たとえば、ギジェルモ・マルティネス『オックスフォード連続殺人』和泉圭亮訳(扶桑社ミステリー、2006)なんてのを読むと、オックスフォード大学に留学したアルゼンチン人数学生の主人公=語り手に対し、指導教授のエミリー・ブロンソン教授というのが、えらく懇切丁寧だという感慨を抱く。空港に迎えに行けないことを詫び、そこから大学までの道のりを細かく教えたりする。最初の出会いの時にはこんな感じだ。
一見とり澄ましてどこか内気そうに見えるが、時々鋭く辛らつなユーモアを言い放つ。表現は控えめではあったが、「ブロンソンの空間」と題した私の学士研究論文を気に入ってくれたようすだった。最初に会ったとき、ブロンソン教授は私がすぐに研究を始められるようにと彼女の最新の論文二本の抜き刷りをくれた。また、新学期が始まると自由な時間が少なくなってしまうだろうと言って、オックスフォードの観光案内パンフレットと地図もくれた。「ブエノスアイレスの生活と比べて特に何か不自由なことがあるかしら」と聞かれたので、「またテニスがしたい」とほのめかしてみると、もっととっぴな頼みごとにも驚かないわとでも言いたげな微笑を浮かべて、「そんなことなら簡単にアレンジできるわよ」と確約してくれた。(20ページ)
いくら大学院生だからといって、指導教授が趣味のテニスのアレンジメントまでしてくれるものだろうか? 「学士研究論文」と書いてあるのは、普通に考えれば学部の卒業論文のことだが、指導教授がそれを丹念に読み、その方向に沿った論文を学期前に渡す、なんてどういうコミュニケーションの取り方なのだろう? イギリスの大学のあり方がどうにもよくわからない。
あるいは同じ小説のもっと先、伝説の数学者アーサー・セルダムと「私」が推理を闘わせるシーン。
マートン・カレッジのフェロー用のハイテーブルに残っていたのは教授と私だけだった。正面の壁にはカレッジ出身の偉人たちの肖像画が一列に掛かっている。肖像画の下に付いているブロンズのプレートにシルされた名前のうち、私が知っていたのはT・S・エリオットだけだった。(75ページ)
フェロー? うーん……よくわからないのだよな。カレッジ(コリッジと書きたい、むしろ)の制度のことが、ぼくは本当によくわかっていないのだよ。
だから、読んでみた。
苅谷剛彦『グローバル化時代の大学論② イギリスの大学・ニッポンの大学:カレッジ、チュートリアル、エリート教育』(中公新書ラクレ、2012)
「②」というのは、「①」として『アメリカの大学・ニッポンの大学』が既にあるからだ。TA制度を中心に彼我の差を論じたこちらの方は、まあいい。アメリカ合衆国の大学については既に多くが書かれてきたし、特に疑問もないので、とりあえず、この「②」を。
で、まあイギリスの大学、特にオックスブリッジがユニヴァーシティとカレッジの二重構造でできていること、講義は補助として行われ、出席されるもので、教育の中心ではないこと、チューターによる個別指導を基にして、最終的に試験に合格すれば卒業できること、などが説明されているこの書を読んで、少しはイギリスの大学のしくみはわかった。うらやましいシステムだと思う。
うらやましいシステムだと思う。つまり、少数派のためのエリート教育なのだ。もちろん、格差社会と意欲格差の関係をえぐり出して鋭い教育社会学者・苅谷剛彦はそのことを自覚している。大衆化とグローバリゼーション(の基本にある市場至上主義)への対応や反発を描写しながらまとめている。
(……)一方で授業料の値上げにより大学教育の機会が狭められることを憂い、他方で、能力主義を称揚し、さらには、教養主義的・人文主義的な教育の維持を謳うことができる。こうした主張を支えているのは、選ばれた者たちに特権的な教育を与えることを、ためらうことも恥じらうこともなく、堂々と肯定できる歴史の重みである。(133ページ)
こうした「歴史の重み」もなく、大陸ヨーロッパの大学をモデルとした一方的な講義形式を基調としつつ、「グローバル化」への対応をと焦る日本の大学の問題点を、最後に挙げるとなると、こちらとしては眉に唾してかかりたくなるのだが、指摘する問題点がシンプルなので、ほっとする。「大学教育が実質3年間になっているのに、人文社会系では、他の国々で生じているような大学院教育へのシフトが起きていない」(150ページ)
だから、東大が秋入学だなどというのなら、1年半または2年半の修士課程の充実を図って対処すればいいのだと。
うーん。シンプルな提案だ。理念としては賛成できる。うーん。