なんでも、昨日、また文科省が馬鹿な発言をしたとのニュースが流れたようだ。中学の英語の授業を英語で行う、だと。
やれやれ。こんな馬鹿な話題にはぼくはかかわり合いになりたくはないのだが、一言だけ。
日本人の英語力とやら(そもそもそれは何だ?)を向上させたければやるべきことはまったく逆なのだ。英語以外のすぺての授業を、英語で書かれた教科書を使い、そこでの作業言語を英語と規定してしまえばいいのだ。とてもシンプルなことなのだ(英語は日本語で教えたっていいじゃない? むしろその方が。ただし、このことはまた別の議論だろうけど)。
実際、明治の初期、近代的な教育を整えていく段階で、大学などでもほとんどの教科が英語で教えられ、そのためにむしろ英語で著作をする方が楽に感じていた世代というのがあった。内村鑑三とか新渡戸稲造などだ。彼らが英語で本を書いたことは、何も英雄的なことではなく、むしろ自然なことだったのだ。だって英語でしか知的なことを言えなかったから。
学問が国語化するにつれて、日本人は英語がしゃべれなくなった、教育を受けた日本人は英語がしゃべれなくなった。それだけのことだ。そして日本語でも知的な議論ができるようになった。ただそれだけのことなのだ。
そんなことは太田雄三『英語と日本人』(講談社学術文庫、1995/親本は1981)に明かなんだけどな。だからこの太田の分析の逆を行けば、教育を受けた日本人の英語力を向上させるには何をどうすればいいかなど、明かだと思うんだけどな。
きっとこんな決定を下した連中や、その過程で議論に参加した連中は、太田の本など読んではいないんだろうな。なにしろ日本語で書かれているからな。やれやれ。知性がないがしろにされているんだな。本くらい読めよ、と言いたいな。