エレーナ・ポニヤトウスカがティナ・モドッティやレオノーラ・キャリントンを小説の題材にしたように、この人はドイツの女性たちにこだわるんだろうな(なんたって『ローザ・ルクセンブルク』の人だから)、という程度の漠然とした意識しか持っていなかったのだが、ともかく、岩波ホールでの上映期間を過ぎて諦めていたところへ、シネマ・カリテでやっているというので、観てきたのだった。
マルガレーテ・フォン・トロッタ監督『ハンナ・アーレント』(ドイツ、ルクセンブルク、フランス、2012)
もちろん、思想家の思考の過程を映画にすることはできない。そうなると、安易なやり方で行けば、彼/彼女の人生を扱った映画を作りがちになる。「暗い時代を生き」、戦争を逃れたハンナ・アーレントについてなら、その手もあっただろう。さらにはこのユダヤ人思想家が、後にナチに荷担したことで問題視される恩師(ハイデガーのことだが)と親密な関係を持った人物となれば、そこに焦点を当ててもいいかもしれない。
が、そんなことはせず、フォン・トロッタが焦点を当てたのは、アイヒマン裁判についてのルポルタージュとそれが巻き起こしたスキャンダルだった。もちろん、アーレントのバックグラウンドだとかハイデガーとの恋だとかへの言及もある。が、それらすべてはアイヒマン論争での人間関係に投影される形で最少限示唆されるのみだ。ベンヤミンとの関係とか、パリ時代の活動、そして夫ハインリヒ・ブリュッヒャーとの出会いなどにはほとんど触れられない。
『イェルサレムのアイヒマン』をめぐっては、激しい論争もあり、そのために書かれた文章も本1冊分あるのだが、それらをドラマ仕立てにして、最後はニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(NSSR:一時期、レヴィ=ストロースらも身を寄せた機関だ)と思われる場所の大教室での演説に仕上げている。
ぼくはこうした大学などの大教室のシーンというのはわりと好き。だからまあ気に入ることはできた。
『イェルサレムのアイヒマン』の提起した問題はいくつかあろうが、イェルサレムではなく、国際裁判で裁かれるべきだった、などといった項目は示唆される程度で、ともかく、「悪の陳腐さ・凡庸さ」Banality of the Evil というテーゼを前面に押し出してわかりやすく仕上げた。凡庸な者、陳腐な者が思考を停止するとき、最大の悪が発揮されるという主張だ。モラルの崩壊を招くからだ。
このシンプルなメッセージのアクチュアルさに、背筋が寒くなった。合衆国の警告を無視して、靖国参拝などして見切られた凡庸で思考停止した総理大臣と、その総理を恐れてか、自らの思考に反して付和雷同している党員たちのいる国でこそ、今、観られるべき映画だ。