2021年3月27日土曜日

届いたものたち2 もしくは驚くべき言語学者たち

こんなのを買ってみた。


こんな風になる。布団乾燥機だ。

僕の代わりに布団に入ってもらう。しゃくだから枕は取り払ってやった。そして20分でぽかぽか。服の乾燥などにも使えそうなので、前から欲しかったのだ。


そして、去年、コロナ禍で急遽公演取りやめになったある劇のチケットを発券してもらってきた。五列目のいいところが当たっていた。


黒田龍之助『物語を忘れた外国語』(新潮文庫)の文庫化されるにあたってつけ加えられたテクスト(「あとがき」のうしろにある!)「長い長い外国語の話」(192-215ページ)には、黒田が学生にあだ名をつけることが書いてあった。文学作品からとったものなのだそうだ。それで『赤と黒』からジュリアンとあだ名をつけた学生の話を書いているのだ。「解説」の林巧によれば黒田は「学生が大好き」(223)だそうで、林はそこから例のジュリアン君に話を繋げていた。


僕がならった言語学者にも学生にあだ名をつける人がいた。もう亡くなった原誠先生だ。学生たちの噂によれば、ある一定の数のあだ名があらかじめあり、毎年、それに新入生を当てはめていくのだという。授業中に隣の学生としゃべる女子学生がいれば、その彼女は「しゃべ子」だ。1982年入学の「しゃべ子」がいて、83年入学の「しゃべ子」がいる。85年入学の「しゃべ子」はわざわざ後ろを振り返ってしゃべっていたので、「振り向きしゃべ子」。という具合だ。亡くなった後の偲ぶ会に参加して知ったことだが、彼は妻や娘にもあだ名をつけていたのだそうだ。


一方で、黒田さんは「講義室最前列でまっすぐ前を向く真面目な「風の又三郎」、スペイン語の成績に悩む「ハムレット」と、彼と仲良しの「オフィーリア」。中には「幸福の王子」もいて、これなんかそのまんま」(200)だという。


こうした記憶法はマテオ・リッチの記憶の部屋を思わせて、理に適っているんだろうなと思う。原誠も黒田龍之助も。が、僕は僕で子供のころから悪意あるあだ名をつけられたりして、あだ名というものにはいい思いを抱いていない。時にはあだ名などつける者に対して殺意すら感じることがある。『坊ちゃん』の赴任初日の例もあり、初対面のものに(公然とであれ隠れてであれ)あだ名をつけるのは対人関係の第一歩だろうとは思うのだが、ともかく、いやなのだ。


僕のように嫌がる学生がいるだろうから、僕は学生には確実に名前で呼びかけるようにしている。苗字で。もしくはフルネームで。第三者と話すときはこの限りでない。つまり、その学生の友人たちと彼/彼女の話をしているときに友人たちが彼/彼女にあだ名で言及しているときに、僕も使ったりはする。が、面と向かって話しかけるときには決して、死んでも、あだ名でなど呼ばない。

だいたいは印象に残ったエピソード、最初のコンタクトの印象などとともに名前は覚える。少し記憶力が衰えたと感じてからは、たまにノートの似顔絵などを描いて覚えるようにしている。

こんな感じだ。これは学生ではないけど。


そんなわけで、学生にあだ名をつけるという黒田龍之助には少しがっかり。彼の教え子でなくてよかった。


でもまあ、それはともかく、彼が書き手としてうまいなと思うのは、次のような一節だ。


 自分が生まれる以前の事柄について知識があるのは教養だと思う。わたしと同世代がいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を覚えていたところで「懐メロ」にすぎないが、今の大学生が知っていたらちょっとしたものだ。同じ流行歌でも明治・大正期に活躍した添田啞蟬坊【ルビ:そえだあぜんぼう】の「まっくろけ節」となれば、完全に歴史の教養である。(30-1)


添田啞蟬坊って! 「まっくろけ節」って!! こんな例の出し方が上手いのだ。僕はこういうことが下手だ。


そういえば、こうした例の引き出し方の巧みさは前述の原誠の教え子のあるスペイン語音声学者を思い出させる(名前は木村琢也という)。うーむ、言語学者たちって!……

2021年3月25日木曜日

届いたものたち

右の吸い取り紙が残り一枚になったので、左のものを買った。これは同じ会社なのだが、色とデザインが異なる。会社名の書体も異なるし(Jも消えているが)、depuis 1670 の表示がなくなっている。もちろん、こうした変化は吸い取り紙としての機能には影響してこないのだろうけれども。先日、赤ペンを万年筆でという発想を得たばかりなので、思い立ち、アマゾンにあるかなと思って検索したらこれがあったので、買ってみた次第。


クラリッセ・リスペクトル『星の時』福嶋伸洋訳(河出書房新社、2021) ご恵贈いただいた。リスペクトルはオンビキつきの「リスペクトール」の名で『家族の絆/G・Hの受難』が高橋郁夫訳で集英社の〈ラテンアメリカの文学〉に収められていたが、単行本としてはそれ以来か? 


上の『星の時』の写真の端に映り込んでるのが、これ。泉芳朗『お天道様は逃げてゆく』(黎明社、1934)。〈日本の古本屋〉を通じて手に入れたのだが、「500部限定版」の表記の後に手書きで番号がふってある。これは396番。

2021年3月23日火曜日

校正熱に取り憑かれる

ふだん万年筆を愛用している。キャップを開けたままにしておくとインクが乾いて困るので、そんなときにはローラーやボールペンを使うし、本への書き込みなどは鉛筆(シャープペンシル)だが、ノートに書くときには万年筆が多い。


万年筆はモンブランのマイスターシュテュック146(プラチナ)と149(ゴールド)、それにペリカンのスーベレーンM800 を順番に使うことがほとんどだった。もちろん、モンブランとペリカンでは書き味が違う。モンブランが好きだと思えるときもあれば、ペリカンが優勢を占めることもある。最近はほとんどモンブランを使っていた。146と149を交互に。


が、やはり、時にはペリカンも捨てがたいと思うのだ。うーむ……


! 


ペリカンに赤インクを入れてみようかと思いついた。赤ペンだ。採点したり校正したりするのに赤インクは必要だ。最近は短い校正ならばPDFで送られてきたゲラをiPad上で校正することが多いのだが、長いものなどはまだ紙が主流だ。そういえば教授会で向かいに座っていたFさんなど万年筆に赤インクを入れて校正していた。他にも、Iさんなども赤インクの万年筆を使っていた。しかもペリカンだった。


で、思い立って買ってきた。ペリカンの赤インク。


どうだ? 


ちょうど今日、小さな原稿の校正があったので、珍しくこれを印刷して紙で校正しようと思ったのだが、こんな時に限って訂正すべき箇所が一箇所もない。これで校了だ。うーむ……


まあいいや。これでペリカンもモンブランも使える。

2021年3月17日水曜日

ピエタはジアンジアンで詩を詠んだ

泉芳朗(1905-59)は詩人にして政治家。戦後、奄美群島の本土復帰運動が盛り上がったころに名瀬市長を務め、その運動を牽引した人物だったので、復帰の父などとされている。復帰後は、しかし、国政への参加をもくろむも叶わず、必ずしも恵まれたものではなかったようだ。1959年、滞在先の東京で急性肺炎によって客死。


この芳朗に関してはやはりどうしても奄美での復帰運動の前後のことが語られるばかりで、東京での詩人としての活動や、その最期についてはあまり語られていない。僕はひそかに詩人・泉芳朗についてなにがしかの文章を書きたいと思っている(そうは思えないかもしれないが、かつて発表した短篇小説「儀志直始末記」〔『たべるのがおそい 7』、2019〕はその試みの一環でもある)。


親族以外で芳朗に最後に会った人物が詩人・英美子(はなぶさ よしこ1892-1982)。『泉芳朗詩集』(1959 / 南方新社、2013)付録の冊子「泉芳朗の人間と文学」に寄稿した名のある詩人たちの中にはあまり知らないけどまあ頼まれたから書いてやるか、といった感じの者もいなくはないのだが(金子光晴など)、その中で英は慈愛に満ちた感じで芳朗の最後の日々を回想している。一回りほども年上の英が最初に結婚をして子をもうけたのは16歳の時だったから、子を慈しむ母という感じだろうか? 


この英美子というのが、なかなかかっこいい。静岡の名家に生まれ、最初、軍人と結婚して子をもうけたが、自由を希求し離婚、東京の長崎でアパートを経営していわゆる「池袋モンパルナス」の共同体を下支えしながら自身も詩を書いた。池袋モンパルナスというと画家や造形芸術家のみに目が行きがちだが、ここの後期、「土曜会」という詩の集いに師匠・佐藤惣之助とともに参加していた英美子は、昇曙夢や四本忠俊ら郷里の先輩に誘われて参加した芳朗と知り合っている。このころ、美子はK・Iなるプロレタリア詩人との間に子をもうけ、生涯シングル・マザーとしてその子を育てる。子は中林淳眞。ギタリストだ。


その彼女、1980年には詩集『アンドロメダの牧場』がスペイン語訳され、スペインで詩の朗読会を開いている。それが縁でなのか、ニコラス・ギジェンにも会うことになっていたというのだが、ギジェンの死によって叶わなかったのだという。



死後、中林がまとめた英美子『自選詩集 仮装の町』(花神社、1993)の表紙には、スペインでの朗読会の告知の文面が印刷されている。しかもこの本、彼女が渋谷のジアンジアンで開いていたという詩の朗読会(中林のギター演奏つき)から1981年に吹き込まれたCDが付録としてついていた! (左は、評伝+詩の紹介、松田文夫『英美子――もつと、まだうまきものはないか』〔角川学芸出版、2013〕


芳朗が南の海の群島を詠った(「南蛮図」〔「浪 浪 浪らのけはしいせめぎの中へ/ああはるか南へ 消え入る微体」〕)のに対し、第一詩集を出す前に北海道に向かった英は「オホーツクの海の瞳」を詠っている(「オホーツク海 初夏〔はつなつ〕の展望は/千島列島を飛び石伝いに吹き抜ける」)。「うぽぽ」を詠っている(「うぽぽは むかし/千島列島を 飛び石づたいに/やってきた」)。


そしてその縁から、スペインを詠っている。「己を忘れ 明日を忘れて/西へ西へとひた駛〔は〕しる/タホ川の/ウルトラマリンの薔薇の影」(「タホ川のほとり」)


さらには松山に幻想の器官なき町を詠う(表題作「仮装の町」)。


松山の奥の湿地

おんなのいない 

仮装の町があった


死ぬことに飽きてしまった 

 

偽りだけに開く

 

歩行のない 

 

不在の 

 

役に立たない顔も 

捨ててしまった


おんなのいない 

おんなの町にも 

謝肉祭〔カーニバル〕はあった


青褪めた性器の上に 

情熱の夜を灼こうと星々は また

最初のうたを ハミングする

おお、愛しのマグダレーナ!

20年近く前に行った調査研究(アレホ・カルペンティエールのベネズエラ時代)を、そのときにパニック障害を患った経験ともども本にまとめようとしている。


詳しくはそちらで書くだろうが、ともかく、パニック障害を患い、僕は5年ばかりも抗鬱剤を飲む羽目になった。パニック障害は鬱病周辺病で、僕にはだいぶ鬱に近い症状があったのだ。


1日を無駄に過ごすことが多かった。何もできなかったのだ。そんなときに、見るとはなしにTVを見てしまうことが増えた。


今ではだいぶ回復しているものの、たまに当時のように身体が重く、無気力で何も仕事が手につかないことがある。そんなときにTVをつけてしまうことがある。


数年前、そのようにして吉岡里帆という女優を認識した。数時間、何もできずについたTVを眺めていた。彼女が時間をおいて3つの異なるCMに出ていた。それを僕は別人だと思った。少し動く気力ができたところで、そういえばあのCMに出ていた人は何という人なのだろうと思ってネット検索し、その3人がひとりの人物であることを知り、驚いた。それが吉岡里帆だったのだ。


その彼女が、昨夜、あるTV番組に出ることを偶然知った僕は、深夜だがまだ眠くなかったし、もう何もする気力がなかったので、それを見た。笑福亭鶴瓶がホストとしてゲストに色々話を聞くというもので、前半が吉岡里帆、後半が江川卓をゲストに迎えていたのだ。吉岡里帆はそこで、子供のころ曾祖父母の家の近くにあったレストランのお子様ランチが懐かしいと訴え、今は閉店してしまったそのレストランの店主のビデオ・メッセージとともに、再現され提供されたお子様ランチを食べた。そして、口にした瞬間、味を思い出した、この味だ、と歓喜した。


そんな馬鹿な、と独りごちて冷笑した僕ではあったが、次の瞬間、思い出したのだ。そうだ、僕にもそういう経験があったのだと。


数年前、母が入院し、最初に運び込まれた名瀬の県立病院から家の近くにある他の病院に転院することになったとき、それに付き添ったのだった。そのとき、やはり付き添いできた親戚の人と、介護サービスの車が来るまでの待ち時間を病院内の食堂で昼食を食べてやり過ごすことにした。食堂に入ってメニューを見渡し、何気なく親子丼を注文した。やって来た親子丼はさしておいしいとは思わなかったのだが、そう感じた次の瞬間に、記憶が甦った。


ここは、まだ5歳くらいだったころ当の母とともにやって来てこれとまったく同じ親子丼を食べたあの場所だったのだと。それが僕にとっての初の外食経験だったのだと。そして、その他にも診察にいったことのある他の病院このと、バスを待つまでの時間にターミナル近くの飲食店で食べた他の親子丼(僕はどうも子供のころは親子丼が好物であったらしい。家では出された記憶がないので、よけいに外ではそれを食べたがったのだろう)のことなど、記憶が次々と甦ってきたのだ。その後の人生で僕は何百回、何千回となく親子丼を食べてきたはずなのに、初めての外食が親子丼であったことなど忘れていた。それを思い出すにはこの県病院の食堂のあまりおいしくない親子丼でなければならなかったのだ。


もちろん、これはプルーストにおける紅茶に浸したプチット・マドレーヌ効果である。今朝起きた瞬間、僕は改めて昨夜の吉岡里帆のこととそこから引き出された自分自身の記憶を反芻して、確認した。長大な『失われた時を求めて』の第一編「スワン家のほうへ」第1章末尾に出てくるエピソードで、母親からすすめられて紅茶に浸したプチット・マドレーヌを食べた瞬間、幼少期のコンブレーの家での記憶を回復するという、あのあまりにも有名なエピソード。吉岡里帆のお子様ランチはプチット・マドレーヌであり、僕の親子丼はプチット・マドレーヌである。そして吉岡里帆のTVでの振る舞いは僕のそのマドレーヌ的経験を思い出させたという意味でこれもまたマドレーヌであった。マドレーヌ(スペイン名マグダレーナ)ではなく里帆だけど。


僕がまとめようとしている本のタイトルは『失われた足跡を求めて』というものにしようと昨日昼間、考えたところであった。



渋沢栄一がゲストハウスに使っていた家@飛鳥山公園。

2021年3月13日土曜日

痩我慢を分かち合う

巽孝之さんの慶應義塾大学での最終講義がzoom配信されるというので、登録して拝聴(たしかこの後YouTubeでも配信されると言っていたはず)。


最終講義ということで、アルフォンス・ドーデの「最後の授業」から始まり、それが「失われた大義」lost cause をめぐるものであったと解釈のし直しが可能だろうと提起して、当の「失われた大義」をめぐる文学や映画などに触れる。「失われた大義」というのは英語もしくはアメリカ文学の文脈で言うと、南北戦争に敗れた南軍側の言い訳で、これが『風と共に去りぬ』や『アブサロム、アブサロム』に流れていること、『ハリエット』や『フォレスト・ガンプ』にも通底していることをたどる。そこにcreative anachronism に基づく歴史へのしっぺ返しの可能性も示唆したりしながら。


そしてこの「失われた大義」とのアナロジーで福澤諭吉の晩年の勝海舟批判に出てくる「痩我慢」を理解し、彼が関係を取り持った同時代のアメリカ人、ヘンリー・ソローなどとの通底性を探る。


最後にスラヴォイ・ジジェクらを引きながら、現代社会において失われようとしている(もしくはもう失われてしまった)大義らを示唆し、コロナの時代を生きる奇貨とした。


巽さんが相手にしている国(アメリカ合衆国)によって大義を奪われ失ってしまった(と主張する)国々を主たるフィールドとする人間としては、そうした「痩我慢」の入れ子構造にひとつの共感のよすがを見出す回路を夢想しながら聞いていたのだった。


写真はイメージ。渋沢栄一ゆかりの地の近くにある渋澤珈琲。特に関係はないと思う。

2021年3月7日日曜日

これがジャニーズ事務所か!


こんなビルの正面で仕事をしてきた。ジャニーズ事務所だ。


僕が仕事をしたのはジャニーズ事務所ではない。その向かいのビルで仕事をしてきたのだ。


JLPP翻訳コンクールというのがあり、現在、第6回募集中で、僕はそのスペイン語部門の審査員をやることになっいる。


今日は審査ではない。第5回の授賞式のあとのシンポジウム「2021年、世界文学と日本文学の景色」に出てきたのだ。スタジオからのオンライン配信で、その収録スタジオがジャニーズ事務所の目の前にあったという次第。乃木坂駅すぐ近く。住所で言うと南青山。


僕はモデレーターも務めたので疲れた。


張競さんは中国における日本文学翻訳の歴史を概観し、SF、ライトノベルなどの最近の傾向も指摘、流通とその戦略の問題も重要になっていることを述べた。


鴻巣友季子さんはポストヒューマニズムとディストピアの交錯するところに近年の文学の傾向を認め、そこにいかに翻訳家が介入するかという問題点を指摘し、多和田葉子、村田沙耶香、川上未映子等の近年の好評を分析した。


僕は21世紀に入ってからスペイン語圏では日本の現代文学の翻訳が世界市場に同調しながら盛んになってきたことを指摘した上で、日本(社会・文化・文学)への理解も充実してきたことを前提とし、が、実はその世紀の転換点のころに現れた日本文化吸収の極北とも言うべき文学作品を少し紹介した。マリオ・ベヤティン『ムラカミ夫人の庭』Mario Bellatin, El jardín de la señora Murakami (Tusquets, 2000)だ。


YouTubeで配信された映像は3月いっぱい、後追いで視聴が可能らしい。URL知らないけど※。


※ その後、教えていただきました。ここだ。


https://www.youtube.com/watch?v=GF_rCmcjUh0



帰りは2、3駅分を散歩した。