ふたりはほぼ同年で、同じころに死んでいる。でも、小説は、掛け値なしに、サルトルより面白い。


とぼくは思うのだ。

2014年5月6日火曜日

〆もウカマウ

ホルヘ・サンヒネス『ウカマウ』(ボリビア、1966)

ボリビア映画史上初の長編だとのこと。サンヒネスにとっても初の長編。ウカマウ集団は、この次の作品からそう名乗るはずだ。そんな区切りの作品が1962年の短編「革命」とともに今回、上映されている。

妻サビナを暴行され殺されたチチカカ湖内太陽の島に住む先住民アンドレスが、犯人のジャガイモ仲買人ロセンド・ラモスに復讐するという物語。

実にエイゼンシュテイン的(『戦艦ポチョムキン』的)なモンタージュの目立つ「革命」の四年後に撮られた『ウカマウ』は、明らかに新たな一歩であることがわかる、そんな造りだ。サビナの葬列の影絵のような構図や、ラモスの騾馬の背に揺られての旅の、まるで西部劇のような絵、全面に湖水を収め、その端を横切る船を描く描き方、最後の決闘の場面などが面白い。決闘のシーンはロングショットとクローズアップを取り混ぜて描くのだが、そのロングショットでの捉え方が実に遠い。近寄った時には、今度は編集のしかたが劇画じみていてはっとさせられる。たぶん、偽闘をカバーするために静止画を挿入しているのだと思う。

ところで、『地下の民』、「革命」、『ウカマウ』のいずれにも棺桶が出ていた。『地下の民』のセバスティアンはラ・パスで小さな棺桶を作っていたのだった。小さなやつだ。たぶん、子供用。「革命」にも小さな棺桶を作る人物が出ていた。サビナは、もちろん、棺桶に入れられ、葬られる。棺桶というものの意味を考えたくなるところ。


同じ要素と言えば、『地下の民』のセバスティアンの妻バシリアも『ウカマウ』のサビナも、髪を梳かすシーンをひとつの見せ場としていた。彼女たちの魅力を見せる場。髪を梳かす先住民女性の魅力と言えば、カルペンティエール『失われた足跡』のロサリオがそうする場面を目撃し、語り手の「私」が彼女は自然と一体化している、と価値づける場面があった。ある種のオリエンタリズムかもしれないけれども、髪を梳かす女のトピック、というのは存在するような気がする。

ウカマウ集団レトロスペクティヴ、まだまだやってます。

2014年5月5日月曜日

映画ばかり観ているぜ

イメージフォーラム・フェスティヴァルの一環としての上映を観てきた『ホセ・ルイス・ゲリンの手紙』。「ある朝の思い出」(2011)と「アナへの2通の手紙」(2010)の2本の短編だ。

自らの住むバルセローナの街区で、向かいの建物でヴァイオリンを弾いていたマヌエルが飛び降り自殺をしたらしい。そのことを周囲の住民たちにインタヴューして回った「ある朝の思い出」。それに映像の原点という質問に答える形で行ったインスレーションを、動画として作り直した「アナへの2通の手紙」。いずれも映画の成り立ち、フィクションとノンフィクションの差異について考えさせる短編映画であった。

終了後、ゲリン本人によるティーチインがあった。

チケットを買いにいった時に、目の前をゲリンが通ったので、思わず声をかけたのだった。「俺はあなたのファンなのだ。日本で最初くらいの。そして最大の……」と。ルクレシア・マルテルのときのように。


ミーハーなのだな、ある種の作家の前では。

2014年5月4日日曜日

演技とは儀式である。儀式とは演技である。


原題はThe Act of Killing。 "The" が抜けてるぞ、といいたいのではない。「殺しの儀式」とかそんな題にした方が良かったんじゃないの、と思いながら見たと言いたいのだ。が、このActは「儀式」だけでなく「演技」の意でもあるのだろうとハタと気づいた。多義的なのだ。

スハルト政権下のインドネシアで一般市民が大量に殺された。プレマンと呼ばれるパラミリタリーやパンチャシラ青年団という民兵組織が、共産主義者撲滅の名目で一般市民を次々と殺していった。当時のプレマン、とりわけアンワル・コンゴという人物に焦点を当て、彼とその仲間たちに殺戮の模様の再現フィルムを撮ってもらう。そのメイキングのような体裁を採ったのが、今回の映画。

もちろん、大量虐殺の事実はショッキングである(殺人の口実にされた「共産主義者」とは、「ユダヤ人」と同じくらい悲しい存在である)。殺人者が罰されず、罪の意識も抱かず、50年以上生きてきたこと、民兵たちには現政権の大臣や副大統領らも好意的であることなども、信じがたいことである。エンドロールに流れる数多くのスタッフの "Anonymous"(匿名)の文字は、問題の根深さと難しさを伝えるにあまりある。 義憤を感じ、暗い気持ちになるだろう。コンゴなどは自分たちの記憶を「未来に残すために」と言って、嬉々として再現フィルムに取り組むのだ。

けれども、そういった暗澹たる思いをもって見てみると(観客はたいてい、これくらいの予備知識を携えて見に来るものだ)、最初は意外にも思えるだろう。笑いからスタートする。だって、演技って、周囲から見れば笑えるものなんだから。コンゴと仲間のヘルマンが、一般の人に家を焼き払われる母親の役をやってくれないか、と頼み、少し演じて例をしめしてみせる。その時、周囲は笑うのだ。

演技の困ったところは、演者が真剣に演じれば、やがて周囲の笑いが拍手へと変わるということだ。請われて女と息子が必死に「助けて」と叫ぶ演技をすれば、「カット!」の声の後に周囲は拍手を浴びせる。演者は、いつまでも泣き止まない……これがこの映画の、ひいては演技による殺しの問題の最大のポイントだ。演技が昂じて周囲(観客)も巻き込めば、立派な儀式になる。それがActだ。

最初、何人もの虐殺の現場になったある建物の屋上にコンゴを連れて行き、どんな風に殺したのかを訊ね、語らせるシーンがある。コンゴは撲殺では血が大量に流れるからと、針金を使って殺すようになったのだと、じっさいにそのしかたを再現してみせる。その映像を家で観ているうちにコンゴは、衣裳がなっていなかった、などと言い始め、演技へのモティヴェーションを高めていく。映画館前でダフ屋のようなことをしていたこのプレマンは、最初から演技への志向性が強いと言えば言えるのかもしれないけれども、スーツを着て、ボルサリーノでこそないけれども帽子を被り、ロウマッチをすって煙草に火をつけたりした日には、いっぱしのスター気取りだ。

映画後半ではコンゴが悪夢に苛まれ、うなされるようになったことを告白する。そこから彼の変化を追っていく。悪夢の根源には首を切り落として殺したある男の目を閉じてやらなかったことへの悔悟があるらしい。眼を閉じることは死者を弔うための儀式だ。その儀式が正しく行われなかったから彼は悪夢を見るのだ。だからその現場へ戻って、その時の殺しを再現しようとする。演じようとする。儀式actの欠如を演技actで補うことによる弔いだ。その時、みずから首を切られる側の演技を引き受ける彼の体が、少しずつ反応していく。既に死者のはずなのに、嘔吐しそうになっている。


過去の大量虐殺を問うているのではない。そのことは別問題だ。それを生き直すことを試みている。そんな映画だ。ドキュメンタリーの形を取っているけれども、これはつまり、フィクションの根本問題を扱っている。

2014年5月3日土曜日

セバスティアン・マイスマン二度目の帰還

ぼくならこうタイトルをつけたいくらいである。

ホルヘ・サンヒネス『地下の民』(ボリビア、1989)

アイマラの先住民セバスティアン(レイナルド・ユフラ)がラ・パスを捨て、故郷の村クルカニに帰る話だ。これを被って死ぬまで踊るという死の舞踏のためのお面を担いでいるところから考えるに、どうも彼は死にに帰るらしい。途中、おりから起こったクーデタに対抗するために農民たちが張ったブロックに行く手を阻まれたり、軍から追われているらしい学生運動の闘士にポンチョを譲れと言われたりする。こうした細部のいちいちが、実はセバスティアンが死を覚悟するにいたる過去からのしっぺ返しのようなものだということが、徐々に明かされていく。

一旦は内務省に入り、軍事クーデタに荷担し、農民たちを弾圧する側にまわり、その後、帰郷して村長に選ばれ、そこで行ったことによって村を追い出され、……という過去を持つセバスティアンにとって、実はそれが二度目の、そして決定的な帰郷だった、という次第。

最後は、死と集団、ということについて何ごとか考えさせられる(今日は実は『アクト・オブ・キリング』とこれ、どちらにしようか迷ったのだよ)。死ぬまで踊り続ける舞踏の圧巻。


ぼくは学生時代、サークルの活動でいくつか映画上映会をやったりしていて、その一環としてウカマウの『第一の敵』だったか『ここから出ていけ』だったかを上映したように思っていた。いや、あるいは、それをどこかに観に行ったのかもしれない。そんなわけで、この『地下の民』も見た気になっていたのだが、どれだけ映画が進んでも記憶が蘇ってこない。つまり、やはり、これが初見だったのだ。「ボリビア・ウカマウ集団制作/ホルヘ・サンヒネス監督全作品レトロスペクティブ 革命の映画/映画の革命」今日から16日まで、新宿K'sシネマでやっています

2014年5月1日木曜日

歯痛と若さは似ている……?

このところ歯を痛めているのだ。辛い。歯が痛いと何もやる気がしなくなる。ただぼんやりと1日を過ごしたりする。

何をやる気力もなく1日をぼんやりと過ごす。まるでこれは若い頃のようだ。特に思うような仕事がなく、焦っているときには、反語的に、無気力に漫然と1日を過ごしたものだ。

歯を痛めると若い頃に戻った気になる。若い頃に戻った気になる映画が見たくなる。


ポスターには若い三人が顔つき合わせて寝そべっている姿。男二人に女一人。『突然炎のごとく』の最強パターンだ。しかもこの三人、皆「ル」から始まる。ルアラ(シモーネ・イリエスク)、ルイス(アカウア・ソル)、それにルカ(ペドロ・ジ・ピエトロ)。冒頭近く、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァがブラジルの経済成長を誇る演説をするTV映像が流れる。そんな好景気を時代背景にしながら、この3人は、いわば、ワーキング・プアなのだ。

ルアラは空港の目の前に住み、熱帯魚の店で働いている。パイロットらしい中年男性に言い寄られている。結婚詐欺か? ルアラの恋人ルイスは、薬局で働いては管理薬物を不法に売ったりしている。店長のニコラウ(トニコ・ペレイラ)もそれには嚙んでいるようなのだが、さらに彼の目を盗んで薬を横流しし、自分自身も使っている。ルカは自らも刺青を入れているが、タトゥー入れを商売にしている。もちろん、儲からず、同居する祖母の年金をくすねて過ごしている。こうした3人組の何も起こらないけどいろいろある日常を追った物語。

3人の見せ方がうまい。映画とは加藤幹郎風に言えば「鏡の迷宮」だが、クローゼットの姿見をうまく使って3人を見せたりしている。木の葉の保護色となったカメレオンよろしく、途中までそこにルアラがいることに気づかないシーンがあったりする。ラストで3人が何もすることがなく、ただ呆然と座る絵も、なんだかいい。降りしきる雨と元気な亀、のぞき見する祖母、そしてただ座っているだけの若い3人。


映画の中では始終電話が鳴っている。これだけ鳴り続け、これだけ通話が成り立たない電話も、珍しい。それもまた歯の痛みを助長するような細部……いや、若い連中の焦りをいや増す細部。