ぼくは「外国」の婉曲語法として「海外」を使うことに抵抗がある。「外国」で通す。
書物、もしくは読書行為は以下の2つにカテゴライズされる。
1) 趣味、もしくは余暇(の伴)
2) 仕事(のための資料)
2)にはさらに以下の下位区分がある。
2)-i) 一次資料
2)-ii)二次資料
2)-i)一次資料とは、仕事で論じる対象となるもの。2)-ii)二次資料とはそのための補助となるもので、さらに、
2)-ii)-a) 情報取得のために必要なもの
2)-ii)-b)思考のヒント、比較対象、等々に使われるもの
に区分してもいい。もちろん、一冊の本がこれらの中の複数のカテゴリーに跨がることはある。往々にしてある。2)-i)一次資料が文学作品である場合、1)と区別をつけることは難しい。
今そのカテゴリー横断は措いておこう。2)-ii)の場合、とりわけ2)-ii)-a)情報収集のための本の場合、ぼくらが必要とするのはそのピンポイントの情報だけだ。そんなもののために一冊まるごと読まないし、そのためにその本を買ったりはしない。(研究者となると、こうしたものも手許に置かないと成り立たないので困るのだが、それはまた別の話)
が、困ったことに、読書好きを自認する人の中には、ぼくらにとってこの2)-ii)-a)の意味以上のものを持ち得ない本を偏愛する人もいる。市場にはぼくにとってこの意義しか持ち得ないと思われる本の方が多く出回っている(そのこと自体はなんら非難すべきことでもないし、軽侮すべきことでもない)。
ピンポイントな情報だけ必要ならば、その情報だけ取れればいいので、場合によっては本屋で立ち読みしたっていい。が、2)-i)の場合、線を引いたり書き込みしたり、折ったり破ったり(!)しながら読むので、やはり買って手許に置いておきたい。外国文学を一次資料とする場合は、やはりそれは原書でなければならないといのうが暗黙の了解なので、その翻訳となると、2)-ii)-b)に分類すべきなのかもしれないけれども、これは限りなく2)-i)に近いので、2)-i)' とでもしておこう。2)-i)' とすべき存在を図書館で借りて済ませるわけにはいかない。借りる場合は、それを自分自身の本にする(つまり線を引いたり書き込みしたりする。そして貸出期限を過ぎて持ち運びする)ために丸ごとコピーすることになる。400ページの本の場合、おおよそ2,000円かかる。それでも商品としての外国文学作品よりは安上がりかもしれないが、読みやすさ持ち運びやすさ等々を考えると、あまりお得とは言えない。
2)-ii)二次資料を読むのに1日かけることはまれだ。2日以上かけたら、それは怠慢だ。一方で2)-i)一次資料は、何しろじっくりと取り組まなければならない。2日、3日、一週間……一ヶ月……なんなら1年かけたっていい。10年かけたっていい。
さて、ところで、2)-i)一次資料が書物でありうる分野は、哲学や文学、その他、少数の人文科学の分野だけではあるまいか。経済学者ならば目の前の日々の経済活動(やそれを記す資料)が一次資料だろう(経済学史の分野ならば経済学の書物が一次資料となるだろうけれども)。哲学や文学、そして理論の書物は読むのに時間がかかるし、かけていいし、かけなければならないし、そうでなければつまらない。
たった一行だけの情報を収集するのに、たとえば、500円出してそれが掲載されている書物を買うのを、ぼくはもったいないと思う。3年かけて読むかもしれない、少なくともその価値があるかもしれない書物(その価値のある書物の補助となる書物)に1万円かけるのに躊躇はしない。
ましてや1)趣味となれば、人は金に糸目はつけないはずではないか?
……とはいえ、もちろん、安いに越したことはないけれどもね。
高いと言われる翻訳書をいくつか世に出した立場からすれば、高いからといってそれだけ実入りがよくなるわけではないことは、声を大にして言いたい。むしろ、逆かもしれない。外国文学の翻訳だけで(少なくともスペイン語からの翻訳だけで)生きていくことなどできない。