2015年5月18日月曜日

身体の記憶の古層

暑くなってきた。

寒い季節やまだ涼しい時分にはリュックにして背負って歩くヘルツのソフトダレスバッグを、この時期はショルダーにする。背負っていると汗をかくし、汗をかくと革製品なので色移りが心配だからだ。ここの鞄屋のリュックがやはり、色移りしていくつかシャツをだめにしたので、念のため。

肩掛けだと、普通にかけても袈裟懸けにしても肩が凝る。重いからだ。だから手に持って歩くことも多い。もちろん、手に持ったところで、重さは変わらない。肩のダメージは少なくなるが、いずれにしても往生する。

最近、ふと気づいた。「ナンバ」の歩き方をすれば、楽なのではなかろうか。

ちょっと前に「南蛮」の意味を記す必要があって、辞書の定義を書き写した。『大辞林』の定義のひとつにはこんなのがあった。

歌舞伎・日本舞踊で、右足を出すとき右手を振り上げ、左足を出すとき左手を振り上げるような歩き方。なんば。

かつて日本人はこのように歩いていた。近代化され、右足と左手を同時に出すヨーロッパの軍隊式の歩き方が導入された。しかし、人によってはなかなかこの近代の歩き方に馴染めずにいた。今でも緊張して右手右足を同時に出す歩き方をするような者がマンガやコントなどに描かれるが(志村けんなどよくやっていたように思う)、これはその近代以前の肉体の記憶が回帰しているのだ。そんな主旨のことを三浦雅士は書いていた。

ナンバは、しかし、近年では見直されて、伊藤浩二、末次慎吾などの陸上選手はこの走り方を採り入れて活路を切り開いたのではなかっただろうか? ふと思い立って、ナンバを採り入れてみようと思った。

が、ぼくにはよほど近代的・軍隊式肉体訓練が染みついているのだろう。右手と右足を同時に出す歩き方など、うまくできない。やってみても、全然楽になんかならない。

そうだ、発想の転換をすればいいのだ、と思いついたのは階段をおりている時のことだった。足を前に出すというのは前後の動きばかりではない。ナンバや軍隊式の歩き方は水平にねじれる動きばかりが問題になるのではない。足を前に出すということは、足を上げ、そして下ろす行為なのだ。つまり、ナンバとは足の上げ下げに合わせて肩を上げ下げすればいいのだ。そして、やってみると、なるほど、これなら楽にできる。

この解釈が正しいかどうかはわからない。だからとりあえず、カッコつきで「ナンバ」と呼んでおこう。この「ナンバ」のコツを身につけてみると、なるほど、荷物もを持つ腕は飛躍的に楽になった。重いことに変わりはないが、感じる負荷は半分にも満たないのではないだろうか。

あまり大袈裟に肩を上げ下げすると、見た目はどうしても不格好だが(ぼくには近代的・軍隊式美意識が染みついているのだろう)、ともかく、コツとしてはそんな感じ、右足を踏み下ろすときに右肩を下げる。重い鞄を手に持っている時には、そんな風に歩く。

で、ふと気づいてみると、街中にはけっこう、この歩き方をしている者がいる。重い荷物を肩にかけ、ひょこひょこと「ナンバ」歩きになっている者がいる。今朝も、電車の中で、さして重そうでもない小さな荷物を掲げた女性が、「ナンバ」で歩いていた。慶應大学三田キャンパスの正門を入ってすぐの大階段を、トートバッグを肩から提げて上る、どちらかというと逞しい体つきの男子学生も、右足を出すときに右肩を下ろしていた。


うむ。果たして身体の記憶の古層が回帰しているのか、無意識に体がたどり着いた結論なのか、それともぼくのように意識してのことなのか? いずれにしろ、「ナンバ」、広まっているのだ。

2015年5月15日金曜日

またヘンな映画見ちゃったなあ……楽しいなあ……

Damián Szifron, Relatos salvajes (アルゼンチン、スペイン、2014)

邦題はまだ秘密、試写会に呼んでいただいたのだ。

このタイトル、この公式サイトの最初のイメージ。これはどう考えてもボラーニョだろう、という予断を持って見に行ったのだ。『野生の探偵たち』Los detectives salvajes ならぬ『野生の短編たち』Relatos salvajes

監督のシフロンはどこかで、暴力に関係した短編を書いているうちに、それらがつながった、というようなことを言っている。連作短編の趣のある長編、という意味でも『野生の探偵たち』ではないか! なんといっても暴力とその思いがけない展開、切実なはずだけど笑ってしまう内容など、……うむ、強引に取ればボラーニョのようでなくもない。

まあボラーニョのようかどうかは別として、1パステルナーク、2ネズミたち、3最強の男、4発破、5提案、6死が二人をわかつまで、という6つの短編(後に行くほど長くなるように感じた)からなっている。

飛行機の中で通路を隔てて隣同士に座ったモデル(マリーア・マルル)と音楽評論家(ダリーオ・グランディネッティ)が会話を交わし、ほどなく、モデルの最初の恋人パステルナークのことを音楽評論家が知っていると言い出す。あるコンクールの審査員をしていたときに、パステルナークの作品をけなしたのだ。すると、後ろの席の女性が、自分はそのパステルナークの小学校の先生だったと名乗りを挙げる。それを聞いて、パステルナークと同学年の教え子が、先生ではないですか、と声をかけてくる……

そんな始まりだ。なんだか面白い。でもなんだか面白いということは、なんだかおかしい。恐怖すべきことがそこにあるのだ。そしてその恐怖が現実のものになる……といった具合だ。これがオープニングの最初の短編。

音楽もところどころおかしな雰囲気を醸し出している。グスターボ・サンタオラーヤの担当。


わけあって、あまり多くは語らないが、面白いのだ。今夏公開。ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて。

追記: 邦題『人生スイッチ』として7月25日より公開が決定したようだ。日本版公式サイトはこちら。

2015年5月6日水曜日

ホルヘの幸運不運の1日

先日報告した「ラテン! ラテン! ラテン!」のフェスティヴァルで、比嘉セツさんと星野智幸さんとのトークショウを拝聴。シャッター商店街でトルタ屋を営む青年からは始まる「呪文」の話も出た。トルタだ。これは是非読むべきではないか、と思った。話の中心はその直前に上映された『スリーピング・ボイス』のこと。この国に忍び寄る(いや、もう覆っているか)ファシズムの影を実感させる映画であることなど。

そして、その後のスニーク・プレビューで観た、まだ邦題の決まっていない作品。 Federico Veiroj, La vida útil (ウルグワイ、スペイン、2010)

フィルムライブラリー(ウルグワイではcinematecaと。メキシコではcineteca、スペインではfilmotecaだ)がそれを運営する財団から見放され、閉鎖することが決まり、25年間勤めていたホルヘが路頭に迷う話。

国立であるはずのフィルムライブラリーが、民間の財団によって運営されていて、しかもそれが収益率が悪いというので閉鎖されるというのは、いわばグローバル化というか、新自由主義的経済政策の害悪を告発する映画なのだろうとは思う。とは思うのだが、そうした悲愴、かつ問題告発的なものでは決してなく、実におかしい。解雇後のホルヘが、まっすぐ家に帰ることをやめて放浪する決意をしてからの造りが、とてつもなく

ヘン

なのだ。


終わって会場が高笑いに包まれた。そうした映画。いったい何がヘンなのかは、言わないでおこう。実は前半の鬱勃とした雰囲気の中で発されるあるセリフに関係していて、ますます面白い。63分の中篇というほどの映画。まるでセサル・アイラの小説のようだ。K's cinemaで公開予定とのこと。観ない手はない。

2015年5月5日火曜日

野球ファンになることは映画ファンになることに似ている……? 

引用するかもしれないと思い、久々に後藤雄介『語学の西北――スペイン語の窓から眺めた南米・日本文化模様』(現代書館、2009)を開いた。お目当てのページではない項目にも目をやってみた。たとえば「さらば、GIGANTES――「ポストコロニアル」日本プロ野球」(GIGANTESには「ヒガンテス」のルビあり)219-230ページ。

サッカーとのアナロジーで野球が合衆国(後藤は「米国」と表記)の帝国主義的拡張に伴って広がったスポーツであること、日本の野球機構が長年ジャイアンツ中心の帝国主義的構造だったことなどをあげ、その植民地主義的状況からいかに抜け出るかという話を展開している。後藤は長いことジャイアンツ・ファンで(存じておりますとも!)、その後、千葉ロッテ・マリーンズのファンに転身した。その経緯を個人的、かつ「ポストコロニアル」理論的に説明したもの。ジャイアンツ・ファンであることの後ろめたさを糊塗するために、わざわざジャイアンツでなくGIGANTESと書いているわけだ。

後藤の父親はアンチ・ジャイアンツという名のジャイアンツ・ファンで、僕らにとっては馴染みの、ジャイアンツ戦しかテレビ観戦できない時代に育ったことを回顧するものの、やはり時代から言って、ジャイアンツが長嶋引退・監督就任後の初年度、最下位に転落したころからしか記憶していないことを確認する。そして、自分にとっては弱いチームだったジャイアンツが、翌年、優勝する年のある試合をテレビ観戦していて、中継が終わったのでラジオに場を変えて試合を追うことになった彼が味わったのが、末次の満塁さよならホームランの熱狂だったという。この時に彼はジャイアンツ・ファンになったのだと述懐するのだ。

そのことを後ろめたいと思っていながらも、後藤はファンであることをやめられないでいたのだが、今度はジョニーこと黒木知宏の力投(しかし、報われなかった)を見て、自然とジャイアンツの呪縛から解放され、マリーンズのファンになったのだというのだ。

なかなか面白い。後藤さん自身がここで言語化していない要素のひとつは、彼が末次や黒木に対して、あるいは彼らのプレーに熱狂する観客の反応に対して感じた恍惚こそが、どこかのチームのファンになることのきっかけとなるのだという事実ではないだろうか。野球(でもサッカーでも他のどのスポーツでもいいのだが)ファンになることは、映画ファンになることと似ている。そこに暴力やら帝国主義の縮図やらがあるはずなのに、観客は陶然として見入らざるを得ない。今自分が目にしているのが危険な構図を孕むものだとの自覚を持っていないと、僕らの手懐けがたい心は容易に帝国主義やら植民地主義やらを内面化しようとする方向に傾く。

ところで、後藤さんがまだ後ろめたさを残しながらもジャイアンツ・ファンを公言してはばからなかった頃、僕は所沢西武ライオンズを応援する立場だった。上京してぶらぶらしていた僕が、当時まだあった後楽園球場に2週連続で試合を見に行ったことがあった。1週めはジャイアンツvs大洋ホエールズ(現・DeNAベイスターズ)。2週めがニッポンハムファイターズvs.西武ライオンズ。1週目の観戦で、野球ってこんなものかと高を括っていた僕は、2週め、目が覚める思いをした。ライオンズの選手たちの動きがあまりにもすばらしく、素早く、魅力的だったのだ。ライオンズが福岡から所沢に移って5年目くらいだろうか、最初のリーグ優勝をした次の年だ。石毛が出塁してすぐさま盗塁、2番はそのときは辻だっただろうか、その彼のヒットであっという間に先制点をあげた、電光石火の攻撃がみごとだった。ひとりひとりの足が速く、パワーがあり、技巧が勝っていた。なぜジャイアンツなどを応援する人が多数派なのだろうと不思議でならなかった。


……これもひとつの恍惚の経験だったのだ。たぶん、試合場にじかに足を運んでいれば、最初からジャイアンツ・ファンになんかならなかったんじゃないかな、後藤さん。僕はそう思うよ。