2010年9月28日火曜日

怒れるぞ

法政のゼミでは、多民族、多文化の視点を提供してくれそうな映画を観るということをやっている。そういったら、今日学生が持ってきたのが、ニキータ・ミハルコフ『12人の怒れる男』(2007)。

もちろん、シドニー・ルメットのあの映画の翻案なわけだが、裁判で罪が問われているのが、チェチェンからモスクワに養子にもらわれてきた少年という設定であることが問題なのだな。

陪審員ものだから罪が立証されるかという論理が問題になるのだが、その論理を感情にすり替え、あげくに「ロシア人は感情がないと動かない」「法律は死んだ」などと登場人物に言わせているのだから、そんな「ロシア人」を口実に、変な風に作られちゃったかな、と思っていたのだが、そのうち何だか様子が変わってきた。陪審員ひとりひとりが論理を考える代わりに自らの人生を語り、それがまた必ずしも切羽詰まったものでなかったりして、……うーん、これをしてアネクドートと言うのだろうか、と唸りながら観ていた次第。最後はミハルコフ自身が演じる陪審員2が目の覚めるような主張をし、彼のその主張の裏にある感情を示唆するようなシークエンスが入り、……疑問点も多々うまれてくる。

外国人恐怖のタクシー運転手やハーヴァードを出たというマザコンのボンボンやらと、ステロタイプに堕しているかと思われた人物がその人に用意された見せ場の後に態度を変更するという論理(?)の展開などは、そのうち、奇妙に面白く感じられる。

2010年9月25日土曜日

ペンタックスは青がきれい

生活を変えたいと思った。郊外の暮らしに疲れた。たとえば自転車が欲しいと思った。自動車なんか、近頃増えたカーシェアリングでいい。

自転車が欲しければ買えばいいのだが、自転車置き場に場所を確保できるかどうかも問題。すぐには買えない。でも、自転車が欲しいと思ったら、どういうわけか、散歩に出なきゃと思った。散歩に出た。数枚、写真を撮った。

結果、ストレッチ不足を感じた。背中も痛くなった。その前もその後も翻訳やら何やら。

来週にはもう逃れられない。授業が始まる。

2010年9月22日水曜日

空虚なイメージなどではなく、一個の実在なのだ。

もう日付が変わったので、昨日のことになるが、火曜日は法政の後期初日。ゼミの連中とバーベキューをしてきた。法政多摩キャンパスにはバーベキュー施設が2箇所にあるのだ。そのうちのひとつで。

で、帰りの電車で読み終えたのが、

奥泉光『シューマンの指』(講談社、2010)

ピアノの鍵盤に血のついた模様の装丁が素晴らしい1冊。

一旦は音大に入ったものの、ピアニストの夢を断念し、医学部に入り直して今は医者をしている里橋優が、高校時代の友人からの手紙をきっかけに、30年前の天才少年ピアニスト永嶺修人とのつき合いを想起し、彼の周りに起こった殺人事件を回顧する手記を書くというもの。

いわゆる謎解きを主眼とするミステリではない。犯人は最初から直感されている。この小説の真骨頂は、ミステリではない殺人事件の謎解きにリアリティを与える心理と知覚と記憶との不確かさを巡る描写だ。長男を青年時代の自分自身が殺していた(かもしれない)という小説で芥川賞を獲ったこの作家の、さすがの手並みだ。ちなみにこの記事のタイトルは小説本文からの引用(294ページ)。

なんといっても小説内を埋め尽くすシューマンに関する蘊蓄や演奏批評も素晴らしく、フルート奏者でもある作家の音楽家への愛が伝わってくる。最後の数ページでどんでん返しがあり、最後まで残された謎にも解決がつけられるというしかけ。電車が最寄りの駅に着いてからも、数分間プラットフォームのベンチに座り込んで読み終えてしまった。

2010年9月20日月曜日

家族の物語

以前、柴田元幸さんをぼくの関係する授業にお招きして、お話しいただいたとき、かつてアメリカ文学には家族が不在だったのに、ここ10年(だったっけ?)ばかりは家族の話ばかりが書かれている、というようなことをおっしゃっていた。映画はどうなんだろう? でもこの人の場合、「アメリカ映画」といえるのだろうか? だいたい『ゴッドファーザー』の人だ。家族が不在も何も、一族郎党全部ひっくるめてって話じゃないか。『ランブルフィッシュ』なんて兄弟ものもあった。だからまあ、そんな一般論で考えない方がいいんだろうな。

フランシス・フォード・コッポラ『テトロ』(アメリカ、イタリア、スペイン、アルゼンチン、2009) 昨日に引き続き、ラテンビート映画祭にて。

ニューヨークにある親の家を出てブエノスアイレスにやってきて、小説を書こうとして挫折、精神を病み、何度か事故にもあってふさぎ込んで暮らすアンジェロことテトロ(ヴィンセント・ギャロ)のもとに、年の離れた腹違いの弟のベンジャミン(オールデン・エーレンライク)が訪ねてくる。どうやら詩人を目指しているこの弟、兄に捨てられたと思っているようで、最初は兄弟の確執と愛の話かと思わせる。ましてやテトロの書いている小説は、彼の父親とその兄の芸術面におけるライヴァル関係と確執を題材としているようで、2つの世代にまたがったパラレルな兄弟の話が展開するのかとの予想も成り立つ。しかし、実際にはそれが父殺しの話だったのだということがわかってくる、というストーリー。

大抵が白黒で展開されるストーリーに、たまに挟まるカラーのシーンは、テトロの回想かと思ったら、実は彼の書いていた小説の内容(事実に基づくものではあるらしいが)。テトロの父は、彼は一緒に暮らすミランダ(マリベル・ベルドゥー)には隠していたけれども、1901年にイタリアからアルゼンチンに移住した家族の子で、エーリヒ・クライバーに目をかけられて大成した世界的な指揮者カルロ・テトロチーニだということが、白黒のシーンとカラーのシーン両面からの説明で次第にわかるようになってくる。左右逆転した鏡像文字で書いていたテトロの小説の草稿をベンジャミンが書き継ぎ、書かれないままだった結末も自分で見つけ出すのだが、しかし、そうではない本当の事実としての結末がクライマックスで兄から弟に告げられる。観ているうちに観客の誰もが予想するような結末だが、この展開は面白くて飽きない。

父親殺しの話で、クライマックスにはアローンという批評家(カルメン・マウラ)の主催する文学賞の発表会があるのだが、この賞、日本語字幕では「反逆文学賞」と訳されていた。Premio parricida(父殺し賞)なのだけどな。不自然だと思ったのだろうか? でもそもそも、影響力絶大なる批評家のペンネームがAloneなんて設定は、不自然といえば不自然(この不自然さはボラーニョを思わせる。『チリ夜想曲』のフェアウェルだ)。それを思えば、「父殺し賞」で良かったのではないか? ただし、セリフのスペイン語のパートには英語字幕がついていて、そこにはParricide Prizeと明記されていたので、わかるといえばわかる。(今、『リーダーズ英和辞典』を引いたら、parricideの項に「反逆者」という訳語があった。なるほど、スペイン語の辞書にはでていないはずのこの訳語、こうしてできたのだな)

ところで、コッポラってこんなにうまい人だっけ? と感心するシーンがいくつも。サービス精神もたっぷりで、巨匠はさすがに巨匠なのだと、納得(近年は娘の話題ばかりなもので、忘れていたのだな)。テトロのアパートで兄弟が口論するところは映画館内であることも忘れて唸りそうになった。終わって拍手が起こったのもうなづける話。

余談だが、ヴィンセント・ギャロ。ギャロなんてカタカナで書くとわからないのだが、Galloじゃないか。つまり鶏だ。オンドリだ。そう考えてひとりほくそ笑んだ。

もうひとつ余談。ロドリーゴ・デ・ラ・セルナが出ていた。『モーターサイクル・ダイアリーズ』でゲバラと一緒に旅するアルベルト・グラナドの役を演じていた俳優だ。

最後の余談。テトロがベンジャミンを見舞った際に持っていった差し入れは、本3冊。うち1冊は架空の人物(映画内の「アローン」)によって書かれたもの。残りの2冊の著者は、それぞれ、レオン・フェリーペとロベルト・ボラーニョ。

2010年9月19日日曜日

旅の疲れを佳作に癒される

以前観た『シルビアのいる街で』のことを、知り合いは「すごいイケメンがすごい美人さんをストーキングする話」と聞いたと言っていたが、これはさしずめ、むくつけきことこの上ない男がかわいい女の子をストーキングする話。何かと言えば、アドリアン・ビニエス『大男の秘め事』(アルゼンチン、ウルグアイ、ドイツ、オランダ、2009)。ラテンビート映画祭(新宿バルト9)にて。

背が高く恰幅もいいくせに同僚からはJaritaと、いわゆる縮小辞つきで、しかも、-a で終わるのだから女の子を思わせる愛称で呼ばれるハラ(Jarra——ジョッキ——のことではない。-r-はひとつだ)(オラシオ・カマンドゥレ)はモンテビデオ(ウルグアイ)の大型スーパーの警備員。監視カメラで店内のゴタゴタを盗み見て楽しんでいる。ある日、ヘマをして商品管理の上司にお目玉を食らうフリア(レオノール・スバルカス)に恋をして、彼女のストーキングを始める、という話。

監視カメラのストーリーへの絡めかたが実にうまい。小説は活字よりも古いメディアである手紙や日記を裡に取り込む。神の視点を目指した小説に比して手紙や日記は一人称で語られるのが自然だから、いきおい、視界が限られ、見えないもの、語られないことが出てくる。その見えないものや語られないことが謎を産み、嫉妬を掻き立てる。だから物語が発動し、心理が立ち上がる。これと同様に映画も、自分より古いメディアである鏡を裡に取り込んで視覚の迷宮を作る、というと加藤幹郎(『鏡の迷宮』)の指摘だ。鏡よりは新しいかもしれないが、原理的に決して映画より新しいものではないはずの監視カメラが映画に取り込まれたとき、やはり死角ができ、その見えない場所がハラの嫉妬を産み、物語を発動させる。フリアが仲良くしているらしい食肉係の男と、監視カメラの眼の届かないところにしけ込んだとき、ハラはある行動を起こし、ストーキング行為にもあらたな展開が生まれる。ハラが逆に監視カメラに捉えられ、フリアに見られる存在になったときに、またひとつの展開を引き起こして物語が集結に向かう。

今年のラテンビート映画祭、他の前評判の派手さに隠れて目立たないと思われた(あるいはそう思っていたのはぼくだけか?)『大男の秘め事』、なかなかどうして、佳作だ。ベルリンの銀熊賞は伊達ではない。

静岡のホテルで残り少ない席をネット予約し、東京に戻ってすぐに新宿に向かって観たのだった。

ちなみに、これが今回お世話になった静岡大学人文学部(部分)

2010年9月16日木曜日

雨男が色男を論じる

つくづくと雨男だと思う。今日は静岡は終日雨。時にはどしゃ降り。時には小降り。

モリエールの『ドン・ジュアン』の面白さは、ドン・ジュアンと従者スガナレルの契約関係の面白さ(封建的主従関係でなく)もともかく、シャルロットとマチュリーヌの二人の漁村の女が鉢合わせする、いわゆる修羅場のシーンにある。そこで、ドン・ジュアンの女たちに対する言葉による支配のしかたが明らかとなる。ドン・ジュアンのあくどさと巧みさが光るシーンだ。シャルロットの婚約者ピエロのことはびんたで(つまり暴力で)支配し、女たち二人からは発話の機会を巧みに奪い、互いのコミュニケーションを断ち、自らの論理で説き伏せる。うーむ、策士だ。

一方、ホセ・ソリーリャ『ドン・フワン・テノーリオ』の面白さは、ドニャ・イネスを外堀を固めながら口説くその策略(イネスが付き人ブリヒダの囁く流言に恋をする)とそれに自分自身ではまってしまってイネスへの恋心を抱くにいたるドン・フワンの動揺ぶりだ。ふたりとも言葉に恋をしてしまっている。

てな話を必ずしもしたわけではない。重点は少しずれた。でもともかく、ソリーリャのドン・フワンがロマン主義的だと言われるのは、イネスの愛によって魂が救済されるからではない。ここでふたりが言葉を通じて恋に落ちているからだと言うべきだろうと思う。

1日5コマはさすがに疲れる。

2010年9月15日水曜日

ホテル

消耗的な教授会が長引き、さすがに新幹線の時間に遅れそうだったので、途中で抜け出してやって来た。静岡だ。

明日から静岡大学で集中講義。ぼくにとっては初めての経験。5コマ×3日なんて、体力もつかな? 

国鉄はJRになってから鉄道以外の事業(レストランとかホテルとか、いずれにしろ駅に近い立地を利用した接客業)にも手を出し、それなりにうまくいっているのだろう、今回泊まることにしたのも、そんなJR系列のホテル。デスクのスペースが広くて、ぼくには助かる。準備をしてきたとはいえ、改めて必要な本を読んだり、メモを取ったり、通常の仕事をしたりするのに使い勝手がいい。

DVDやら本やら、色々と持ってきたので、荷物はだいぶ多くなった。小さめのキャスター付きスーツケースに大きな革のトートバッグ。周辺機器を収納したPCショルダーバッグ。汗びっしょりだ。

向かいには静鉄の経営するホテルが。こちらよりもこぢんまりとしてはいるが、建物の外観はむしろいい。部屋も悪くなさそう。こちらにすれば良かったか? 今度静岡に来るときはそっちに泊まって確かめてみよう。

ところで、「句読点」といっしょくたにして言うが、どっちが句点でどっちが読点か、君は知っているか? てな話が昨日は持ち上がったのだった。ある場所で。句というとフレーズだから、句点とはテン(、)か? いやいや、句がフレーズなのはある体系(西洋語の文法論や言語学)のなかでの話であって、この場合の句はかならずしもそういう意味ではないのではないか? 等々。

正解は句点がマル(。)、読点がテン(、)。

お、この文章、(。)、(、)。という続きがいい。ま、ともかく、新幹線の中でうとうととしながら、昨日のそんな議論を思い出した次第。読みかけの小説を読んでいたはずなのに。

2010年9月12日日曜日

訂正と反省

9月9日の記事末尾にさりげなく告知したイヴェント、キューバ文化の日の件。どうも中止になったとかなるとか……。

残念ではあるが、少なくともその日までに何冊かの本を読まなければならないという義務からは解放された。それを義務だと思ってしまうとなかなか読み進められなくなるという、典型的な愚図のぼくにとっては、ほっとしもする事実。

ところで、青山南『本の雑誌』の連載コラム「南の話」で、2009年6月号「カルペンティエル記念館」という記事を書いているという事実を遅ればせながら知り、家から一番近い市立図書館に雑誌のバックナンバーが所蔵されていることがわかったので、読みに行った。

キューバに行ってみたら、それまで気にも留めていなかったカルペンティエールの記念館のことが気になって見に行った、修復中だった、カルペンティエールのヘミングウェイとの関係はどんなんだったのだろう、気になるところ、という内容。

まあ「キューバに出かけるまではぜんぜん頭になかった」というのだから、「記念館ができるほどのひとだったのか、と認識をあらたにした」という認識不足はしかたがないし、「第二次世界大戦がはじまると、キューバにもどってジャーナリストとしての仕事をはじめている」(強調は引用者)という誤認も可愛らしいものだと笑って済ませるにしても、「ラ・ボデギータでモヒートを飲んでいた有名作家ヘミングウェイを、カルペンティエルが、あれがヘミングウェイか、とながめていた可能性もある。(略)そういう出会いって考えると楽しい」なんて書かれると萎えるなあ。カルペンティエール(の分身たる小説の主人公)とヘミングウェイの接触と前者の後者に対するアンビヴァレントな思いは、『春の祭典』を読んでくれれば、もっと豊かに想像できるのだけどな。読んでいただいていないというのは悲しいし、営業努力が足りないのかなあと反省もすることであった。

2010年9月11日土曜日

63年8月の出来事。あるいは記念日嫌い

63年8月の出来事といっても、何のことはない、ぼくが生まれたというだけのことだ。乙女座だ。わざわざ「63年」と書いたのは昨日の記事のタイトルにつられてのことだ。

8月生まれの者は夏休み中に誕生日を迎えるので、多感な学校時代に友だちから祝ってもらえないという運命を背負うことになる。ぼくもひょっとしたら昔は、誕生日を好きな友人たちに祝ってもらいたいと思いながらわくわくと待ちわびていたかもしれない。でも時期は夏休み中。みんなあちこちに出かけたり、だらだらと過ごして他人のことを忘れたり、あるいはぼくの場合、もう8月も終わろうとするころだから、ため込んだ夏休みの宿題に追われていたりしたのだろう、祝ってなどもらえなかった。……そうこうするうちに、誕生日は誰かに祝ってもらうものだという思い込みを捨てるにいたった、のかもしれない。

ま、この推測が正しいかどうかはわからない。ぼくだってたまには誕生日を祝ってもらう(ありがとう!)。でもまあ、ともかく、そんなわけで、記念日には無縁でいることが多かった。何であれ、何かの記念式典などには立ち会ったためしがない。あまり。記念日・祈念日にそのことを想起する感慨にふけることもない。コロンブスの新世界到着五百年の年が始まると、ぼくはそそくさとメキシコを出て日本に帰った。たとえばの話。

さて、今日、以前泊まったメキシコのホテルからのダイレクトメールを見て思いだした。もうすぐメキシコの独立記念日で、しかも今年は独立二百年祭なのだった。

メキシコの正式な独立年は1821年。でもこれを勝ち取るための戦争が始まったのは1810年。ドローレス村のイダルゴ神父が蜂起したときに始まる。その蜂起が9月16日のことで、だからメキシコの独立記念日はこの日とされる。パレードが開かれ、大統領が大統領府バルコニーから、目の前にある広場ソカロに集まった人に向かって、「メキシコ万歳!」等と叫ぶ。これが「グリート」Grito(叫びの意)と呼ばれる独立の日の儀式で、これはTV中継されるし、ソカロに集わない人々はTVの前で大統領とともに叫ぶ。

独立記念日だけでなく、独立の年も1810年と見なすのがメキシコの公式見解ということか、1910年には100年祭というのが開かれた。『ラテンアメリカ主義のレトリック』第1章「ルベン・ダリーオの災禍」は、この100年祭をめぐるエピソードから語り起こした。そんなぼくがそれからさらに100年後の今年、メキシコにいなくてもいいのかなあ、という気がしないでもない。でも記念日嫌いなぼくのこと、本当はそんなに行きたいわけでもない。

独立100年の際には、過去の総括として、たとえば、『100周年アンソロジー』Antología del centenario という本が何年か前から準備され、出版された。これに携わったペドロ・エンリケス=ウレーニャらを中心としたグループがメキシコの知の変革を迫った。ぼくが『ラテンアメリカ主義のレトリック』に書いたことはそんなことだった。そんな言わば潜在的な動きを知るには、数日滞在して行事に立ち会うだけでは足りない。逆に言えば、無理してそこにいなくても、努力次第で知ることはできる。

記念日嫌いなのはそういう理由だ。誕生日が8月だからではない。たぶん。

……でもなあ、それでも行きたいな。メキシコ。

今年の独立記念日は、ある大学の集中講義の日だ。みんなでやっちゃおうかな、グリート……

2010年9月10日金曜日

64/65年の断絶

あるところに短い原稿を書いて送った。それがどこかは、後ほど告知する。で、それに関係して、ある2本、ないし3本の映画を観た。原稿には2行ほどしか反映させられなかったけど、本当は200行、いや2000行でも書きたいくらい色々と考えるところがあった。そのことをさわりだけ。

観た映画は:
ロベルト・ガバルドン『黄金の鶏』El gallo de oro(1964)
と;
アルトゥーロ・リプステイン『死の時』Tiempo de morir(1965)

この2本は、連続した年、実に短い期間に連続して撮られていながら、間に大きな断絶を横たえている。

しかもこの2本、いずれもメキシコに移住して間もないガブリエル・ガルシア=マルケスが関係した作品だ。前者はフアン・ルルフォが書いた中編小説をガルシア=マルケスとカルロス・フエンテス、それに監督のガバルドンが脚色したもの。後者はガルシア=マルケス自身の原案を彼とフエンテスが脚色したもの。

『死の時』の方は以前、メキシコのフィルムライブラリーで観たことがあった。『黄金の鶏』は、実は、初見。この作品、後者の監督、リプステインによって、ほぼ20年後の1985年、新たな脚本でリメイクされている。タイトルは『財宝の帝国』El imperio de la fortuna。ただし、日本では『黄金の鶏』として(確かフェスティヴァルで)上映されている。これは見たことがあった。でも今回、改めて見直した。「ないし3本」とはそういう意味。

さて、『黄金の鶏』。これはランチェーラComedia rancheraと呼ばれる、いかにもメキシコ的なメキシコの国民映画、当時、凋落の一途を辿っていたそのジャンルの雰囲気たっぷりで、まあ確かに随所におもしろいところはあるし、名作の誉れ高いものではあるが、やはりどう見たって凋落の途にある映画。そして『死の時』の方は、今回改めて気づいたのだが、当時まだ22歳という若いリプステインの野心に充ちた、同時代のマカロニ・ウエスタンのテイストたっぷりの実にかっこいい作品だ。原作者のルルフォとガルシア=マルケスの違いではない。ウェスタン(というか、マカロニ・ウエスタン)など、概要だけ話してしまえば典型的なランチェーラと変わりない内容だ。ハリウッドのウエスタンをマカロニ・ウエスタンが刷新したように、『死の時』はマカロニ・ウエスタン的視点からランチェーラに新たな光を当てたのだ。製作体制や監督の作家性の違いに他ならないのだ。

ここに当時のメキシコ映画の潮流とか、先日書いたチュルブスコ・スタジオのこと(『黄金の鶏』はまさにチュルブスコで撮った)、65年という年がガルシア=マルケスが『百年の孤独』についての啓示を得て書き始めた年であることなどを書けば、容易に200行、いや2000行に達しそうだろう? ……ま、きっとそのためにはもう少し勉強が必要なのだろうけど。

ちゃんとこつこつと書きためて行こう。

2010年9月9日木曜日

一抹のさびしさ?

昨日紹介した田村さと子などを読んでいると、時々思うことがある。ぼくはこうして生きた作家と関わりを持ったことはないな、と。時々、外国ものの翻訳などで、「訳者あとがき」にわからない箇所を著者に質問した、などという記述がみられるが、そんなことも書いたためしがない。書けたためしがない。

ぼくがこれまでに翻訳を出した作家は、死んだ人ばかりだった。古い順に言うと、ホセ・マルティ:1895年に死んでいる。アレホ・カルペンティエール:1980年に死んだ。ぼくがカルペンティエールを読み始めたのは彼が死んで4年後のことだ。フィデル・カストロ:これは作家ではないし、生きているけど、何と言うか、そもそもアンタッチャブルだ。ロベルト・ボラーニョ:2003年に死んだ。先日書いた、訳したっきり本になっていない小説の作者はベニート・ペレス=ガルドス:1912年没。

ロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアというのは、Alejo Carpentier: The Pilgrim at Home という研究書を書いたイェール大学の先生で、その彼はこの本の第2版前書きにカルペンティエールとのつき合いを披瀝した後で、批評家は対象となる作家とはあまりべたべたし過ぎても行けない、ある程度距離を置かねば、というようなことを書いていた。

キューバ革命を逃げた家族の子供であるゴンサーレス=エチェバリーアと革命内に危うくも留まり続けたカルペンティエールの間には、ときおり、革命が介在して、うまく会えないことも多々あった、というような事情なのだが、それは措くとしても、まあそのとおりだろうなとは思う。ぼくはそもそも人見知りする人間だから、何かの仕事の都合で知遇を得ることがあったとしても、わざわざ出かけていって会おうとは思わないというのが本当のところでもある。だから本当はガボに会ったと言われても、それほどうらやましくはないのだ。基本的には。

作家ではないが、たとえばぼくは、愛してやまないシネアスト、ビクトル・エリセが『マルメロの陽光』のプロモーションで来日したとき(1993)に、1週間ほど通訳として張り付いた経験があり、そのときに名刺などもいただき、別れ際にはマドリードに来たらいつでも寄ってくれ、と言われたこともある。この1週間はぼくの人生の中で最も幸せな日々だったと言ってもいいのだけど、だからといって本当にマドリードに行った時に彼を頼っていったわけではないし、その気も起きなかった。そういう人間なのだな、ぼくは。何かの仕事の関わりで会えるならそれはそれでいい。でもその関係をがんばって保つ必要はない。関わりあいのあった時間が幸せであればいい。

おっと、そういえば今、ぼくは初めて生きた作家の小説を翻訳しているのだった。わからない箇所も少なからずある。著者に質問すべきかな? そのことを「あとがき」に書くべきかな。

それ以前に、そういえば、あるキューバの作家が日本にやって来て、その人と仕事をするのであった。10月20日(水)の話。「キューバ文化の日」という催しがセルバンテス文化センターである。その後ふたりの友情をあたため、はぐくみ、どちらかが死ぬまで持続させるべきかな? 作家というのは、あの『アディオス、ヘミングウェイ』の著者だ。

2010年9月8日水曜日

カルタヘナにガボを訪ねる

昨日買ったことを報告した『文學界』10月号、田村さと子「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」(pp. 196-205)は、今年の2月、ニカラグアの詩のフェスティヴァルに招かれて行き、エルネスト・カルデナルと話し、その後ついでにカルタヘナまで脚を伸ばし、ガルシア=マルケスに会い、田村さんが出すことになっている彼についての本の話などをした、という内容。それから帰りにメキシコ市に寄ってフアン・ヘルマンにも会った、と。カルタヘナが『愛その他の悪霊について』と『コレラの時代の愛』の舞台なので、ということで、前者についての思い出や論評を絡めながらカルタヘナの街を描写している。

これからわかることは以下の3つ。1) ガボは元気だ。2) 田村さんのガルシア=マルケス論は来年の3月(望むらくは作家の誕生日の3月6日)ころに出版される。3) 『愛その他の悪霊について』が映画化され、どうやらそれがカルタヘナ映画祭で上映されたらしい(田村さんが帰国の途についた後なので、彼女は観ていない)。2) については、今年の4月、『野生の探偵たち』のイヴェントでお会いしたときにうかがっていたが、いずれにしろ、慶賀すべきこと。

サンタエーリャの短編2つを含む、「来るべき世界の作家たち」は中島京子が去年、アイオワ大学の主催する国際創作プログラムIWPで知り合った若い作家たちを一挙に翻訳紹介したもの。

田村さと子の文章の次に載っていたのが、吉田修一の『悪人』を映画化した李相日監督のインタヴュー。この雑誌を読んでいるころ、これに出演した深津絵里がモントリオールの映画祭で最優秀女優賞を受賞したというニュースが舞い込んだ。

2010年9月7日火曜日

祝! 文庫化

これが文庫化だものな。感慨深いな。

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー——資本主義と分裂症 上』宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、宮林寛、守中高明訳(河出文庫、2010)

ぼくは世代の上からはしかたがないのだが、ドゥルーズ(+ガタリ)を浅田彰の明快で鋭敏な紹介に教えてもらった。この『千のプラトー』の序文となる「リゾーム」が、単独で出されたときのヴァージョンが雑誌『エピステーメー』の特別版として豊崎光一訳で出ていたので、それを古本屋で見つけて買い、「われわれは『アンチ・エディプス』を二人で書いた。二人それぞれが幾人かであったから、それだけでもう多勢になっていたわけだ」(『エピステーメー』版)という書き出しから、「なんだこれは! かっこいい!」と叫び、「速くあれ、たとえその場を動かぬときでも!」という終わり近くの文章には「動かない者が一番速いんだよ、そうだよ!」と叫び返して興奮したりした。「器官なき身体」(アルトー)とか「戦争機械」とかいった、この書に由来する概念を駆使する人(中沢新一とかだな)の文章などを読みながら二次的に情報を得、そのうち、ミニュイのフランス語版を買い、フランス語の練習にと辞書を片手に断片的に読んだりしたものだ。『カフカ——マイナー文学のために』の翻訳から「言語の脱領土化」の概念を教えてもらい、彼らの書いていることが、それを起点にわかったような気になったりした。その後、法政時代にかかわったある人事案件のために『差異と反復』なんてのの邦訳も必死で読んだ。そんなわけで、本当に理解しているとは思わないが、ドゥルーズまたはドゥルーズ+ガタリには苦労させられた記憶がある。既にいくつものドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリの著作を文庫化してきた河出が、今、この大作を文庫化したというわけだ。めでたい。

フランス語で読んだときの印象が強く残っている箇所のひとつが、「学校の女性教師は、文法や計算の規則を教えるとき、何か情報を与えるというわけではなく、また生徒に質問するときも、生徒から情報を手に入れるわけではない。彼女は「記号へと導き」ensigner、指図を与え、命令するのだ」(165ページ)という4章の最初の文。ensignerという語に頭を抱えた。enseignerでないのか! が、これはしばらくして、妙に感心することになった。

さて、今日、もうひとつ買ったのが、『文學界』10月号。田村さと子が「ガルシア=マルケスを訪ねて——ラテンアメリカ文学の旅」を寄稿している。かつベネズエラのフェドーシ・サンタエーリャ「ブルンダンガの絵葉書」、「猫たちの愉楽」が尾河直哉の手によって訳されている。中島京子監修「来るべき世界の作家たち」特集の一環として。

2010年9月6日月曜日

チュルブスコの思い出

チュルブスコと言えば、言いたいことはふたつ。

まずひとつめ:メキシコ市にはリオRíoと名のつく通りが少なからずある。ぼくがメキシコ在住時に住んでいた家はリオ・ミスコアックとインスルヘンテス通りが交わるあたりだった。リオとは川だ。6月くらいから12月くらいにかけての雨季には、ほぼ毎日午後になると雨が降る。水はけが悪いので、通りには水たまりができる。リオ・ミスコアックは文字通り川となった。

メキシコ市はかつてテスココ湖という湖上に浮かぶ水上都市テノチティトランで、植民地期を通じて灌漑工事が重ねられた。実に1900年までだ。この途中で、水も捌けられず、埋め立てもされないまま、運河のように使われていたから、これらの道路を川と呼ぶのじゃないのだろうか? というのが、ぼくがぼんやりと考えていること。(裏付けはとれていない)

ミスコアック川はイスルヘンテス通りと交差すると、その先(以東ということ)リオ・チュルブスコと名を変える。チュルブスコ川。

このチュルブスコ川、しばらく東に進むと、コヨアカン保養地などを抜け、やがて北にカーヴし、かつてF1メキシコグランプリが開催されていたロドリゲス兄弟サーキットのあるスポーツ施設の横を抜ける。つまりは、環状線になっている。環状内回り(?)Circuito Interiorだ。この環状線が北に大きく曲がるあたりの先には(今ではあまり機能していないのかもしれない)運河がある。チュルブスコ川は本当にかつて川だったのだろうと思わせる状況証拠だ。

ふたつめは映画のことだ:メキシコやその周辺国(合衆国も、ちもろん、含む)の映画をエンドロールまで粘って観ていると、撮影所や現像所、編集スタジオとしてチュルブスコ・スタジオEstudio Churubuscoまたはチュルブスコ・アステカスタジオ株式会社Estudios Churubusco Azteca S. A.の名を目にする確率が高い。インスルヘンテスを渡り終え、ミスコアック川がチュルブスコ川と名を変えてから、15分ばかりも歩けば、左手に国立フィルムライブラリー、そしてそれと同じくらいの時間歩き続ければ(もちろん、車で行ったっていいわけだが……)、カントリー・クラブの手前に、それに負けないくらいの広さ5.3ヘクタールを誇る撮影所が姿を現す。チュルブスコ・スタジオだ。現在では公教育省SEP文化庁Conaculta配下にある施設だ。ラテンアメリカの映画のメッカにして、「映画界」の代名詞となった地名だ。

このチュルブスコ・スタジオを巡る何か面白い話がないかな、と嗅ぎ回っているのが、最近のぼく。いや、もちろん、概略とか略年譜とかでなく。

こうしたところを巡るメキシコ人たちの記憶というか、心象風景というか、そういうのを1冊にまとめられたら、と考えている次第。

2010年9月5日日曜日

冬を待ちわびて

それを紺ブレというらしい。最近では。ATOKでもすぐに変換されるのだから、定着しているのだろう。紺ブレ。コンブレという音だけ聞くとプルーストみたいだが、そうではなく、紺のブレザーのことだ。

ブレザーBlazerというのだから、そもそも燃えるようなblazing色の上着、つまり、赤のジャケットのことだったのだろう。それがフランネル製、金または銀ボタン、パッチポケットのスポーツジャケットの意味に転化し(『リーダーズ英和辞典』では「色物フランネル製スポーツ上着」と定義されている)、赤でなくても良くなったのだろう。ゴルフやテニスのチャンピオンに贈られる様々な色の上着となった。

「様々な色」と言っても、現実に着るもの、日常のアイテムとなったら、やはり紺やキャメルが妥当だということになり、やがて紺のブレザーは定番中の定番の地位を獲得した。

それを最近では「紺ブレ」というらしいのだ。ぼくも、高校時代にJ.Pressの紺のブレザー(当時は「紺ブレ」なんて略しかた、しなかった)を買って以来、ブランドやシルエットは変わっても、大抵、紺のブレザーを持っていた。

大抵がくたびれたり時代遅れになったりしつつあるので、新たなブレザーが欲しいと思った。夢にまで見た。久しぶりにJ.Pressのブレザーにでもしようかと思った。これならかつてガールフレンドらからもらったラペルピンやカフスボタンが良く似合いそうだし(カフスボタンというのは、当然、シャツにつけるものだが、つまり、カフスボタンつきシャツに似合いそうだということ)、ともかく、紺のブレザーを買おうと思った。

今日、新宿伊勢丹で紺のブレザーを買い、その後、元教え子やまだ教え子、もう教え子(ってのはいたっけ?)などとの食事の席に出向いた。

「何スか、それは?」

ぼくのジャケット・ケースを見て教え子が訊ねる。

「紺ブレだ」

「紺ブレって何スか? 知らないっすよ? そんな言い方、しないっすよ」

そこでまあひとしきり「紺ブレ」に対する講釈を垂れ、ともかくはそれを買ったのだと、自慢していたのだった。

でもまあ、まだそれを着るには早すぎる。早く冬が来ないかな♪

これがもらったおまけのボールペンと切り取った袖のタグ。

2010年9月4日土曜日

翻訳の楽しみ=味わいgustosa traducción

料理がとても重要な役割を果たす小説を訳している。

まだトップ・ギアには入り切れておらず、思ったよりはかどらない。

昨日、あるところを訳しながら、あることを思いついた。そうだ! この料理を実際に作ってみればいいのだ。毎晩小説内の料理を作ることを目標に、1日の間に、次の料理の叙述があるところまで訳す。いい考えじゃないか。翻訳を楽しみ、料理を楽しむ。こんな贅沢な話はない。さっそく実行に移そう。

まず、舌平目のフィレ、シャンパン・ソース和え。

小ぶりの舌平目二匹を切り分け、パン粉をまぶして下ごしらえしてから、鍋にかける。シャンパンをボトル半分、マッシュルームを何個かに白種タマネギ、細切りのにんじん一本、ニンニク一かけ、コショウ少々、ナツメグ、エシャロット(小)、細かく刻んだ香草。

舌平目なんて久しぶりだな。近所のIY堂には売ってるだろうか? 捌いたことないけど、できるのかな? ナツメグなんてのも、そもそも売っているのか? 自分で料理に使ったことないぞ、などとワクワクしながら材料を書き出そうとした。が、舌平目だのナツメグだのの前に、そもそも躓いた。

「シャンパンをボトル半分」

リッツ・ホテルでの高級料理なのだった。シャンパンをボトル半分も使うなんて、できるはずないじゃないか! ぼくの一ヶ月ぶんの食費が飛んでしまう。

やれやれ。しかたがない。今日はくろ黒亭で豚シャブだ。えへへ。これはこれでうまい。

2010年9月3日金曜日

カンニング

これが戸塚スペイン語教室のサイトに載った先日の講演会についての記事。

今朝、ツイッターのぼくのホーム画面のTL(タイムリスト:ぼくがフォローしている人々のつぶやきが時間順に並んで出てくる。そこからぼくは場合によって有益な情報を得る)に松籟社がリンクを貼っていたのが、東浩紀がツイッター上でカンニングを告白した学生を摘発(?)したことに始まる一連のトピックを集めたサイト。トゥゲッターという、ツイッター上の同一話題を巡るツイートを一覧表示したものだ。

この話題が、夜にはYahooのトピックに記事としてあがっていた。

まあ、早稲田ほどのマンモス大学になれば、カンニングの違法性にもネットの公共性にも無頓着な愚か者のひとりやふたりはいる。この点に関して何も言いたいとは思わない。

ちなみにぼくは、大学教師としてはだいぶ甘い方だと思うのだが、カンニングにだけは厳しい。カンニングが発覚したら即刻退学にしてもいいとすら思っている。そこまでの厳しい罰則を敷く大学は、日本にはほとんどないと思うけど。少なくともぼくがこれまでかかわった大学にはなかったけれども。

自分の授業で試験をすることはほとんどなく、レポートなのだが、そうなるとカンニングに匹敵するものとして、コピー&ペーストに目を光らせることになる。なるべくそれが成り立たないような課題を出すようにはしているが、それでも疑わしいものがあれば、ネット検索をかけたり、関連書籍の一部をひもといたりして、採点に時間がかかってしょうがない。

外語に来てから、一度、あからさまなコピー&ペーストでごまかそうとした学生を落としたことがある。いや、一度ではないが、ともかく、そういうことがあって、後から発覚したのだが、その学生、あるネット上の授業評価のサイトに、ぼくの授業を、というかその授業の担当者たるぼくを「ゆるい」人だと評価していた。

担当者なりその授業や試験の形態なりが「ゆるい」と見なすや、タガを外す人物が確実にいるのだ。そんなものだ。その人の「ゆるい」との価値判断が正しいとは限らないのに。

ぼくら個々の人間がぼくらなりの独自性を主張するよすががどこかにあるとすれば、それは脳の働きをおいて他にはない。思考のうねりをおいて他にはない。(それですら、そのうねりを表現しようとするとき、ぼくらは紋切り型に囚われてしまいがちだというのに)その唯一のよすがをあっさりと捨て去るような行為は唾棄すべきだ。

2010年9月1日水曜日

お知らせ

今、けっこう長々とあることを書いたのだが、ある人物の個人情報にかかわるかと思い、削除した。

よかったら9月2日NHK《Bizスポ》を見てください、という話。それにこと寄せてちょっとした言語学的な疑問を展開した。が、ともかく、削除。

しかし、削除したということを明記するのはちょっと意地が悪いか? 

ちなみに、話題は変わるが、先日の講演会の模様。こんな感じだ。