2012年12月31日月曜日

お仕事の話


今日は学会誌が2冊も送られてきた。日本イスパニヤ学会のHISPÁNICAとLASA(Latin American Studies Association)のLARR(Latin American Research Review)だ。

ぼくらの仕事の第1段階は情報収集だ。だからこんなものが送られてきたときには、関連する論文などはその日のうちに読む。これをやっておかないと結局は最後まで読まない。忙しくて愚図なぼくなどは怠けてしまいがちだ。なので、なるべく怠けないように、ともかく、読む。

斜め読みでいいのだ。じっくり読む必要のある論文を探すためと、役に立つかもしれない情報(書誌情報など)を探すための作業なのだから。

読むべき論文がなかったとしても、たとえば、LARRの "Review Essays" などは実に重宝する。あるテーマや分野についての近年の著作を読み、紹介し、分析したようなエッセイだ。学術論文という体裁をとるにはいたっていないけれども、研究動向をまとめたものだから、実に助けになる。こうしたものを読んで流れをつかむのだ。そこで取り上げられた本が読みたいとなれば、それを買うのだ。今回はワシントン大学セント・ルイス校のイグナシオ・サンチェス=プラードという人が、ラテンアメリカにおける知識人の役割を巡って書かれた本を数冊紹介しているReview Essayがあり、それを楽しく読んだし、そこに紹介されてる本の何冊かは必要性を感じた。知らないものばかりだったので、さっそく、注文したのだった。

注文したのは英語の本ばかりで、Amazonで探したのだが、そのうち2冊はKindle版があった。ただし、そのうち1冊はペーパーバック版に比べて2倍ばかりの高価なものになっていた。

さ、今日は大晦日だというのに、今日もいつもと同じように1日が過ぎていく……

2012年12月29日土曜日

過去の自分に賛嘆 その2


ポール・ド・マン『読むことのアレゴリー:ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』土田知則訳、岩波書店、2012

今年2冊目のド・マンの翻訳だ。堂々たる主著。

このド・マンを中心とするいわゆるイェール学派の読みの実践について、土田は「訳者あとがき」(395-403)で実にうまく紹介している。

従来の文学研究は、テクストのうちに中心的なテーマを仮構し、それを統一的な意味や論理に収斂しようと努めてきた(批評界の主流は今でもそうした実践に与している)。脱構築批評は、こうした統一的・総体的な読み方に真っ向から異を唱える活動だったと言える。つまり、言語やテクストに内在する逸脱的な諸力――レトリック、アポリア、パラドックス、等々――を前景化することで、テクストを脱-中心的、脱-総体的なものとして分析・読解しようとしたのだ。『読むことのアレゴリー』は、まさにそうした諸力に対する鋭敏な意識に貫かれた論文集である。(397)

さすがは文学理論の泰斗、土田先生、まとめがうまい。なるほど、元来が脱-中心的なものである言語に沿って精読した結果生じるこうした脱-中心的、脱-総体的な読み方を、ド・マンらに教えられ、ぼくも実践してきた(つもり)のだった。

いや、実際、驚いたことに(?)、翻訳を手に取ってふと気にかかり、原書を引っ張り出してみれば、ちゃんと付箋が貼られているし、中には書き込みやらチェックやら下線やらが引いてあり、ページの端が折ってあったりもした。

つまり、ぼくはこの原書、Allegories of Reading をかつて、読んでいるのだ。なあんだ、俺、ちゃんと勉強しているんじゃないか。土田は名を挙げていないけれども〔多くの場合、挙げられないけれども〕、ド・マンにブルーム、ハートマン、ヒリス・ミラーだけがイェール学派なのでなく、たとえばロベルト・ゴンサレス=エチェバリーアというのもいて、彼のカルペンティエール論に導かれ、ぼくは勉強を始めたのだった。

さて、そのことは今はいい。ともかく、こうしたとき、つまり、既に原書を読んである翻訳書を買ったときの常として、原書に付箋のある部分は、翻訳にもまず貼ることにする。たとえば、以下の部分だ。

 したがって、読むことは、テクストのはじめから、脅迫/防御という劇的抗争の中での守勢的な動きとして演出される。内部の守護された場所(巣窟、小部屋、寝室、秣小屋)は、外部世界の侵入に対してみずからを防御しなければならないが、その外部世界からいくつかの属性を借りてこなければならない。(略)テクストは、内的な瞑想が遠ざけてしまったすべてのもの、その〔瞑想の〕充足に必要なすべての力=性質に反するもの、つまりは日射しのあたたかさ明るさ、安らかな不動性によって決定的に排除されてしまったと思われる活動性さえ、読むという行為によって回復できると主張する。〔79-80下線は原文の傍点〕

第1部第2章「読むこと〔プルースト〕」からの抜粋だ。『失われた時を求めて』が読むことを巡る小説であり、その中でマルセルが内/外、真/贋、脅迫/防御の二項対立を想起しながら、読書のための理想空間である小部屋を、ベッドの中を確保しようとしていることを指摘し、が、読むことはそんな二項対立の一方の極で理想どおりに得られる体験ではないことすらも書かれていると暴く一節。日陰の涼しい場所において安らぐマルセルはしかし、光によって読書し、夏の光と暑さを回復するのだと。

ド・マンは精読という概念を楯に彼の批評を展開するのだけど、精読しろというのは、ただ一字一句文字を丹念に追っていくことのみを意味するのではない。そもそもプルーストが読書についての話を展開していることに気づくこととセットになったときに初めて力を発揮するのだということがわかる一節。

2012年12月26日水曜日

25年前の自分に涙す


大学1年のころ読んでいた本の話など書いていただきたい、との依頼が来た。いいのかな? フーコーとか、サルトルとか、そんなの読んでいたけれども、そんな小難しいのを今どきの大学1年生に薦めていいのかな? などと思いながら昔のノートを見た。

高校時代の日記は、あまりにも直情的で恥ずかしく、あるとき、捨ててしまった。しばらく間が空き、大学2年の冬休みのころからのノートはすべて取ってある。この年、サルトル『奇妙な戦争』海老坂武訳(人文書院、1985)にほだされ、読書記録も日記も授業の記録も何もかも一緒くたにしたノートを作ることにした。それ以後のノートが手もとにあるということだ。正確には、それをPDFファイルにしてあるのだが。

読み返してみると、いろいろな発見がある。

1985年度、スペイン語学科(当時)の留年者は1、2年合わせて34人も出た!

この事実などは、留年のオブセッションに悩む現役の学生たちに伝えてあげたいな。がんばれ、悩んでいるのは君たちだけではない! ……あ、ぼくは別に、悩んでいたわけでなく、ただ、ある先生に教えていただいたと書いてあるだけなんだけど。そしてまた、君も危なかったと言われたと書いてあるのだが……

2つめの発見:ぼくは意外と真面目に授業のための本を読んでいる。授業のレポートを書くための、ということだが。行沢建三『国際経済学序説』、同『世界貿易論』とかカール・ポランニー『大転換』とか、フランク『世界資本主義とラテンアメリカ』とか……そんなのを読んで、引用して、コメントして、レポートに備えている(「早起きして図書館に出向き、『大転換』の続きを読む」なんて状況説明の一文なんかも)。そうしてできたレポートがどんなものだったかは、さっぱり覚えていないのだが。

読んだことも忘れているし、当然のことながら中身も覚えていない本もある。タデウシュ・コンヴィツキ『ポーランド・コンプレックス』とか。あるいはこんな記述もある:

グスターボ・アドルフォ・ベッケルの短編「宿屋『猫』」を読んで僕が想起したのはプーシキンの『スペードの女王』、トーマス・マンの『幸福』である。(1986年3月3日、月曜日)

うーむ。どれも想起しないな。ベッケルの短編もぜんぜん覚えていないな。

でもともかく、ぼくはいろいろな本を読み、精一杯背伸びしてコメントしているのだった。

けれども、そんな知的な生活よりも、やはり日記を読むのは辛い。誰と何があっただの、誰にどんな思いを抱いていただの、そんなことがまざまざと思い出されるのだ。

2012年12月17日月曜日

ドン・フアンたちを思う


エスプロンセーダ『サラマンカの学生 他六編』佐竹謙一訳(岩波文庫、2012)

エスプロンセーダが、それも岩波文庫で訳されるのは初か? このところ活躍目覚ましい佐竹さんのお仕事。ドン・フアンをモチーフにした物語詩(最終部は戯曲仕立て)だ。

ドン・フアンものを読み比べるといろいろなことが見えてくる。ティルソ『セビーリャの色事師と石の招客』とソリーリャ『ドン・フワン・テノーリオ』では、圧倒的にセリフの長さが違う。内面をセリフにして表出する、その量は後者が多い。死して後のドン・フワンの悔悟の念やドニャ・イネスの情愛というのが、こうして観客に迫ってくる。ソリーリャの生きた19世紀は、ティルソの時代より圧倒的に言葉の時代、言葉による内面の表出の時代だということがわかる。

ソリーリャとも違い、このエスプロンセーダのドン・フアンものは、主人公が地獄に落ちてからの場面が長い。圧巻だ。オルフェウスの冥府下降は腐った妻を見るためのものだが、ここではドン・フェリックスが腐敗したドニャ・エルビラをかき抱くのだ。

これを買った土曜日、15日、立教大学ラテンアメリカ研究所講演会「現代のラテンアメリカ」を聴きに行った。石橋純&Estudiantina Komabaの講演&コンサートだ。石橋純さんが東大教養学部で開いている「ラテンアメリカ音楽演奏入門」とかいう授業の受講者たちで作ったベネズエラ音楽のユニットだ。

そういえば石橋さんは、外語大での学生時代、スペイン語で『ドン・フワン・テノーリオ』主演を演じたのだった。

立教の講演会、もうひとりの演者は大石始さん「グローカル・ビーツ時代のラテンアメリカ音楽」。ヒップホップなどがコロンビアやチリ、アルゼンチンなどでどのように展開しているか、という話。

コロンビアは今、ヒップホップのもっともホットな地域なのだ。イギリスのミュージシャンなどもボゴタに住んで、プロデュースしたり自ら発信したりしているのだという。

さらにこの日の前々日は、コロンビアから久しぶりに出張で帰国した友人(この人もなかなかのドン・フアンぶりなのだが、それはまあいい)と会っていた。麻薬関係の犯罪とテロの印象がどうしても払拭できないコロンビアで彼は、防弾ガラスの車に運転手つきの生活をしているが、アメリカ人やイギリス人からは笑われるのだという。それだけ、テロの恐怖は今は昔の話だとのこと。

2012年12月9日日曜日

高校生の心境と知性を想像する


あるシンポジウムを聴きに行きたかったのだが、ぜんぜん仕事が終わらないので断念した日曜日。こんなのが届いた。

ペドロ・アルモドバル『私が、生きる肌』(スペイン、2011/松竹)

ぼくはブルーレイディスクプレーヤーなど持っていないのだ。けれども、何を考えたか、ブルーレイを買ってしまった。

それと気づかずに。

しかたない。プレーヤーを買うのか? こうやって需要はその気もないのに作られていくのか? 

仕事帰りに書店で買ってきたのは、背景にかすむ二冊の本。筑摩書房の「高校生のための」シリーズ。

岩間輝生、坂口浩一、佐藤和夫、関口隆一編『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選 改訂版』(2012)
紅野謙介、清水良典編『高校生のための近現代文学ベーシック ちくま小説入門』(2012)

前者は好評の既刊を改訂して取り上げる文章なども入れ替えたもの。後者はそのシリーズを小説でやってみた、という感じのもの。奥付が一部の終わりにあって、付録のように第二部「解答編」がついているという造りは同じ。『評論選』と違い『小説入門』には、まず最初に「小説への招待」というのがあり、そこで小説を読むための心構えのようなものが説かれている。いわく、小説は言葉からできている。小説には人物がある。その把握が必要だ。造型、心理、相互関係など……語り手がいる、文体がある、比喩が使われる、……等々。多角的に小説を読むしかたを説いている。

ふむ。問題は、こうしたことが果たして現実の高校での現代文の授業でどれだけ教えられ、実践されているかということだ。それをぼくは知らないのだが。

2012年12月4日火曜日

女性雑誌を読もう!


フリア・アルバレス『蝶たちの時代』青柳伸子訳、作品社、2012

電車の中だけでという条件で読んでいると、意外に時間がかかるものだ。

ドミニカ共和国のトルヒーリョ政権下、「蝶」のコードネームで反独裁者運動に身を捧げたミラバル姉妹を描いた小説。美人4姉妹のうち3人までが反体制運動にかかわって投獄、釈放後、事故を装って秘密警察に殺された。今では記念館となったそんな姉妹の家を切り盛りする、ひとり生き残った三女のデデに、合衆国から女性が取材にやって来る。そこからデデの回想が始まり、やがて4姉妹それぞれの語り・もしくは日記が加わって、反体制運動や獄中での暮らし、殺される直前の旅などが語られていく。

著者自身が「あとがき」で「わたしは実際の姉妹を知るはずもなく、充分な情報も得られず、彼女たちのことを適切に記録できる伝記作者の能力もなければ、その気持ちもなかった」(425)と述べてフィクションだと断っている。4姉妹の語りの体裁を取って架空の主観によって歴史を語り直そうとしているのだ。バルガス=リョサ『チボの狂宴』、ダンティカ『骨狩のとき』、ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』らの他のトルヒーリョもの(?)に比しての本作の特徴はそこにある。性のことなども隠さない筆致が、生身の人間の生を伝えている。

ぼくが興味を抱くのは、次のようなパッセージなのだ。

 そして夜になると、専用バルコニーに座り、ハイミートがデデに腕を回して耳元で約束を囁き、デデは星空を見上げた。この前読んだ『バニダデス』に、星の光が地球に届くのには長い年月がかかると書いてあった。今、彼女が目にしている星の光も、何年も前に発せられたはずだ。星など数えて、何の慰めになるの? 暗い天空で、きらきらした角の半分がなくなってしまっているかもしれない雄羊を追って、何の慰めに? 
 空頼みね、とデデは思った。夜なんて真っ暗になればいい! だが、そんな漆黒の闇の中でも、彼女は星の一つに願いをかけた。(251-252ページ)

カリブの女たちは雑誌を読むのだ。今、手もとにないので確認できないのだが、マリーズ・コンデもミシェリーヌ・デュセックも、ロサリオ・フェレも、登場人物たちが雑誌を読んでは隣国や合衆国に憧れを抱いたりしていたような印象がある。

雑誌を読む女たち。女性雑誌を読む女たち。それに比して、男たちは雑誌を読んでいないように思うのだが……

今度、ちゃんと確認してみよう。人は小説の中で雑誌を読んでいるか? 

写真右は次に電車で読む予定の Juan Villoro, Arrecife, Barcelona, Anagrama, 2012

2012年12月3日月曜日

映画をハシゴする日曜日


映画の日の翌日、映画をハシゴした。

まず、ウディ・アレン『恋のロンドン狂想曲』アメリカ、スペイン、2010

熟年離婚の夫婦(アンソニー・ホプキンス/ジェマ・ジョーンズ)とその中年娘夫婦(ジョシュ・ブローリン/ナオミ・ワッツ)、2組のカップルのW不倫(?)のゴタゴタをアントニオ・バンデーラスやフリーダ・ピントも交えて描いたロンドンもの第4作。W不倫ものでは結局はどのカップルも元の鞘に収まりました、というのもあるが(『夫たち妻たち』だっけ?)、今回はそうはいかないところがミソ。

パンフレットで南波克行がとても貴重な指摘をしている。饒舌なアレン映画の登場人物たちは、しかし、心が動いて恋に傾く瞬間、沈黙するのだと。

人の感情がぐらりと揺れ、心に火がつくこうした瞬間を目に見せる演出術は屈指のものだ。なぜならその場面だけは、会話の多いアレン作品において、決してセリフの入らぬ沈黙の場面となるからだ。こうした場面で、対象を粘り強く凝視する手腕が、映画の格を高めている。

南波は『ギター弾きの恋』を例に挙げているが、『マンハッタン』でダイアン・キートンとウディ・アレンが黙ってブルックリン橋を眺めるシーンなどもこの分析に値するだろうか。

ともかく、そんな印象的な沈黙のシーンは、今回は、グレッグ(バンデーラス)とサリー(ワッツ)のオペラ鑑賞(ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』だ。『ボヴァリー夫人』で主人公が観に行く名高いシーンのあのオペラ)後の、車の中でのやりとり。ナオミ・ワッツ、さすがの演技力だ。

ホプキンスやブローリンがカメラをじっと正面から見すえる瞬間、これもアレン映画の大きな特徴だ。

続いてマノエル・デ・オリヴェイラほか『ギマランイス歴史地区』ポルトガル、2012

オリヴェイラのほか、アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセの計4人によるオムニバス。ヨーロッパ文化首都ギマランイスの文化事業の一環らしい。トーキョー・フィルメックスでの上映で、今日はペドロ・コスタのアフタートークつき。

他店との関係から突然、店のメニューを気にしてしまうバーテンダーの1日を撮ったカウリスマキ、ヴェントゥーラという人物がエレヴェータの中で出会う鉛の兵隊と会話し、頭の中にいくつもの声が渦巻くコスタ作品、廃墟になった工場で、映画を作るために昔の工員たちの思い出話をカメラテストがてら聞くというエリセ作品、観光客ガイドにこの土地の歴史を語らせ、最後に冗談を言わせて肩をすくませるオリヴェイラ。4人ともに個性の出た短編ばかりであった。

A Sense of Home Filmsの「アナ、3分」も意外にストレートにメッセージを伝え、かつひとりの人間がメッセージを伝えるだけでも、作り方によっては映画になり得るのだということを示したエリセが、今回は国民経済とグローバル化によるその危機とを驚くほど包み隠さずに工場従業員たちに語らせ、それでもアコーディオンのメロディーをBGMに、往時の写真をクロースアップと編集とで見せれば映画になるのだということを示している。