2022年6月28日火曜日

本当に面白かった


吉田拓郎『ah-面白かった』(AVEX


既にどこかには書いたことだが、僕が生まれてはじめて自分の金で買ったレコードは吉田拓郎(当時はよしだたくろう)『元気です』(CBSソニー、1972だ。僕は決して吉田拓郎のファンらしいファンではなかったけれども、それでも最初に自腹を切って聴く気になったミュージシャンであり、ある一時期の僕を規定した人物のひとりには違いない。その彼が人生最後のアルバムと称して出すものを買わないでいられるわけはない。


タイトル曲が最後にあり、しかもそれはこのフレーズ「あー、面白かった」で終わるのだが、曲内で何度目かになる「あー」のこの最後の叫びが、実によくて涙なしには聴けない。そんなアルバムが、今日、届いた。


何よりも嬉しいのは「雪よさよなら」。これはごく初期の、最初の個人アルバム『青春の唄』に収め、その後、猫というユニットに提供した「雪」という曲に原曲に存在しなかった3コーラスめを加え、小田和正に編曲とコーラス、そしてヴォーカルを頼んだ作。ライナーノーツで言うには、拓郎自身が当時のアレンジを気に入らず、その後歌っていなかったこの曲を小田に頼んで蘇らせたのだとのこと。今回のものは気に入っているらしい。小田とのコラボレーションという意味でも。


実は僕はこの曲がかなり好きで、しかも拓郎自身が気に入らなかったという『青春の唄』のヴァージョンが好きで、折に触れて思い出し、ギターをつま弾いては口ずさんだりする曲のひとつなのだった。ライナーノーツの内容とほぼ同様のことをどこかでしゃべった記録を、実は昨日YouTubeに薦められて聴いて知り、ひょっとしたら拓郎自身と僕の決定的な趣味の違いを露呈する結果になっているのだろうかと、危惧しつつ、待ちきれず聴いたら、まったくの喜憂で、これもまた素晴らしい仕上がりであった。


付属していたメイキング映像のDVDによればヴォーカルのレコーディングを終えて花束ももらった後になって、23、シャウトを入れた方がいいと思いついて新たにそれを録音したらしい。こうした態度がファンには嬉しい。シャウトは彼の持ち味のひとつなのだから。

2022年6月22日水曜日

馬車道の次の駅の読み方を知っているか? 

また更新を怠ってしまった。


その間に見た映画、演劇など。


ヴェルナー・ヘルツォーク『歩いて見た世界――ブルース・チャトウィンの足跡』(英国、2019


7月で閉館する岩波ホールが最後に選んだ上映作品。


もちろん、『コブラ・ヴェルデ』の原作者と映画化作品監督であることは知ってはいたけれども、ヘルツォークとチャトウィンがそれ以上に親密な間柄であったことを知らず、そんな僕にはいろいろと発見も多かったのだ。『ウォダベ』の女性たちのカットを見せられ、少し元気になったチャトウィンは、しかし、その直後に最後の昏睡状態に陥ったとか、彼からの形見としてもらった革のリュックサックのおかげで、『彼方へ』の過酷な山岳ロケでヘルツォークは命拾いしたのだというエピソードなど。


オスカル・カタコラ『アンデス、ふたりぼっち』(ペルー、2017。これは試写会で。公開は730日。


全篇アイマラ語による、アンデスの標高5,000メートルほどの場所にふたりきりで暮らす老夫婦の話。息子が帰ってくることを夢見ながら彼はいっこうに帰る気配はなく、マッチが切れたといっては遠くにある村まで買いに行かなければならないのだが、それもできず、飼っていた羊は何者かに食い荒らされ……といった厳しい生活を描いたもの。救いはない。ないからこそ見入ってしまう。cine regional などと呼ばれる部類の映画のメルクマールとなった作品。すごい。


そして今日、横浜で観てきたのが:


セルヒオ・ブランコ作、大澤遊演出『テーバスランド』KAAT 神奈川芸術劇場。甲本雅裕と浜中文一による2人劇。


父親殺しで服役中のマルティン(浜中)を実際に起用して彼の物語を劇化するつもりのS(甲本)は、しかし、内務省の許可を得ることができず、仕方なしに俳優のフェデリコ(浜中の二役)を起用して劇を作ることにする。マルティンと面会を重ね、それを基にフェデリコと話し合いとリハーサルを重ねる。劇は父親殺しの話なので、オイディプスの劇や『カラマーゾフの兄弟』などが想起され、……という、いわばメタフィクショナルな劇制作の物語。オートフィクションでもある。こういうものの好きな僕にとっては嬉しい作品。浜中文一が虐待され(たことが徐々に明らかになる)学歴も浅い繊細な殺人犯と俳優のふたつの役を演じ分けて印象的。


セルヒオ・ブランコはパリ在住のウルグワイ人劇作家・演出家。『テーバスランド』原作と『ナルキッソスの怒り』(いずれも仮屋浩子訳、北隆館、20192022)も買って帰ったのだった。



UT Café Bertholet rouge でのランチ。これは昨日のこと。

2022年6月5日日曜日

日本のホテルは狭いのだ

土日は京都に行っていた。日本ラテンアメリカ学会第43回大会に出席のため。


前夜から乗り込んでいたのだが、急な仕事のため初日午前中の発表は聞けずじまい。ま、No asshole priciple というやつだとの説もある。


午後からの分科会1「ラテンアメリカをめぐる国際政治」での中沢知史さんの発表「ウルグアイにおけるファシズムの台頭とラテンアメリカ主義思想形成――戦時期南米南部における政治外交史の一側面」のディスカッサントに指名されたのでコメントしてきた。


最近の学会の傾向として、発表者は事前にペーパーを提出、一発表に対しひとりディスカッサントを立て、討論の切り口にする、ということをやる。僕はその討論者。


1930年代にウルグアイにファシズムが勃興したことに関する話だったので、その時期、アルゼンチンとブラジルで大使として過ごしたアルフォンソ・レイェスがラテンアメリカ全般の和平のための工作をしていたことを、21世紀に入ってから公刊された彼の外交官としての仕事に基づいて紹介し、かつ369月にブエノスアイレスで開催された二つの会議のこと(ペンクラブの国際大会と国際連盟知的協力機関の会議)も話した。


夜はここ



その名も “Órale” で若き友人たちと食事、その後、古くからの友人に合流し馬刺しなども食べた。


二日目も盛りだくさんの内容だったが、文学の分科会に参加。南映子さんのクリスティーナ・ペリ=ロッシのセルバンテス賞受賞スピーチの分析の話など。



昼にはこんなカップでコーヒーなどを飲んだのであった。



ちなみに、ホテルは狭いので、こんな最小設備で臨んだ。正解であった。

2022年6月1日水曜日

isshoni (Study with me blog?)

もう何度も書いているけれども、一冊のノートにすべてを集約させるべく、それを常に持ち歩いている。Moleskineのサイズ(A5変形、というのに近い。A5判よりも横幅が少し狭い。四六判の本くらいのサイズ)がなんといっても好きで、それと渡邉製本Book Note(リンク)を交互に使っていた。後者はオンラインで買うとカスタムカットしてくれるのだ。

 

ところが、困ったことが起こった。ちょっと前から

 


こんな使い方をしているのだ。左側に余白を作ってそこにキーワードや本体内の文章へのコメント、あるいは修正案、小説のストーリーをメモするときにはページ数などを記している(写真はそういう例)。いつだったか、映画を観に行ったときに、左側にキーワードだけをメモして帰りの電車でそれを見返していたら、その言葉に関連するシーンが思い出されて、すらすらと内容を再現できた。

 

いわゆるコーネル大学方式のように、下段にまとめの文章を書く必要はない。

 


こんな風に引用とコメントを本文として書くことも多いので、欄外はあくまでも簡単なメモ(これは柳宗悦『琉球の富』日本民藝館監修〔ちくま学芸文庫、2022の読書メモ)。欄外はまるで本のマルジナリアだ。「(笑)」を意味する「w」まで書いてある。しかも赤で! そして自分のコメントには誤字もある。恥ずかしい。

 

こんな風に使ってみると、幅は狭いより広い方がいいという観測結果に辿り着いた。当然のことながら。A5変形よりはA5の方がいい。

 


そんなわけで、ちょっと前にLOFTで見つけて買ったノートを卸してみる。Daigo Corp の isshoni. ノートブック ナンバー(リンク) というやつだ。この写真ではわかりづらいかもしれないが、方眼の左から6マス目くらいの仕切り線が太くなっている。自分で線を引かずとも、これで欄外が確保される(本当はもう少し欄外が広い方がいいのかもしれない。アガンベンのノートは無地で線も引いていないけど、左側を広く確保していた。ジョルジョ・アガンベン『書斎の自画像』岡田温訳〔月曜社、2019〕100ページ)。

 


しかもこのノートにはノンブルが打ってあり、巻頭には目次のページがある。なんだか少しシステマティックになった感じ。本当はMoleskineももう一冊新しいのが控えているのだが、これが調子がよければBook NoteもカスタムカットなしでA5のものをそのまま買うようにしよう。ロゴも新しくなってかわいいぞ。