2023年1月25日水曜日

映像環境を変えてみた

2年ほど前からテレビをアンテナに繋ぐことはせず、DVDなどを見るときのモニター専用としてきた。小さめの22インチを机上に置いて必要なときだけ使っていたのだ。


が、最近では、机が狭くなるし、それも嫌だなと思うようになっていた。


そんな折、先日、ビックカメラをひやかしていたら、出会ってしまった。



Anker Nebula Capsule II ポータブルプロジェクターだ。


モニターではなく、プロジェクターをスクリーンに投影する形でもいいかも、と常々思ってはいたのだが、最近はさすがにネット接続が可能で、You TubeAmazon PrimeApple TVNHK+TVerといったソフトで映画やらTV番組やらをiPadで観ている身としては、プロジェクターが直接に繋いでくれるのならば、iPadと接続する必要もないので便利になったものである。HDMIでの接続も可能なのでDVDBDを投影することも、もちろん、できる。なんだ。これなら机の上もすっきりしていいじゃないか(というわりには上の写真での卓上はごちゃごちゃとしているが、それはまあ、色々とパックを開けたりして未整理の状態ということで……)。


ちなみに、これはシーロ・ゲーラ『彷徨える河』をDVDで鑑賞しているところ。



60cm×45cmのホワイトボードに投影してみた。僕にとっては充分な大きさだ。さすがにホワイトボードだとプロジェクターの光を反射してしまうので、この後、ここに白い紙を貼って反射を防いだ。これはNHK+の配信によるある番組での初場所回顧の一場面。


ところで、そんなわけで、僕はTVをアンテナに繋いでいないし、これでそもそもそTV受像機を処分することになると思うのだが、こんな立場の人間としてはNHKの受信料は割引になったりしないのだろうか? 


2023年1月22日日曜日

勇気でも聖戦でもなく……

テオドラ・アナ・ミハイ監督『母の聖戦』アルセリア・ラミーレス他、ベルギー、ルーマニア、メキシコ、2021


21年のカンヌで「ある視点」部門勇気賞を受賞した作品。そのニュースは覚えているのだが、La civil という原題が『母の聖戦』に変わっていては同一のものとはわからなかった。


夫と別居中のシエロ(ラミーレス)が、恋人とデートに行くと家を出た娘ラウラ(デッセ・アスピルクエカ)を誘拐され、身代金を払っても戻ってこないし、警察や軍は取り合ってくれないしで、自力で捜査するという物語。


独自捜査が誘拐犯に知られてしまい、脅迫目的で家が襲撃を受ける。それを機に軍が新任のラマルケ中尉(ホルヘ・A・ヒメネス)の指揮下、シエロと特殊な協力関係を結んで誘拐犯の捜査が始まる。つまり、軍人を味方につけてはいるものの、あくまでも対比的に彼女は民間人女性(la civil)なわけだ。


相手はナルコであり、身代金目的の誘拐もしている組織だが、警察のモルグでは追いつかない死体の置き場にされているために自身脅迫を受けている葬儀屋を手がかりに、思いがけない協力者を見つけたりしながら捜査が進む。捜査の過程で軍は犯罪グループの一味やその協力者に容赦なく暴力を振るう。民間人女性であるシエロもその国家の暴力装置とある種の関係を結ぶことになる。それはもはや聖戦を名乗るにふさわしい美しいものではないだろう。母の子を思う美しい気持ちの単なる正当化にならないところがいい。


砂埃、語られないせりふ、せりふ同様に何かを見せづらくする焦点外のもののボケさせかたなどが効果的。首を切られた死体が上記の葬儀場に運ばれたことを知って娘ではないかと確認におもむいたシエロが目をやるガイコツの整理番号に2666の数字が見られた。こんなところにボラーニョへの目くばせが! Resto(残り/遺品・遺体)の二重の意味による当局の事務仕事と被害者家族との対照的な感情の際立たせ方など細かいところで幾度か唸る。


ところで、監督も、それからパンフレットでの紹介文もラミーレスを『赤い薔薇ソースの伝説』以来注目されたとみなしているようだが、その前に出たカルロス・カレーラ『ベンハミンの妻』はやはりそれほど広くは知られていないということなのだろうか? 残念。


これ以前にも、年が明けてから何度か映画館に足を運んでいるのだが、ここで報告を怠っている。ナショナル・シアター・ライヴの『レオポルトシュタット』などもいろいろと考えさせられたのだが、それについはまたの機会に。



写真はイメージ。

2023年1月15日日曜日

暴君に抗って

冬のはじめに暴君・小池百合子がタートルネックで冬を乗り切れ、などと言っていた。電力不足に備えろということだ。


冗談じゃない。まったく、「欲しがりません勝つまでは」とでも言いたいのか。


困ったことがあった。ちょうど昨年末、だいぶ久しぶりにタートルネックのセーターを買ったところだった。



こんな写真を調子に乗ってInstagramにアップしたのだった。タートルネックにヘリンボーンのジャケット。最高の組み合わせだ。しかし、これを着ていたのでは、まるで暴君のいいなりになったみたいで悔しい。どうしてくれるのだ!



こうしてみた。違いがわかるだろうか? モックネックだ。タートルネックほど襟が高くない。折り返さなくていい。かつてタートルネック同様これも活躍していた。それを久しぶりに買ってみたのだ。


これにはもうひとつの目論見があった。今月末に何泊か旅行に出る。旅行では、特に秋・冬は着替えを最小限に済ませるためにクルーネックやVネックではないセーター(つまり、シャツが要らない)を着続けることが多い。タートルネックやモックネックが重宝する。今度行くところはそんなに寒くもないからタートルネックだと暑く感じるときもあるかと思い、もう少し涼しい感じのモックネックが欲しいと思っていたのだ。


この格好の上に裏地を着脱できるコートを着ていき、三重・四重の調節を可能にする。ひと晩だけシャツ(と、たぶん、場合によってはネクタイ)が必要だが、それ以外はこのセーター姿でいこうと思う。

2023年1月5日木曜日

斜に構える人生

今日から授業が始まってしまった。嘘だと言ってくれ。


授業の直前に届いた荷物が、これ。



書見台というか、作業台というか、傾斜台というか、読んだり書いたりするときに姿勢を保つために傾斜をつける台。誰かがこの種の台を置いて校正をしていて楽だったと書いていたので、僕も手に入れてみた次第。サンワダイレクトの傾斜角10度のやつ。



大きさはこんな感じ。A4の紙(学生の論文を読むときにメモを取ったりする)が縦に置ける。ノートも、通常のサイズの本も収まる感じだ。僕が買ったやつは上にペンケースもついている。僕はデスクとダイニング・テーブルを使って作業をするのだが、これをダイニング・テーブルに置いた図。


うむ。悪くない。本は肘掛け椅子に深く埋もれて読むことも多いのだが、メモを取るときには重宝しそうだ。


2023年1月3日火曜日

本棚の奴隷

昔から仕切りのない広い家……というか居住スペースが好きだ。


しかし、東京で、少なくとも僕程度の収入で借りたり買ったりできる住宅は、たいてい仕切りが多く、狭い空間に可能な限りの数の部屋を作るという思想の下に設計されているものばかりだ。


一方、僕ら(僕のような職業の者たち)は本棚をできるだけ多く置ける家(仕事場。仕事場が別個確保可能な場合はこの限りではない)に住む必要もある。そのためには壁が広い方がよく、つまり仕切りがたくさんある方がいい。


本当は仕切りのない広いスペースを本棚で仕切る、というのが理想ではある。模様替え(本棚の配置転換)によってレイアウトが変わる。いつまでも飽きない。


今住んでいる部屋は(公称)2LDK50平米ばかりの部屋で、(公称)LDK2つの部屋がドアで仕切られている。そのひとつを寝室に、もうひとつを書庫に使っているのだが(といっても、もちろん、寝室の壁も本棚で覆われているが)、これまでは仕切りのドアを開けっぱなしにして使っていた。こうすれば少しは広く見える。開放感が得られる。


それで、


こうだったものを、



こうしてみた。


つまり、ドアを外してみたのだ。粗大ゴミのカテゴリーに「戸板」というのがあったので、これが捨てられることがわかったので、いっそのこと外してみようと思ったのだ。死にスペースがなくなって、そこに新たに本棚を置くこともできる。たとえば、


こんな具合に(棚の上の写真パネルにかんしては、こちらを参照のこと。リンク)。この背の低い棚がもともとあった場所に新たに背の高い本棚を入れることもできるのだ。


こんなことを考えながら生きているのだから、本当に僕は本棚の奴隷なのだな。


2023年1月2日月曜日

花びらのおぞましさ

グアダルーペ・ネッテル『花びらとその他の不穏な物語』宇野和美訳、現代書館、2022



昨年、いや、もう一昨年、『赤い魚の夫婦』の翻訳が出たネッテルの第二弾が、同じ訳者、同じ版元で出た。


「眼瞼下垂」「ブラインド越しに」「盆栽」「桟橋の向こう側」「花びら」「ベゾアール石」の6作品からなる短篇集。タイトルにあるとおり「不穏な」incómoda 気持ちにさせる悪癖・奇癖を持った人々の話。


「眼瞼下垂」は成形手術のいわばbefore-after写真を撮る写真館の息子が、ある瞼に(その持ち主に?)惚れ込み、自ら写真を撮り、手術を思いとどまらせようとする話。


「ブラインド越しに」は向かいの建物のそれこそ「ブラインド越しに」男性が女性にじらされひとりで隠れて自慰行為に耽るさまを見る話。セックスをするのではなく、じらされた挙げ句、まだ女性がそこにいるのに独りで隠れてマスターベーションをするというところが、取り分けて変態で「不穏」だ。


「盆栽」はいつもいく植物園で園長に教えられ自分がサボテン的であるとの自覚を持ち、正反対の妻とうまく行かなくなる話。日本を舞台に、固有名や細部に村上春樹的な要素がちりばめられている。おそらく初出は Bogotá 39 (2007)(39歳以下の39人のラテンアメリカの作家を集めたライターズ・イン・レジデンス。およびその成果としての作品集。この試み世界の他の地域に広まり、ボゴタでもその後再び開かれた)のこの短篇についてはかつて久野量一が紹介していた(「メキシコ若手作家の戦略と村上春樹」柴田勝二、加藤雄二編『世界文学としての村上春樹』東京外国語大学出版会、2015236-40ページ)。いわく「春樹を擬態する戦略」であり「信仰告白」(239)だと。なるほど。そのとおりだろう。異論はない。が、一方で、この舞台となる植物園は、僕にはあくまでもパリの植物園、コルタサルの語り手=主人公がその中にある水族館でウーパールーパーを発見し、ウーパールーパーに変じてしまう(「山椒魚」)あの植物園のにおいがかすかにするようにも思うのだ。


「桟橋の向こう側」は〈ほんものの孤独〉を希求する少女が叔母夫婦の買ったリゾート地の別荘とも言えないあばら屋で過ごす日々を綴ったもの。女性版中二病? 末期の母を見取りにきた同年代のフランス人少女と意地の張り合いをし、仲良くなる。デビュー時のフランソワーズ・サガンをメキシコから裏返して見た感じ。たまらなく愛おしい。


「花びら」は女性トイレで痕跡やにおいを探し回る語り手兼主人公の「ぼく」が理想の痕跡にフロールという名をつけ、そのフロールとの邂逅を願って彷徨する話。変態版これもコルタサル? ついに出会ったフロール(花の意だ、もちろん)がついにおぞましい花びらになる瞬間を目撃し、しかしそれに対して冷淡であるところがいかにも無気味で、「不穏」を通り越す感情を抱かせる。


「ベゾアール石」は強迫神経症(というのかな?)から髪を抜くことがやめられない思春期の少女が、そのことを見抜いた、しかし同じくらい脅迫的に奇癖を繰り返す男と同棲し、薬物に溺れ、事件を起こし、入院して、治療のために手記に回想を書いているという体裁。自分が抜いたわけでもないのに髪が抜ける一方の僕にはあまりにも痛々しい話だ。

noteでも書いてみた

以下の文章をnoteにも投稿してみたのだ:


最近はみんながnoteで文章を展開するものだから、僕もやってみようかと思う。基本的に、Blogと重複することはあるかもしれないが、あるていどまとまったレヴューなどを。


ブログ上で既に途中報告をしていたのではあるが、今年度の授業で読んだ小説:


Mario Vargas Llosa, Tiempos recios, Alfaguara, 2019.



グワテマラへのCIAの軍事介入を扱った小説。 “Antes”(前)と “Después” (後)という名のプロローグとエピローグがつき、本文は32章。奇数章と偶数章で別々の物語が語られるというバルガス=リョサお得意の構成。


プロローグではユナイテッド・フルーツ社長サム・ゼムライと広報担当エドワード・L・バーネイズが手を組んだところから始まり、1954年、グワテマラでの10月革命と呼ばれる民主化運動によってユナイテッド・フルーツ社の利益が失われることを危惧した二人が、ゼムライの提言にしたがって革命を共産主義の驚異としてメディアを操作して喧伝することを決定したことが語られる。


本文では10月革命後、フワン・ホセ・アレバロの後継者として選挙で選出された大統領ハコボ・アルベンスの農業改革と、それを脅威に思ったユナイテッド・フルーツの工作による反共キャンペーン、それに便乗する形でこの政権を打倒しようとした国務大臣ジョン・フォスター・ダレスとCIA長官アレン・ダレスの暗躍、その意図を受けてあからさまにアルベンスに退陣を迫る在グワテマラ米大使のジョン・エミール・ピュリフォイ、クーデタ未遂でオンドゥーラス(ホンジュラス)に逃げ、CIAの助けを受けながらグワテマラ解放軍を指揮して政権転覆を目ざすカルロス・カスティーヨ=アルマスらの、いわばパワー・ゲームが語られる。一方でカスティーヨの愛人となるマルタ・ボレーロ(ミス・グワテマラ)の最初の結婚とそこからの逃亡、カスティーヨの愛人となったいきさつ、そしてカスティーヨ暗殺に加担した公安局長エンリケ・トリニダー=オリーバやジョニー・アッベス=ガルシーアの仕事とその後の人生(彼らも暗殺される)という、裏面史および後日譚も語られる。


カスティーヨ暗殺に加担したジョニー・アッベスはドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーヨの秘密警察SIMの長官であったことから、小説は、俄然『チボの狂宴』(2000/八重樫克彦、八重樫由貴子訳、2010ともテクスト上の関係を持つことになる。『チボ』では語られなかったトルヒーヨ暗殺後のアッベス=ガルシーアの人生らも語られているのだから。


エピローグではカスティーヨ暗殺後アッベスに連れられてドミニカ共和国に渡り、そこで反グワテマラ=反共キャンペーンのラジオ番組で人気を博し、さらにはトルヒーヨ暗殺後アメリカ合衆国に渡ったマルタ・ボレーロに、作家本人を思わせる「私」がインタヴューすることになる。そしてそのインタヴューを実現に協力してくれた作家仲間と会食し、一連の事件についての意見を交換する。こうした、いわばオートフィクション的でもあり、ジャーナリズム風でもあるところは、たとえば『マイタの物語』(1984/寺尾隆吉訳、水声社、2018/邦訳の著者名表記はバルガス・ジョサ)らとも共通するところと言えそうだ。


ユナイテッド・フルーツ(現・チキータ・ブランズ・インターナショナル)の中米カリブ海地域における存在感と、それを口実に行われた合衆国の政治介入の数々については語り尽くせないほどの問題がある。本作でも一度だけ名前の出てくるグワテマラの作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスにはこの問題を扱って「バナナ三部作」と呼ばれる作品群があるし、ガルシア=マルケス『百年の孤独』のバナナ農園労働者の虐殺のエピソードもアラカタカ近くに存在するユナイテッド・フルーツのプランテーションで起こった事件をモデルにしている。そうした事情は、僕も野崎歓・阿部公彦『新訂 世界文学への招待』(放送大学教育振興会、2022)第9章に書いた。バルガス=リョサが、その問題に切り込んだ作品だと言っていいだろう。合衆国の利害を体現しハコボ・アルベンスに退陣を迫るジョン・ピュリフォイの頑迷さは読んでいて苛立つばかりだ。そしてそれが決して他人事とは思えないから怖い。


グワテマラの国内問題としてみれば、カスティーヨ=アルマス暗殺以後、この国はさらに最悪の内戦状態へと突入していくし、小説内ではそのことも僅かに触れられているにはいる。その最悪の内戦の犠牲者として知られることになるのがリゴベルタ・メンチュウであり、内戦後を描いて興味深い小説がロドリゴ・レイ=ローサやオラシオ・カステヤーノス=モヤらによって書かれているわけだが、バルガス=リョサがあえてアルベンスの失脚とカスティーヨの暗殺を描くのは、彼の全仕事の中に位置づけると首肯できる話だ。


ところで、疑問点がひとつ。小説内でのグワテマラ人たちは二人称単数の代名詞にvosを使い、それに対応する動詞の活用はラプラタ風( “tenés” など)になっている。これは正しいのだろうか?


広大なスペイン語圏の少なからぬ地方では、二人称単数の親称と敬称ustedに替えて/加えてvosを使うところがある。これは1) tú の代わりか、2) túよりもさらに親しい相手に用いる第3の二人称である場合がある。さらに活用はa) tenés 式、b) vosotros と同じ tenéis など 3) tú と同じ tienes などという分類があるというのが、僕の理解するところである。グワテマラでの用法は詳しくは知らない。ネットでざっと検索した限りでは少なくとも2) ではあるようだ。が、果たして、活用はどうなのだろう? と思った次第。今度調べておこう。