2013年12月26日木曜日

暗い時代の人間の条件

エレーナ・ポニヤトウスカがティナ・モドッティやレオノーラ・キャリントンを小説の題材にしたように、この人はドイツの女性たちにこだわるんだろうな(なんたって『ローザ・ルクセンブルク』の人だから)、という程度の漠然とした意識しか持っていなかったのだが、ともかく、岩波ホールでの上映期間を過ぎて諦めていたところへ、シネマ・カリテでやっているというので、観てきたのだった。

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督『ハンナ・アーレント』(ドイツ、ルクセンブルク、フランス、2012)

もちろん、思想家の思考の過程を映画にすることはできない。そうなると、安易なやり方で行けば、彼/彼女の人生を扱った映画を作りがちになる。「暗い時代を生き」、戦争を逃れたハンナ・アーレントについてなら、その手もあっただろう。さらにはこのユダヤ人思想家が、後にナチに荷担したことで問題視される恩師(ハイデガーのことだが)と親密な関係を持った人物となれば、そこに焦点を当ててもいいかもしれない。

が、そんなことはせず、フォン・トロッタが焦点を当てたのは、アイヒマン裁判についてのルポルタージュとそれが巻き起こしたスキャンダルだった。もちろん、アーレントのバックグラウンドだとかハイデガーとの恋だとかへの言及もある。が、それらすべてはアイヒマン論争での人間関係に投影される形で最少限示唆されるのみだ。ベンヤミンとの関係とか、パリ時代の活動、そして夫ハインリヒ・ブリュッヒャーとの出会いなどにはほとんど触れられない。

『イェルサレムのアイヒマン』をめぐっては、激しい論争もあり、そのために書かれた文章も本1冊分あるのだが、それらをドラマ仕立てにして、最後はニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(NSSR:一時期、レヴィ=ストロースらも身を寄せた機関だ)と思われる場所の大教室での演説に仕上げている。

ぼくはこうした大学などの大教室のシーンというのはわりと好き。だからまあ気に入ることはできた。

『イェルサレムのアイヒマン』の提起した問題はいくつかあろうが、イェルサレムではなく、国際裁判で裁かれるべきだった、などといった項目は示唆される程度で、ともかく、「悪の陳腐さ・凡庸さ」Banality of the Evil というテーゼを前面に押し出してわかりやすく仕上げた。凡庸な者、陳腐な者が思考を停止するとき、最大の悪が発揮されるという主張だ。モラルの崩壊を招くからだ。


このシンプルなメッセージのアクチュアルさに、背筋が寒くなった。合衆国の警告を無視して、靖国参拝などして見切られた凡庸で思考停止した総理大臣と、その総理を恐れてか、自らの思考に反して付和雷同している党員たちのいる国でこそ、今、観られるべき映画だ。

2013年12月25日水曜日

12月25日を祝う

友人のFBへの書き込みで今日が12月25日であることを思いだした。12月25日は奄美群島本土復帰の日だ。1953年12月25日づけで、日本本土に復帰したのだ。サンフランシスコ講和条約の発効から1年半ほど遅れていたけれども、それ以前、46年2月2日のいわゆる「2・2宣言」で日本本土から切り離すとされて南西諸島軍政府(後に民政、そして琉球政府)の配下に置かれているから、日本に戻るのは約8年ぶりという認識。

ぼくが生まれたのはその約10年後。つまりぼくらが15歳のときには、「復帰25周年」が祝われた。ぼくはそのとき、それを祝うあるイベントに引き出された。

ぼくの記憶では復帰の日の翌26日が日曜日で、その日曜日にイベントはあったはずだった。でも今調べてみたら、実は25日は月曜日だったらしい。ということは、そのイベントは24日にあったのだろうか? それとももう冬休みに入っていて平日だけどその日が祝われたのだろうか?

そのイベントの日は、つまり78年の12月のその日曜日、か25日は、祖母の死んだ日でもある。イベントの終わるころ、祖母の死を知らされた。

今日、名瀬の小学校では復帰60年が祝われ、元ちとせらのステージがイベントに花を添えたそうだ。

そのことに何の異論もない。ただ、復帰運動を展開した人々には優れた知性がいたのだということを、ぼくとしては、あくまでも指摘しておきたいな。名瀬市長として復帰運動を牽引したのは詩人・泉芳朗だった。彼は復帰の翌年に病死するのだが、追悼のための出されたアンソロジーは今年、復刊された。泉芳朗の一世代上のロシア文学者・昇曙夢(彼の『大奄美史』は、奇しくも、昭和24年ーー1949年ーー12月25日発行だ)の著作集は昨年、復刻された。文(かざり)英吉らの著作も、近年、復刻されている。キリスト教思想家・吉満義彦の著作は、80年代の全集以後、出回ってはいないが、それでも全集があるのだ。

別に奄美関係や復帰運動にかかわる著作に特化する必要はない。上に挙げた者たちも必ずしも運動にかかわったわけではない。彼らがそれぞれのフィールドで(西田哲学と対峙した牧野周吉なんてのもいる)展開した知的な活動が、読まれることを望むということだ。

近ごろ話題の徳田虎雄は泉芳朗と吉満義彦を輩出した徳之島の出身だが、1938年生まれ(つまり、戦後第一世代)の彼は徳之島にいては医学部に入れないと言い、高校から大阪に出て、1日16時間勉強の義務を自らに課して阪大医学部に入った。少なくとも本人はそのように自己宣伝していた。


普通に知性を輩出していた地のはずなのに、徳之島でいたのでは医学部に入れない、と戦後世代の徳田虎雄は思った。そういう環境にいた。そのことが、実は、本土から切り離された8年間の顕在化しきれない傷跡なのじゃないかと、ぼくは時々思う。

2013年12月21日土曜日

吸血鬼たちは時間を乗り越え、熱帯を征服できるか? 


なんだこのタイトルは? と思うが、考えてみたら、ジャームッシュの映画はすべて、こうしたカタカナ表記のものばかりなのだった。ひょっとしたら、ジャームッシュこそ(というか、彼を最初に見出したフランス映画社だろうけど)が日本における英語カタカナ語読みタイトルの元祖なのかもしれない。

まあいい。ジャームッシュが紡ぐ吸血鬼物語だ。そりゃあ、関節外しの名人、ジャームッシュのこと、ハリウッドの吸血鬼ものに見られるホモセクシュアルな欲望(と竹村和子が分析していた)など端から笑い飛ばすような設定だ。

今やゴーストタウンと化したデトロイト郊外で暮らすアダム(トム・ヒドルストン)とタンジール在住のイヴ(ティルダ・スウィントン)の吸血鬼夫婦が、妹エヴァ(ミア・ワシコウスカ)の夢に導かれてデトロイトで再会、そこにそのおてんばエヴァが現れ、生活をずたずたするものだから、2人はタンジールに逃げ……というストーリー。

『デッドマン』でウィリアム・ブレイクを19世紀に蘇らせたジャームッシュが、今度はクリストファー・マーロウを21世紀に蘇らせ(イヴの吸血鬼仲間だ。ジョン・ハートが演じる)、マーク・トウェインやシェークスピアすらも実はマーロウだったのか? と思わせるような絢爛なリファレンスで笑わせる(いや、ぼくもわからないものが多かったのだけど……)。かつてシューマンに楽曲を提供したこともある音楽家アダムは今ではアンダーグラウンドのミュージシャンなのだが、自宅に揃える名楽器の数々(ギブソンLG-2の1905年製とか)の蘊蓄に唸る(いや、全部実在のものかどうかは知らないけどさ……)。

前半の見せ場の一つは、アダム、イヴ、マーロウら、吸血鬼が血を飲んだ直後の恍惚の表情。性的恍惚ではない。薬物のもたらすような恍惚だ。なんだか面白い。あるいは飛行機内で近くの客が出血したのを見て欲望を抑えるのに必死なスウィントンの表情も素晴らしい。つまりは演技も見ものだ。

跳ねっ返りの妹、熱帯で見出す新たな感覚、といったトピックに乗るように見せながら、微妙にそこから外れている。そもそも、吸血鬼ものをホモセクシュアルものにせずに、タイムスリップ物語にした、というのがこの映画の大枠のストーリーなのだから。


ところで、あのデトロイト郊外のゴーストタウン化はどれだけ現実に対応しているのだろうか? 相当ひどいとは聞くけれども……


それから、言語面についても一言。吸血鬼たちはイギリス経由の生き物だから(だから、ロンドン経由の飛行機はいやだ、と言ったりするわけだが)、悪態をつくのにbloodyという形容詞をよく使うわけだ。あ、ヒドルストンもスウィントンもイギリス人だし。彼らが、つまり吸血鬼が "This is the bloody 21st century" なんて言う、それだけで笑いたくなるのだが、LA在住というエヴァが会話に加わってくると、例の fuckin'" なんて語が出てくるからもっとおかしくなるのだ。 "What fuckin' are you doing?" などと言い出す。笑っちゃうなあ。アメリカ合衆国の映画が fuckin' だらけなことに逆に気づくことになるのだよ。

2013年12月20日金曜日

そういう中において言葉がないがしろにされる

怒濤の忘年会シーズンの幕開けナイトの昨夜は、教授会の懇親会に出た。思ったより酔って帰った。もう寝ようと思ったのだが、その前に、とTVのニュースを見た。〈報道ステーション〉だ。10時台だったので。安倍晋三が猪瀬直樹の辞任についてコメントしていた。ぼそぼそと不明瞭な言葉で、まず「政治家には説明責任がある」と言った。このシンプルな命題すら言いよどみながらだったのだが、それでもどうにかそう言った。次がいけない。「そういう中において決断されたのだろう」と。

なんだ「そういう中において」とは? 「そういう中で」ですら曖昧な表現なのに、トートロジックに「において」まで。いったいこの語法は何だ? 腹が立ったので、酔いにまかせてツイッターにそう書いてしまった。恥ずかしながら、TVに連動してのツイートなどということをやってしまったのだ、ついにぼくは。決してやるまいと思っていた愚行を犯してしまったのだ。そんな愚行に訴えてでも腹立ちを表現したかった。それほど腹が立ったのだ。

政治家には説明責任があると言ったのなら、なぜ「その責任を果たせないと判断したから辞任したのだろう」と言えないのだ? そうすれば、つまり、この猪瀬某が辞任によって責任逃れをしようとしているとの意見が明瞭になるのだ。

(猪瀬直樹の前任者は、明瞭すぎるあまり言い回しを考えず、問題を起こしたのだった、などと考えていたら、今度はそのTV画面に前任者が出てきた。石原慎太郎のことだが、表情と身のこなしがあまりにも老けていたので、そのこともツイートしちまったぜ)

この人はことごとく言語運用能力の低い人物なのだ、と思ったら、思いだしたことがあった。先週末の話題はASEANの晩餐会でAKB48やEXILEが歌ったり踊ったりした、ということだった。さすがに各所で非難轟々だった。それを思いだしたのだ。

こうしたポップグループにはさして興味もないので、まあよしとしよう。同じくさして興味も抱いていないはずの外交官たちが、固定のテーブルに座らされ(つまり、立食パーティーでもないのに、ということ)、不幸にもステージの間近の席に当たった人は、騒音とステージから立ち昇るホコリとに悩まされたことだろう、との同情の念を感じるのみだ。

問題は、外交官たちの晩餐会は立派な仕事だというシンプルな事実が忘れられているということだ。余興を楽しむリラックスの場ではないのだ。そして外交官たちの仕事とは、言葉でもって交渉するということ。つまりは会話するということだ。その会話を、これらの音楽は封じるものなのだ。

大使館やら外務省やらに領収書の要らない特別の予算が組み込まれているのは、こうした食事やらパーティーやらのリクリエーションに見える場が、実は丁々発止たる外交の場であるからにほかならない。ここで居合わせたメンバーとの会話を巧みに導く者が外交の手綱を握ることになるのだ。晩餐会の会話がすべてを決するとまではいかないが、少なくともこうした場所で存在感を発揮できない者は外交官や政治家としては失格なのだ。技量に欠けるのだ。

それなのに、そんな外交力発揮の場で外交力の要たる言葉を封じるような余興を提供するのは、つまり、言論の封殺以外の何ものでもない。首脳たちはディナーショウに来たのではないのだ。


言葉をまともに操れない首相が主導すると、こうした体のいい言論封殺が発動する。ここのところの特定秘密保護法をめぐる騒動と、AKB48の場違いなステージは連動している。

2013年12月19日木曜日

感想文および箇条書き禁止条令?

ともかく、昨日は昼、古巣の外語大に行ってきたわけだ。久しぶりの100人近い人数相手の授業だった。

リレー講義と称するこうした授業では毎回、学生たちに何かを書かせてそれを集めて、出席もしくは参加点として集計する。たいていは授業の感想など書かせる人が多いようなのだが、ぼくは予定調和を嫌い、授業内で何らかの課題を出して、それについて文章を書いてもらうことの方が多い。

くれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、そこで参加した学生たちを批判・非難したいのではなく、そうしたおりに常々観察される傾向などを、……

たとえば昨日は、ある映画の冒頭の10分ばかりを見せて、そのスクリーンに何を見たか書け、という課題を出した。が、そんな場合、まず、圧倒的多数が感想や印象を書かないではいられないようなのだ。見たことを見たままに書くというのがとても難しいことであるらしい。観察の困難。

そして、見せられたものに対しての印象を学生たちが書くとき、やはりかなり多数の者たちが、自分の理解や趣味の範囲を超えるものに対しては、「古い」というレッテルを貼りたがるようだ。古ければどうだというのだ。歴史意識の問題。

そして、やはり少なからざる数の学生が、箇条書きで書いてくる。これもひとつの徴候。

箇条書きって何だ? 

ぼくは思うに、学習の現場での提出書類に箇条書きが許されるどころか、促進すらされるのって、とても異常なことではあるまいか? 異常、というのは、言語活動を教育、開発する場で、そのせっかくの言語運用の訓練の機会にとって矛盾する命令なのではないだろうか、ということだ、箇条書きというのは。

箇条書きって、本当に何なんだ? 


と思ったら、実は1603-04刊行の日葡辞典にも出ているのだそうだ。うーむ。恐ろしい。

ちなみに、タイトルにある「条令」は「箇条書きにされた命令」だそうだ。うーむ。恐ろしい。

2013年12月18日水曜日

朗々たる声の響き

J.M.G.ル・クレジオ講演会「文学創造における記憶と想像力」@東大本郷キャンパス文学部1番大教室に行ってきた。

タイトルは「記憶と想像力」だが、ぼくにとって気になったのは「書き換えと生き直し」とでも理解したい話だった。おばさんのノート、祖父を想像する父のノートらの書き換えとして、そして祖父の生き直しとしての『黄金探索者』、『隔離の島』の創作。

それら2作品から3箇所ほどル・クレジオが朗読し、両作品の翻訳者・中地義和さんが日本語訳を朗読した。ル・クレジオは朗々たる声で読みあげ、聴衆を唸らせた。


今日は3限、前任校でのリレー講義に行ってきたのだが、本郷に戻る途中、お茶の水の丸善でやっと『隔離の島』(中地義和訳、筑摩書房)を手に入れた。

2013年12月14日土曜日

本を読もうよ

なんでも、昨日、また文科省が馬鹿な発言をしたとのニュースが流れたようだ。中学の英語の授業を英語で行う、だと。

やれやれ。こんな馬鹿な話題にはぼくはかかわり合いになりたくはないのだが、一言だけ。

日本人の英語力とやら(そもそもそれは何だ?)を向上させたければやるべきことはまったく逆なのだ。英語以外のすぺての授業を、英語で書かれた教科書を使い、そこでの作業言語を英語と規定してしまえばいいのだ。とてもシンプルなことなのだ(英語は日本語で教えたっていいじゃない? むしろその方が。ただし、このことはまた別の議論だろうけど)。

実際、明治の初期、近代的な教育を整えていく段階で、大学などでもほとんどの教科が英語で教えられ、そのためにむしろ英語で著作をする方が楽に感じていた世代というのがあった。内村鑑三とか新渡戸稲造などだ。彼らが英語で本を書いたことは、何も英雄的なことではなく、むしろ自然なことだったのだ。だって英語でしか知的なことを言えなかったから。

学問が国語化するにつれて、日本人は英語がしゃべれなくなった、教育を受けた日本人は英語がしゃべれなくなった。それだけのことだ。そして日本語でも知的な議論ができるようになった。ただそれだけのことなのだ。

そんなことは太田雄三『英語と日本人』(講談社学術文庫、1995/親本は1981)に明かなんだけどな。だからこの太田の分析の逆を行けば、教育を受けた日本人の英語力を向上させるには何をどうすればいいかなど、明かだと思うんだけどな。


きっとこんな決定を下した連中や、その過程で議論に参加した連中は、太田の本など読んではいないんだろうな。なにしろ日本語で書かれているからな。やれやれ。知性がないがしろにされているんだな。本くらい読めよ、と言いたいな。

2013年12月9日月曜日

行きつ戻りつ思案橋

ミシェル・ウエルベック『地図と領土』野崎歓訳(筑摩書房、2013)

には、こんな一節がある。カフェと有名作家の関係について書いた箇所でのこと。

(同様に、有名なフィリップ・ソレルスは生前、クロズリ・デ・リラに指定席をもっていて、彼がそこに昼食を取りにやってくるかどうかにかかわらず、他のだれにも座ることはできなかったという)(112ページ。( )も本文中のもの。太字は柳原)

最後に割り注が入っている。「ソレルスはフランスの作家、現実には健在」。

『地図と領土』はウエルベックの他の多くの小説がそうであるように、現在のフランス社会を克明に描きながらも、実は視点は未来にある、という小説だ。ジェド・マルタンというアーティストの生涯を、21世紀のグローバル化された社会と、それに呑み込まれたフランス社会を辛辣に批判しながら描いているのだが、ときおり、後世の批評家の言辞を紹介して、これが当のジェドすらもがその生涯を終えた時代からの語りであることを示している。

だから、この「生前」のソレルスの話というのも、つまり、彼も死んだ後の世界からの回顧であろうことはわかる。

が、ウエルベックに慣れていない人や、まだこの時点で小出しにされているだけのそうした視座に気づかない人もいるであろう。生きているのに「生前」とは何ごとだ、と怒り出すソレルスのファンもいるかもしれない。注釈者でもある翻訳者としては悩めるところだ。


野崎さんはひょっとしたら、この文章を前に数時間、腕組みして唸ったのかもしれない。あるいは編集者と議論を重ねたのかもしれない……そんなことが気になっちゃうんだよな。

2013年12月7日土曜日

どれだけ待ち望んでいたんだ?

公開初日、第1回に行ってきた。

パブロ・ベルヘル『ブランカニエベス』(スペイン/フランス、2011)

物語は花形闘牛士の父アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)の血を受け継いだカルメン(ソフィア・オリア、後にマカレナ・ガルシア)が闘牛士になる、というもの。それというのも継母エンカルナ(マリベル・ベルドゥ)の指図で殺されかけ、小人たちに助けてもらったから。つまり、ここで白雪姫のお馴染みのストーリーが下敷きとして使われているのだ。

白黒でサイレント映画の形式を取った作品だが、BGMがストーリー内部の効果音、および劇内での音楽とも連動している。ところで、こういうのを何と言うのだろう? 物語の外部と内部を音楽が行き来しているのだ。

蓮實重彦は映画は本質的にサイレント映画だと言ったのだが、改めて2011年のサイレント映画を観てみると、こちらの方がトーキーよりもある意味で雄弁であることがわかる。たとえば冒頭の闘牛シーン。闘牛場へ向かう群衆をロングショットで撮った一コマだけで、映画とはこの群衆の動員においてその本領を発揮した表現手段なのだということを思い出す。そしてこうした群衆シーンにおいて、白黒無音の映像の方がはるかに効率がいい。この時点でこの映画は勝利を収めたようなものだ。勝利を収めるtriunfarとはすなわち、観客の心をつかむということ。カルメンが後にこの同じ闘牛場に帰ってきたことを告げる新聞に書いてあった単語だ。triunfar

場面転換に瞳の映像を効果的に使っているので、登場する人物たちは皆、目が大きい。絵に描いたような敵役継母を演じるベルドゥもオリアとガルシアのふたりのカルメンも、彼女の祖母アンヘラ・モリーナも、皆、大きく目を見開いている。

時代設定は1920年代後半。女性の闘牛士というのは、正式にはたぶん、存在しなかった時代だろうが、それを可能にするのが、小人の闘牛士という見世物。小人プロレスみたいなものだろう。この存在が物語の決着のつけかたに上手い具合に作用しているのだが、それはともかく、別の視点から見れば、女性の社会進出の拡大も社会背景にしているのだろう。女たちが髪を短く切ったのがこの時代。ベルドゥは自身、短髪の看護士。幼女カルメンの髪を切るのは、いじめにも思えるのだが、このソファア・オリアというのが、髪を短く切ってから断然輝きを放ち出す。成長した後のカルメンを演じるガルシアも、短髪ならではの役どころだ。


大きな目と短い髪。それが『ブランカニエベス』の輝き。

2013年12月4日水曜日

母の記憶を語り継ぐ

与えられたガイドブックとラジオ受信機を持って東京芸術劇場地下、2つの小劇場前にあるホワイエに降りて行く。フェスティバル・トーキョーの演目? のひとつ「東京ヘテロトピア」へは、そのように参加するのだ。ガイドブックとラジオを受け取り、指定された場所に行き、指定された周波数に合わせてラジオを聴く。僕が最初に行ったのは、受付からすぐにエスカレーターに乗るだけで行けるその場所。東京芸術劇場のホワイエ。

ガイドブックの図ではそこが築地小劇場の客席に見立てられている。FMラジオの発信装置の図の位置は、奇遇にも僕が好んで座りそうな席だ。ラジオを指定の周波数に合わせてイヤフォンをセットすると、小野正嗣の書いた文章の朗読が聞こえる。築地小劇場にかかわった人々と知り合いであったという「私の母」の記憶を語り継ぐ文章だ。もちろん、その「私」が小野さん本人であるはずはない。年齢が合わない。フィクションなのだ。母の記憶を語り継ぐその語りと、劇場のホワイエであるはずのその場所を客席と見なすという見立てに導かれて、想像力は過去へと飛躍する。

築地小劇場の舞台に立った者もいる。名瀬は今、文芸ルネサンス、文化ルネサンスを迎えているんだ。劇団もあれば、ボーイズみたいな演芸グループも屋仁川界隈を流して廻っている。そう言われたから、内地に……ヤマトに……東京に行ってまた演劇に邁進したいとの思いを断ち切り、伊集田實は名瀬にやって来たのだ。2・2宣言によって北緯30度以南、奄美群島は沖縄ともども日本ではないとされ、南西諸島北部軍政府治下にあり、現実には上京が難しかったという事情もあろうが、ともかく、名瀬でも一旗揚げられるのではないか、と考えたのだ。

伊集田自身は築地小劇場とは関係ない。むしろ前進座で修行を積んだ身だった。が、築地小劇場といえば、小山内薫が発足した日本の新劇の出発点だ。そこの舞台に出た者なら相当の役者に違いない。行って拝顔の栄に浴し、ともに素晴らしい劇を作ろうではないか。名瀬に文化ルネサンスの旋風が吹き荒れているというのなら、流れに棹さすのもいいかもしれない。

実際に行ってみると、築地小劇場上がりとは名ばかり、幼稚園のお遊戯会に毛が生えた程度の劇しかやっていない、というのが伊集田の印象だ。これは一杯食わされたと、その情報をもたらした者を恨みもした。が、そこは絶大な信頼を寄せる郷里・徳之島は伊仙町の先輩。なに、君自身がルネサンスを起こせばいいのだと豪放磊落に笑われ、それもそうだと思い直し、劇団〈熱風座〉を旗揚げして、名瀬の演劇活動の中心人物となっていくのだった。

伊集田實にこのように「一杯食わ」せたのが泉芳朗。当時は大島支庁の視学を務めていた。後に野に下って雑誌『自由』を主宰、論陣を張った。さらには名瀬市長にもなって奄美群島本土復帰運動の中心人物となる詩人だ。彼こそが戦後名瀬の、奄美の文芸ルネサンスそのものだった、そういう人だ。

泉芳朗は一時期東京にいて、高村光太郎らとも交わり、詩人として活動していた。こんな詩も詠んでいる。

朝のぷらっとふおむは/人間の波打際だ
中仙道へ向かって突っ走る此の電車は
大てい貧乏な人々を満載してゐる
ごむ職人 火薬工 道路工夫 水夫——
禁煙も何もかも人の世の掟ぼろ靴で蹴飛ばし
車内は感情の裸だけだ

「中仙道へと向かって突っ走る」のはどの電車だろうか? 板橋に住んでいたというから、あるいはこれは池袋を出発する電車だったかもしれない。この場所は「人間の波打ち際」から少し沖に出た場所なのかもしれない。


僕の母は泉芳朗の名をよくつぶやいていた。彼の復帰を求めてのハンスト、人々は断食祈願と呼んだそのハンストに同調したのだとかしないのだとか、社会党入党は苦肉の決断だ、とか……子供の僕はよくわからないままに彼女の話に出てくる泉芳朗というその名だけを憶えていたのだ。

同じく母がよく語っていたのが、唄者・南政五郎のことだ。いつだったか名瀬まで政五郎の唄を聴きに行ったのだと……

南政五郎は伊集田實の『犬田布騒動記』初演のとき、幕間に出てきて「俊良主節(しゅんじょうしゅぶし)」などを歌っている。母が政五郎の唄を聴いたというのは、このときだろうか? つまり母は幕末、徳之島の犬田布で起きた砂糖一揆についてのこの劇を観たのだろうか? 名瀬文化劇場の片隅で?

伊集田實がその代表作を発表した名瀬文化劇場と、中学生の僕が初めて映画を観に行った映画館・名瀬文化劇場が同じものなのかどうかはわからない。隣に主にポルノ専門の小さな名瀬ロマン劇場を併設した名瀬文化劇場。『ジョーイ』、『スター・ウォーズ』、『マッド・マックス』、……あと、何を観たのだったか? 今はもうパチンコ屋か何かに変わってしまった名瀬文化劇場は、あの名瀬文化劇場なのだろうか? 

小野正嗣のテクストは佐野碩の話へと移っていく。そこでは触れられていないけれども、佐野碩は亡命先のロシアからメキシコへと渡り、コロンビアに行き……

僕はUNAM(メキシコ国立自治大学)の劇場へと移動する……

……という体験だ。「東京ヘテロトピア」とは。

ちなみに会場のひとつは本郷郵便局のすぐ裏で、つまりは仕事先からすぐの場所なので、昨日の空き時間に行ってきた。テクストは温又柔。それがまたいろいろと思わせる場所とテクストで……


12月8日までやっている。いつでも参加できる。

2013年12月2日月曜日

見つけたいものは見つからない

見つけたいものは見つからない。思いもよらぬものばかりが見つかる。今日、明日の授業のためにといろいろと探し回っていたら、肝心のものは見つからなかったけれども、見つかったのは、これだ。

『エビータ』スペイン語版レコード歌詞カードのコピー。

ぼくの出た東京外国語大学では毎年、学園祭の時期に学生たちが自分たちの学ぶ言語で劇をやる。通称、語劇と呼ぶ。ぼくたちにとってはスペイン語劇。主に2年生が中心になるのだが、別に決まりがあるわけではないので、何年生が参加してもいい。

ぼくは学生時代、1年のときに舞台監督として、2年生では演出として、3年生では照明係として、それぞれ参加した。4年のときにも、なんとなくその辺にいた。

さて、1年時、ぼくらはアンドリュー・ロイド・ウェバーの『エビータ』スペイン語版をやった。ぼくは舞台監督だった。その名は思い出したくない演出の先輩が、前年、南米を旅行中に、このスペイン語版翻訳者と知り合い、許可を得てきて、ぜひやりたい、と言ってやったのだ。ぼくはその演出の先輩の下で、舞台監督を務めた次第。

で、時間が限られているので、オリジナルから何カ所かカットしたりしたし、全編楽曲からできている文字どおりのミュージカルのこの作品の一部を、セリフに変えたりして時間短縮して上演してきたのだが、今回出てきたのは、その上演用の台本になる前の、オリジナルの全曲のスペイン語歌詞カードだ。


自分自身が演出した(ガルシア=ロルカの『血の婚礼』)ときの記録や資料などはもうぜんぜん残っていないのに、まさかこれが出てくるなんて! 驚き、かつ、かなりの部分を覚えていたので、朝から歌って『エビータ』独演会などを開いてしまった。もちろん、観客はゼロ。