2011年8月30日火曜日

頭痛に逆光

授業が終わってからというもの、扁桃炎をやり、歯を痛め、最近は脂漏性皮膚炎(「要するにあせもみたいなものですね」……と)とかで皮膚科に通い、まったく、体調が万全の日はあったためしはないな、と思っていたら、今日も思い立って出かけた後で、頭が痛くなってくる始末。

頭が痛いのは逆光に練馬区立美術館を写したりしたからか? 

「磯江毅=グスタボ・イソエ:マドリード・リアリズムの異才」。

「マドリード・リアリズム」というと、ビクトル・エリセの『マルメロの陽光』(92)のアントニオ・ロペス=ガルシアなどだ。エリセは「イペルレアリスモ(ハイパーリアリズム)」などと呼んでいた。ジャスパー・ジョーンズらのスーパーリアリズムの向こうを張るような、本当にハイパーに、スーパーにリアルな(リアルを超えるのでなく)タッチの画家たちのことだ。その一派に数えられる日本人画家磯江毅ことグスタボ・イソエ(1954-2007)の回顧展。新聞の広告には、皿の端に置かれた骨になった鰯の絵(『鰯』)が掲げられていた。これが代表作なのだろう。ザクロやマルメロ(ここでもだ!)、トウモロコシ、ブドウなどの静物画もリアルの極みだが、とりわけすばらしいのは裸婦像だ。

「深い眠り」(これがチケットの絵柄)、「ロシオ」、「新聞紙の上の裸婦」などの白黒による裸婦像は、とりわけ、その肌触りまで感じられそうですばらしい。

いくつかあるうちの晩年の自画像2枚くらいはエドワルド・ナランホのそれ(長崎県立美術館に所蔵の全裸の自画像のみならず)などを思わせて、この流派の人々の通底性が確かめられる。

未完に終わった「横たわる自画像」の肘の下あたりには、「肌の内側(静脈)は大袈裟なまでに暗く/腕はもっと暗く」のメモがスベイン語で書いてある。この書き込みはアントニオ・ロペスの製作途中の線のように生々しい。

「アントニオ・ロペスの線」というのは、『マルメロの陽光』での話。この映画のDVD、紀伊國屋書店の人はこれもクリティカル・エディションで復刻したいのだと言っていたが(『ビクトル・エリセDVD-BOX』のときの話)、まだならないな。いろいろと難しいのかな……

2011年8月29日月曜日

今日は焼き肉の日?

焼き肉の日、なのだそうだが、焼き肉など食べていない。歯医者、皮膚科医、学生の書類に署名捺印……そして映画に行ってきた。

アレハンドロ・ゴンサレス=イニャリトゥ『ビューティフル』(スペイン/メキシコ、2010)

離婚して子供アナとマテオを引き取っているウスバル(ハビエル・バルデム)が、前立腺ガンで肝臓にも転移があって2ヶ月くらいしか生きられないとの宣告を受けて、死ぬ準備をする物語。といっても、単純な「死ぬ準備」の物語ではない。むしろ、大切な人には言えないまま、否応なしに死んでいく物語。周囲もそれに合わせるように崩壊していく。

重要なのは、ウスバルがセネガルや中国からの移民のインフォーマル経済の元締めみたいな仕事をしているということと、彼が死体のメッセージを聞き取ることのできる特殊能力を有していること。前者の要素が物語を一気にカタストロフへと導き、後者の要素がストーリーに短編小説のような謎を付与し、いくつかのセリフの対応が生きてくる。

ゴンサレス=イニャリトゥは、ギジェルモ・アリアガと組んで、3つの相異なるストーリーがやがて絡み合っていく話を作ってきた人物。アリアガと決別して彼が選んだストーリーの作法が、ひとつのプロットにこうした三重の意味合いを持たせて深みを出すことだったというわけだろう。

彼がかかわっている移民のうち、セネガルからの住民たちは、禁止区域で商売するばかりか、薬物まで扱っているらしい。ウスバル自身も薬物使用経験があることがほのめかされているし、別れた妻マランブラ(マリセル・アルバレス)は双極性人格障害(つまり、躁鬱病)で入院経験があり、ときおりDVにも及ぶ。問題ありな人ばかりだ。ウスバルは警察に賄賂を渡してセネガル人たちを大目に見るようにと頼んでいるのだが、ついには検挙、集団強制退去にいたり、ボス格の人物の妻イベ(ディアリアトゥ・ダフ)を引き取ることになる。一方、中国人たちは建設現場に無理矢理送り込んで働かせるのだけど、気遣いからプレゼントしたストーブによって集団一酸化炭素中毒、25人もが死んでしまう……もうカタストロフに向けて一直線だ。つらい。

前立腺のガンだから何度かウスバルは何度か失禁するのだが、しまいには大人用紙おむつまでして、いたたまれない。ゴンサレス=イニャリトゥの映画は、いつもながら、つらいなあ。

ところで、映画とは関係ないのだが、ちょっと気になったこと:冒頭近く、雪山でハビエル・バルデムが若者と言葉を交わすシーンがある。後に繰り返されて、その意味がわかるこのシーン、ふくろうの死体を見つめるバルデムに、若者がタバコを吸いながら話しかけてくる。ひとしきり言葉を交わした後、ふたりは打ち解ける。打ち解けたしるしに、握手なんかしたらいやだな、と思っていたら、そんなことはせず、若者がバルデムにタバコを勧めた。バルデムは受け取って火をつける。うん。これでいいんだ、と思った。思ったはいいが、ところで、ますますタバコを吸うシーンに厳しくなる昨今だ。これから先はこのつくりは難しくなるだろう。では、代わりにどんな行動があり得るのだろうか? ふたりの初対面らしい人物が打ち解け、握手でなしに、その打ち解けたことを示す動作……?

ま、なんでもあるか。ぼくが考えることではない。ストーリーテラーたちに考えてもらえばいいことだ。

2011年8月25日木曜日

肉にめまいを覚える(性的に?)

デヴィッド・マッドセン『カニバリストの告白』池田真紀子訳(角川書店、2008)

は、2年ほど前、出版された直後に読みかけで少し紹介したことがあったが、実は、そのまま放っておいた。たぶん、次に出る翻訳に競合する作品だろうとの思いから、続きを読んでみた。

天才料理人オーランド—・クリスプは人を殺し、あまつさえそれを料理して食べた罪で投獄されている。その彼の回想録に、ときおり彼を鑑定した精神科医の書類や手紙などが挿入されながら綴られる、その逮捕までの経緯(本当はそれ以後もある)。

生まれてすぐに母親の乳首を噛みちぎろうとした、生来の食人者であるこの人物、早くから人肉および肉全般に魅了され、料理人になることを決意する。乳首を噛みちぎろうとしただけでなく、美しい母を愛し、崇拝し、その反面、みじめな父親を憎んで育つのだが、母が急逝したために、耐えられなくなって家出、エグバート・スウェインのもとで修行を開始する。

オーランド—というのはとても魅力的な人物らしく、師匠のエグバートに言い寄られ、いやいやながら関係を持ち、それをテコに昇進し、顧客の老未亡人にも言い寄られ、やはり不承不承関係を持ち、財産をせしめて念願の店を持つ。店には前のオーナーの置き土産のような男女の双子、ジャックとジャンヌがいて、このふたりが実にいい働き(実利的に、という意味でもあり、裏で上客に体を売って剰余価値を産み出しているという意味でも)する。

順風満帆だったオーランド—も、なぜか料理評論家のアルトゥーロ・トログヴィルには悪し様に書かれ、いさかいを起こすのだが、あるとき、再婚するからと金をせびりに来た父親を、オーランドーは衝動的に殺してしまい、ばれないようにとその婚約者も殺し、そのふたりを使った料理をトログヴィルおよびその他のクライアントたちに食べさせたところ、とんでもない効果が現れて、……。

食人を巡る話なので、猟奇的なのかと思えば、それほどでもない。何しろ、食人鬼自らがその経緯を語り、その語る過去というのが典型的なエディプス・コンプレックスを思わせる母への愛と父への憎しみだったりするものだからわかりやすい。エグバートもトログヴィルもでっぷりと肥ったホモセクシュアル(後半にはネオナチのホモで、加えてSM趣味なんて人物も登場する)、ジャックとジャンヌは瓜二つで神秘的な雰囲気を漂わせ、と、登場人物の(今風に言うなら)「キャラが立っている」ものだから、おかしくさえある。加えてどんでん返しを含む大団円で話がまとまるのだから、実に楽しい一編のエンターテイメントといった感じだ。

もちろん、料理と食人をめぐる話なので、各章に料理のレシピを掲載しており、それもまた楽しい。しかしこのレシピ、やはりこうした小説である以上、普通ではありえない。そのうち現れるレシピは人肉を使ったものになっていくし、「ノワゼット 燃え盛る情熱のクリーム添え」という料理では、「肉の入ったフリーザーバッグを世紀にかぶせ、ジッパーを締め直す。バッグはかなり大きめのものにしておくこと。ペニスは勃起させる(ただし射精はしない)必要があるからだ。勃起しないままだと、気の抜けたような仕上がりになってしまうので要注意」(231ページ)などという指摘まである。

猟奇的というよりば、ゲラゲラ笑える。少なくともぼくは笑いながら読んだ。

2011年8月23日火曜日

街に出たら映画を観よう

エミリオ・アラゴン『ペーパーバード:幸せは翼に乗って』(スペイン、2010)

スペイン内戦末期をプロローグに置き、その終結直後を主な時代設定とする。ホルヘ(イマノル・アリアス)とエンリケ(ルイス・オマール)のコンビが主な活動の場とするバラエティ劇団に、両親を亡くしたらしい子供ミゲル(ロヘル・プリンセプ)が引き取られることになる。ホルヘはフランコ側の空爆によって妻子を亡くしているので、子供にはつらくあたる。このふたりの交流が大きな軸のひとつ。ホルヘは共和派の戦士でこそなかったけれども、どこかの党派の工作員ではあったもようで、書類の偽造なども手慣れたもの。劇団には他にも同志がいて、総じて共和派シンパか、そうでなくてもフランコには批判的な者ばかり。これはこの時代を扱う以上、なくてはならない要素。軍はこうした不穏分子を監視するために、パストールというスパイを大道具係として送り込む。

ときおり、軍の監視を受け、ひやひやさせられる試練をくぐりながら、劇団は地方公演に出る。そしてある日、フランコの前で彼らの公演を行うことになる。ホルヘよりも戦闘的な同志、大道具のペドロ(ハビ・コール)は色めき立つ……

ストーリーはここから二度ほどのどんでん返しがある。中身は言うまいが、とうぜん、ハッピーエンドではない。それを補うかのようにエピローグがある。負けてしまった側の者を描くときに、こうしたある種の来世志向のようなヴィジョンが産み出されるのはしかたのないことだと思う。あまり好きではないが悪くはない。作り方もうまい。最初のころにホルヘが子供を亡くしてしまうのだけど、瓦礫に埋まった腕だけを映して死体を描かないところなど、安心して物語に入り込むことができた。化粧していかなくて本当に良かったと思う。あやうくパンダになるところだった。

老婆心。これからクライマックスに向かうことを予感させる不穏な出来事が劇場で起こる。劇団の若い団員を気に入ったらしい軍人が、任務でもないのに興業を観に来たので、ホルヘが「フランコとは暮らせない」という歌を歌う。この歌、たとえば「パインを買いたいのにザクロも買えない」「1フランでは生きていけない」というダブルミーニングの単語を使っていて、なかなか難しい。ザクロgranadaは手榴弾のことでもあり、ホルヘはこれを投げる格好をしながらこの部分を歌う。そしてフランスの通貨であるフランはfranco、つまり総統と同じ名のだ。この部分は2番では「フランコとは暮らせない」と訳されていて、それが歌のタイトルにもなっているのだけれど、

他にも気になったところがあったような気もするが、はっきりとは覚えていない。ともかく、ゴヤ賞の楽曲賞を受賞したこの印象的な歌は、そういう多義性をうまく利用した抵抗の歌としての機能を果たす。解説は蛇足ではないと思う。

授業のない日は街に出よう

10月に出す翻訳の初校ゲラは先週末に出した(と思ったらもう今日には再校が届くという!)。昨日が締め切りだった採点は、どうにか終えた。晴れて夏休みと言っていい期間に突入したわけだ。夏休みと言っても、毎日読んだり書いたり翻訳したりしているわけだが。少なくとも授業と大学の業務のない期間に享受できることは、街に出ることだ。

そんなわけで、行ってきた。エドムンド・デスノエス『低開発の記憶』出版記念映画上映+トークショウ@アップリンク・ファクトリー。

翻訳者であり映画の字幕製作者である野谷文昭さんと、映画の配給会社代表の比嘉世津子さんのトーク。

野谷さんによる、翻訳にいたる経緯の説明から始まって、ふたりでの映画と小説の違いの検討へと話が移っていった。いまだにこの作品が映画学校などではドキュメンタリー・フィルムとフィクションの融合の例として、教材に使われるという比嘉さんの指摘、主人公が引用するネルーダの詩が小説と映画では異なるという野谷さんの指摘などは教えられるところがあった。最後にふたりが一致して言っていたことは、10月危機の恐怖を主人公が感じているのに誰にも伝わらないという恐怖、これが(小説でも映画でも)いちばんの主張ではないかということ。

2011年8月20日土曜日

あえて核から一歩引いて考える

昨年、坂手洋二さんと仕事をする機会があったというのに、彼、および燐光群の代表作「だるまさんがころんだ」は観たことがなかった。このたび、江東区文化センターで3日限りの上演があるというので、行ってきた。ふだん燐光群がよく使う下北沢のザ・スズナリの小さな空間でもともと上演されたこの作品を300人くらいはキャパがあろうかというホールでの最初の公演とのこと。

海外派兵で地雷処理を拝命した自衛官、対抗する組との抗争に備えて地雷で自営しようとする暴力団、日本で唯一地雷を作る会社のとある会社員の家庭、片足が義足で、地雷処理の仕事をしようとしている女子大生と先の暴力団のちんぴら、国際紛争で住む村が地雷原になってしまい、難民となる前に地雷をしかけることにした、南洋のどこかの国の集落の者たち、などを中心に、90年代から2001(つまり、9・11)前後の紛争の時代を描いた傑作だ。

坂手が燐光群を立ち上げる直前ぐらいに小劇場を席巻していた劇団のレパートリーは、当時のサブカルチャーに歩調を合わせるように、黙示録的ヴィジョンに満ちていたように思う。核の存在を前提とした想像力に縛られ、核戦争後の終末の世界を描く、『マッド・マックス』的、永井豪的(『バイオレンス・ジャック』)物語だ。川村毅(第3エロチカ)の『新宿八犬伝』などだ。核という切り札に目が眩まされがちだけれども、ほとんど使われない核などよりも、90年代、よほど問題になったのが地雷やクラスター爆弾だった。前の世代の想像力に見切りをつけるように、現実の問題としての地雷を題材に、地雷についての蘊蓄をふんだんに盛り込みながら、地雷が存在することにより可能な思考を盛りだくさんに盛り込んで、これは新時代を画したというにふさわしい。フクシマによってまた核に考えが行ってしまいがちな現在だけれども、地雷を巡るこの考察はないがしろにしてはいけない。

義足が義手義足になり、やがてサイボーグ化していく女を演じる小山萌子がいい。

2011年8月19日金曜日

夢見るは1日1冊

10月に出る翻訳の校正に追われていた。校正が終わってもまだ採点が終わらないので、これにも追われている。どうしても1日のうち2、3時間は活字が頭に入らない時間帯があるので、根を詰めて、というほどではないにしても、だいたい机につきっぱなしだ。勘違いされがちだけど、ぼくらにはお盆休みやら夏休みやらといったものは無縁だ。

校正は一度、原文とつき合わせて細かく見た後に、ざっと一渡り原文なしで、語調とか細かい統一などをチェックするつもりで読み返したが、その二度目の読みに2日かけてしまった。200ページばかりのあまり長くない小説のゲラなのに。つまり、1日につき100ページくらいしか読めなかったということだ。

もちろん、原文から離れてとは言っても、実際には、その2回目の読みの最中も、何度も原文を見返していた。それでも、ずいぶんと少ないものだな、と悲しくなる。そういえば、学生のレポートだって、せいぜい2、3枚だ。それが100通あったとしても300ページだ。それに何日もかけているのだものな……

学生のころ、1日1冊、必ず本を読むのだと決心したことがあった。何が何でも、1冊、読む。厚さや難易度に無関係に1冊だ。読めなかったら、その場合は、読んだことと見なして、もう二度とその本は読めないものとする。そう思うと何が何でも読まなきゃと思うだろうから、そういうことにする、と決めた。例によって三日坊主になると困るので、あまり厳しすぎないように、たとえば読まない日があってもいい、とか、あまりにも面白いので絶対に読み終えたいけれども、1日で読めないものは2日かけることを許す、といった例外措置は設けながらではあったけれども。

そうしてみてわかったことは、意外にそのくらいはできるものだということ。場合によっては2冊だって可能だということ。そして、むしろそのくらいのスピードで読んだ方が頭に入ってくるものがあるということ(ということは、逆に、ゆっくり読んだ方が頭に入るものもあるということだが)。

さて、それで、校正の読みというのが、どうにも曖昧だからいけない。時間をかけなければならないことは間違いない。だから、まあ1日100ページしか読めなかったとしてもしかたがない。いや、1日10ページでもいいかもしれない。でも、速く読んだ方が誤植など見つかったりする(校正の主な目的のひとつは、これだ)ことがあるから困るのだ。あんなに何度も声に出して繰り返し読んでみても見つからなかった誤植やら「てにをは」の脱落やらが、ページに目をやっただけで次を捲ろうとした瞬間に見つかったりする。だから二度読むのだが、その二度目の読みで日に100ページしか読めないとなると、ずいぶんとゆっくりだなと落胆してしまうのだ。

もちろん、その間には採点対象の学生のレポートとか、他の本とか新聞、「あとがき」を書くための資料なども読んでいたのではあるが。

若いころ1日1冊、などと勢い込んだのは、おそらく、若さなりの焦りとか、スピードへの強迫観念とか、そういったものだろうと思う。今となっては本当に忙しくなって時間がなくなったし、人生の残りの時間なんてものもあまりないな、と思うからでもある。

ところで、……だから、1日1冊の原則。実は今でも堅持している。問題は、例外措置と見なすものが多いということだ。今日の1冊は……

2011年8月13日土曜日

夢見るは映画


いささか旧聞に属するけれども、ちょっと前に『ふたりのヌーヴェルヴァーグ』を観た帰りに、電車の中でつらつらと考えたこと。「ラテンアメリカ文学のブーム」を題材にしたドキュメンタリー映画が撮影されることはないのだろうか? ということ。「マリオとガボ、そしてカルロス、それぞれのブーム」

ホセ・ドノソとか、ブリニオ・アプレーヨ・メンドーサなんかの書いたものをベースに、ミゲル・リティンあたりが監督して、字幕監修は野谷文昭。「サバトの本の帯に『サバト、ボルヘスのライヴァル』なんて書かれることはあるのだけど、不思議なもので、私の本の帯に『ボルヘス、サバトのライヴァル』って書かれることはないんですよ」などと茶目っ気たっぷりに話すボルヘスとか、「ハイブリッドだから文化ってのは優れたものになるんだ」などとまじめくさった顔で語るカルペンティエールなど、前の世代の記録もふんだんに取り入れて、「わたしが近くのハンバーガー屋で肉をもらって、ガボの傷に当てたんですよ」とバルガス=リョサによるガルシア=マルケス殴打事件を回想するポニヤトフスカの映像で締めくくる。

どうかな? 

こんなことを書くのは、思いのほかゲラを見るのや採点するのに苦労しているからだ。当初の見積もり以上に時間がかかっている。これからもかかりそう。やれやれ。

仕事の合間に、谷崎潤一郎『少将滋幹の母』(新潮文庫、1953)なんてのに目をくれたりしている。

 月の光と云うものは雪が積ったと同じに、いろいろのものを燐のような色で一様に塗り潰してしまうので、滋幹も最初の一刹那は、そこの地上に横わっている妙な形をしたものの正体が掴めなかったのであるが、瞳を凝らしているうちに、それが若い女の屍骸の腐りただれたものであることが頷けて来た。(116ページ)

という、あの不浄観を扱った小説だ。これは別に映画では観たくないな。

2011年8月12日金曜日

レンズは21mm単焦点

大学の広報誌に西ヶ原キャンパスのことを書けと言われ、例によって安請け合いした。基本的にアウトソーシングでやっているので、担当している会社の方に、資料として現在の跡地の写真や、かつてのキャンパス写真、かつての広報誌だかイヤーブック(なんてシステムは日本にはないように思うが)だかに載った写真の数々などを送っていただいた。

写真は、ちょうどぼくが在学していた時期のものらしく、知った顔がやたらとたくさん見られた。

昼食はカルボナーラだったのだが、作りながら、ふと思い出した。そういえばこれ、大学近くのサニーというお店でよく食べていたメニューであった、と。サニーはカレーとスパゲティがおいしいお店で、でもチキン・ピカタなんかもあって、夫婦ふたりでやっていたのだが、大学の移転が決まったころに店を畳んで、もう卒業後、ぼくの同期の者が言うには、オヤジさんが司法試験を受けると頑張っている、なんて都市伝説までできて、……

そんなことを考えていたら、パスタを茹で終わるころには、いろいろな文章の可能性というか道筋というか、そういったものが見えてきて、でもこの方向性で行くなら、資料だけからでは把握できないある種の事物のあり方を確認しないではいられない、という気になって、思い立ったら吉日で、行ってきた。

西ヶ原みんなの公園。東京外国語大学跡地。本部棟のあたりからグラウンドにかけてが公園になっているのだ。四号館つまり研究室棟のあたりが特別養護老人ホーム(これを言うことに何の他意もない)。その他の場所、教室棟や講堂などのあったところが集合住宅になっている。

ぼくが今日、何を確かめたかったかは、まあ文章を書く上での、いわば企業秘密だ。うまくいくかどうかはわからない。収穫もあり、期待したほどのものが得られなかったところもあり、いろいろだ。

2011年8月9日火曜日

感慨にふける


昨日、ある本を求めて神保町に行った。古本屋をいくつか回ったついでに三省堂やら書泉グランデ、東京堂書店に行ってみるのは欠かせない儀式だ。とりわけ東京堂書店は配列の妙で知られた書店。ここで人は世の流れを知ることになる。

入って右手の階段を2階に上がると、そこは外国文学などを置いてあるフロアだ。その階段の上がり端、企画陳列の棚の、一番最初にあったのが戦争と世界文学のコーナー。戦争を扱った小説の数々の、ちょうど160-170cmくらいの標準身長の人の目の高さに、これがこんなふうに置いてあったりしたら、ちょうど10年前に初の単独訳としてこれを出版した訳者としては、涙もでるというもの。

アレホ・カルペンティエール『春の祭典』(国書刊行会、2001)

思わず携帯電話で写真を撮ってしまった。

2011年8月8日月曜日

刺激とやる気……口中にも……

8月5日に書いた、前日のジュノ・ディアスのシンポジウムでの発言に関する記事、あの最後の段落は、実は、いったんブログに記事をアップした後に思い出して書き加えたもの。そのことの後悔があるせいか、ほぼ同じ内容をツイッターにも書いた。

ツイッターは自分を宛先にしたツイートや、自分の書いたツイートをリツイートした人の情報などを確認することができる。どうもジュノ・ディアスのこの言葉を紹介したツイートに対する反応が多いと思ったら、今見たら、100人を超える人がこれをリツイート(再生産だ。引用だ)しているらしい。作家になりたい人が多いのか、それとも仲間を希求している者が多いのか? 

今朝、ぼく宛てにこんなツイートがあった。「日本の作家の先生方だとそんな弱い意志なら辞めちまえと言いそうだ・・・。」何についてのコメントかを明示していない。引用もしていないので定かではないが、おそらく、このディアスのことばについてのコメントだろうと思われる。そうだとして、この人の意図はわからない。「日本の作家の先生方」の名を借りてディアスを(あるいはそれを紹介したぼくを)批判しているのか、それとも、単に「日本の作家の先生方」に恐れのようなものを抱いているのか(実際に言われたわけでもなかろうに)、あるいはその恐れのようなものに仮託してディアスに賛意を表しているのか? 

どちらの立場であったとしても、事実として誰かが言ったわけでもない「日本の作家の先生方」の言葉を基に、このツイートを書かれた方に論争を吹きかけるつもりはない。単なる感想だ。誰を仮定しているのか知らないが、「日本の作家の先生方」の中に、「作家志望だけど挫けそう」な青年に対して「そんな弱い意志ならやめちまえ」(「辞めちまえ」は妥当な漢字でないと思うので)と言う人がいるだろうか? いるとしたら、ぼくはそんな「作家の先生」の書いたものは読みたくないな。

つまり、人がなんらかの職業に就きたいとの意志を抱いたとして、それを堅固に維持することは本当に可能だろうか? ということ。可能だと信じている人などがいるのだろうか? ということ。そんなはずはないじゃないか、ということ。

ぼくはことさら、「意志」というものを抱いたことがない。意志決定とは選択だが、選択は常に本能的に、瞬時の判断で行ってきたと思う。そんな生き方だから、ぼくの中にあるのは将来に対する不安と、過去に対する後悔だけのような気がする。だいたい、ぼくは大学教師とかスペイン語文学の研究者になりたかったというよりは、カルペンティエールの作品を愛していたのであって、それがさまざまな刺激と選択の結果、今の仕事をしているのだ。「○○になりたい」という意志など不要だったし、それで良かったと思っている。

でも刺激とやる気、それにそれを与えてくれる仲間は必要としている。切実に求めている。授業が終わると講演会やら何やらに出かけてばかりいたのは刺激を求めてのことにほかならない。

土曜日にはプラセンシア『紙の民』を読み終えた勢いを駆ってそれについての柴田元幸×藤井光トークショーを聴きに新宿のジュンク堂まで行ってきた。白水社の本のイベントだったので、馴染みの編集者に誘われて、打ち上げの席にも就いた。トークショーの最中から藤井さんが最近のアメリカ文学の事情に通じること驚嘆すべきものがあると言っていた柴田さんが、その打ち上げの席で「藤井君はどんなところから情報を得ている?」なんて質問しているのを聞くと、アメリカ文学者ではないぼくだってやる気が新たにされるというものなのだ。

ま、ぼくはその横で別のさる翻訳家と、これまでに飲んだ究極の黒糖焼酎の話などをしていたのではあるが……

で、銘柄を忘れていたその焼酎を探し出し、これではないかと思われるものがあったので、注文してみた。そしてそれが届いた。「南の島の貴婦人」@朝日酒蔵。味見してみた。午前中から。ぼくの記憶とは少し違うので、あるいは本当はぼくが求めていたものは、同じ酒蔵が作った別のものかもしれないのだが、これはこれで美味。教えて差し上げなきゃ。

こういったことも、刺激とやる気のもと……なのか?

2011年8月6日土曜日

土星との戦いを拡大せよ

サルバドール・プラセンシア『紙の民』藤井光訳(白水社、2011)

いつまで経っても寝小便をしてばかりのフェデリコ・デ・ラ・フェが妻メルセドに逃げられた後、娘のリトル・メルセドを伴ってアメリカ合衆国に移住、エルモンテという移住先の町で作ったエルモンテ・フローレス(EMF)というギャング団とともに、彼らを支配する存在である土星との戦いに挑む、という話。こう書けば何やら宇宙船でも出てきそうな雰囲気だが、そうではなくて、土星というのが実はサルバドール・プラセンシアという名であることが途中で明かされる。戦争というのはこの土星の作り出す世界での支配権を巡るもので、つまりは作者と登場人物の覇権争いということになってくる。

親子は移住の前にエル・サントとタイガーマスクのルチャ・リブレ(プロレスだ)の試合を見、移住の途中、紙でできたその名もメルセド・デ・パペルや、予言者たる子供ベビー・ノストラダムスに出会い、彼らの物語も発動しだす。それがつまり小説の世界が立ち上がるということだけれども、この世界を作っているのは物語内容だけではない。3つのストーリーを同時進行で語る段組形式などのレイアウトもまた世界の成り立ちに寄与している。

となるとこれは二重の基軸によるメタフィクションのようなものと言うことも可能かもしれない。ポストモダン小説だ。かつて高橋源一郎が書いたとしてもおかしくないような話だ。

でも、これをポストモダン小説などと断じるよりも前に、ぼくの立場からは明言しておきたい。この小説が発しているのは、強烈なメキシコの、そしてUSA西海岸チカーノ社会のむせかえるような臭気だということ。この臭いと意匠との配合具合が絶妙だ。ジュノ・ディアスの『オスカー・ワオ』が、本人がニュージャージーのリアリティを強調していたように、そのスペイン語の頻繁な使用やドミニカ共和国との繋がりにもかかわらず、その種のラティーノ社会的臭気がそれほど気にならなかったことに比べて対照的だ。

訳者の藤井光はプラセンシアがガルシア=マルケス『百年の孤独』を三年間読み続けたというエピソードを真っ先に紹介しているが、この小説がガルシア=マルケス的であるととりわけ意識されるのは、中ほどの16章でなされる明言:「ベビー・ノストラダムスは『紙の民』の結末を知っていた。簡素な十七文字の、「悲しみに続編など存在しないのである」という文で締めくくられるのである」。

しかし、たとえば、読者は写真のようなページ構成の遊びに耐えられるのだろうか? こうして文章の一部が塗りつぶされたり、途中から掠れていったりと、いろいろな仕掛けがしてある。

――耐えられるにきまっているじゃないか。先日、ジュノ・ディアスが言っていた。読者はわからないことがあっても読書を楽しめるのだ、と。作者と登場人物の戦いのみが土星戦争ではない。読者と小説の戦いも、この小説の土星戦争の一部なのだ。

ところで、土星の恋人の名がカメルーン。彼女の愛称がカミ。これが「紙」や「神」と同音異義語になるのは日本語だけだろうか? 翻訳もまた土星との戦いに挑んでいるのだった。土星の名はサルバドール。愛称、サル。土星とは猿の惑星だった……? 

2011年8月5日金曜日

ジャンクを見直す

カップヌードルごはんは本当にカップヌードルみたいな味がした。カップヌードル味と謳っているのだから当然か。

で、2日連続でジュノ・ディアスの話を聴きに行った。昨日のことだ。昨日はシンポジウム「オタク・災害・クレオール」と題されているし、前日のふたりに加えて小野正嗣が加わっているし、何しろ前日にカリブは他のラテンアメリカの国々と違うという明言を引き出したこともあるので、クレオールの話を展開してくれることを期待したのだが、残念ながら時間切れでその話はできなかった。

オタク……というか日本文化受容の話から始まり、日本のアニメなどが黙示録的ヴィジョンを湛えているという観測をディアスが語ったので、そこから「災害」のテーマとの関係に話が移るのかと思いきや、ここで小野正嗣が、いかにもフランス的知性の発揮とばかりに高度産業資本社会の特性たる均質性のことなどを持ち出し、ディアスはそんな小難しい話などしてなるものかとかわしつつ、過去20年間にアメリカ合衆国の初等教育では日本化が進んでいること、そこに日本文化受け入れの素地があることなどを話した。加えてジャンク・カルチャーが語る真実のことなどを話すものだから、直前にジャンク・フードを食べてきたぼくとしては、そうそう、クズの中に真実があるのだよ、と共感。

ディアスの意識には「オタク」と「災害」を結びつけなければという意識があるのだろう。日本とUSAの類似点として原爆について語りたがらないというメンタリティを指摘、その理由となるオブセッションを語るのがジャンク・カルチャーなのだとの見解を開示して示唆に満ちていた。

連日、TVではニューヨークの地図に黒丸が描かれ、ソ連の核攻撃を受ければこれだけの広い地域がダメージを受けると喧伝されているところに、ある日、1981年、『宇宙戦艦ヤマト』の放送が始まったのだ。そのとき子供たちが感じたリアリティというものを想像してみろ、なんて言葉などは、ディアスよりも5歳年上のぼくとしても、大いに実感できるところ。


もうひとつ重要なこと:作家になりたいが生きるためのバイトなどに挫けずにモチベーションを維持するにはどうすればいいか? の質問に対してディアスが出した答は、志を同じくする仲間と週一度は会って話をすること、というものだった。これは特に作家志望でなくとも言えることだと思う。大学院生などには、週一度はいろいろな話のできる仲間を持つことをぼくも勧めたいな。

2011年8月4日木曜日

ごはん!

カップヌードルごはん カップヌードル味

女優の伊勢佳世さんがご自身のブログに紹介していたのを見て、うむ、いつか買ってみようと思っていたアイテム。

これの何よりも衝撃的なところは、お湯で調理するのではないということ。

衝撃的でしょ? カップヌードルからお湯を抜いたら何が残るのだ? いったい何で調理すればいいというのだ? 

電子レンジです。もちろん。

味は……これから食べる。

2011年8月3日水曜日

元気な人々

で、まあ行ってきた。ジュノ・ディアスの講演会@abc本店。

開演前にトイレから出てきたら今夜の聞き手、都甲幸治さんと擦れ違った。こんにちはと言ったら、こんにちは、頑張ります! と元気な挨拶。

その都甲さんに負けず劣らず元気なジュノ・ディアス(出回っている写真よりシュッとした感じ)。ニュージャージーの現実を描きたかったんだとか、いろいろなディテールを入れようとして努力した、という話を楽しそうにしていた。柳下毅一郎さんや豊崎由美さんが来ていた。豊崎さんは質問したし、柳下さんはご自分のツイッター(http://twitter.com/#!/kiichiro)でいろいろと実況しておられる。それと重複しない範囲でぼくの印象に残ったのは、

『オスカー・ワオ』までの11年間、ディアスが毎日朝6時から12時まで机に座って書いていたということ。2.400ページばかりも書いたが、それが300ページに落ち着いたのだということ。既に『ハイウエイとゴミ溜め』の優れた短編集を書いた人物にして、これだけの努力があったればこそのあの小説なのだな、と感心。

また、カリブ人は他のラテンアメリカの国々の人に比して、1つの言語に対するアイデンティティはない、との明言。カリブは別ものだとこの意識が明示的に聞けたことは収穫。小野正嗣を迎えての明日のセッションが楽しみだ。

2011年8月2日火曜日

泣きたくなる午後

まあぼくはゴダールやトリュフォー、ロメール、シャブロルらの映画など半分も観ているかもあやしい、中途半端なシネフィルではあるけれども、なんといってもジャン=ポール・ベルモンドになりたいというのがぼくが自覚した最初の映画的自意識であったし、『突然炎のごとく』のジュールとジムみたいに男二人女ひとりのトリオでよく行動した日々もあったことだし、ついつい、こういう映画は観てしまうんだよな。

エマニュエル・ローラン『ふたりのヌーヴェルヴァーグ:ゴダールとトリュフォー』(フランス、2010)。

脚本をトリュフォーやゴダールの評伝を書いた批評家アントワーヌ・ド・ベックがつとめ(日本語字幕監修にはトリュフォー論の第一人者山田宏一が当たっている)、女優イジルド・ル・ベスコが資料をめくりながら二人のヌーヴェルヴァーグのシネアストの足跡を辿るという形式で、実際のフィルムや記録映像の断片をふんだんに挟んで作った映画だ。

映画の極めてはっきりした主張は以下のとおり。1)ヌーヴェルヴァーグとは『カイエ・デュ・シネマ』の急進派批評家たちが実作に乗り出して作ったブームであること。2)その中心はとりもなおさずトリュフォーとゴダールであること。3)その意味でヌーヴェルヴァーグの出発点は『大人はわかってくれない』がカンヌで上映され、『勝手にしやがれ』が撮影された1959年であること。4)トリュフォーとゴダールは対照的ではあるがとても仲がよかったこと。5)1968年のシネマテーク館長ラングロワ解雇問題こそがパリ5月革命への流れを作ったこと。6)その流れの中でトリュフォーとゴダールの方向性の違いが顕在化し、二人は仲違いするにいたること。6)『大人はわかってくれない』の主役ジャン=ピエール・レオーを取り合うふたりの父親としてトリュフォーとゴダールがいたこと。

最後の6)の要素が入ることによって(事実は確かにそのとおりなのだろうが)、映画の描くストーリーが一気にホモソーシャルな青春映画の様相を呈してくる。こんなストーリーだから、ぼくはそれに反発を覚えつつも泣きたくなってくる。エンドクレジットで山田宏一が喜んだレオーのオーディション映像が流れたことによって、かろうじて救われた。高校時代の両巨匠が偶然映った写真をかざし、これこそ映画の始まりにぴったりだとして始まるこの始まり方(といってもそれは開始後10分くらいのころのカットだが)からして、この映画はある種のストーリーを狙ったドキュメンタリーなのだ。

ベルイマンの『不良少女モニカ』に女優の官能性の表現方法を学んだとしてその映画のシーンを2つほど紹介し、レオーやジーン・セバーグがカメラを見つめて終わるふたりの作品を後に並べて見せるなどしてヌーヴェルヴァーグの成立についての解説に説得力を与えるその展開は、ぼくのような人間にとってはいくつかとても示唆的に感じられた。

そうそう。そういえばパリのシネマテーク。ベルトルッチの『ドリーマーズ』(もしくその原作のギルバート・アデア『聖なる子供たち』および、映画と同時に書き直された『ドリーマーズ』(池田栄一訳、白水社))はまさにここから始まり、5月革命へといたる時代をトリュフォーへのオマージュのような配置で作っていたのだよな、と思い出していた。思い出していておどろいた。そういえば『ドリーマーズ』にはそもそもレオーが出演しているのだった。

雨が降りそうな曇り空だった。

いつの間に?

昨日、ぼくの財布から出てきた2枚の異なる千円札。上が夏目漱石。下が野口英世。

ところで、このデザイン変更があったのはいつのことだ? ぼくはすっかり忘れている。漱石の千円札を見せられても、最初、何のことだかわからなかった。違和感を覚えなかった。

うーむ……