2013年6月8日土曜日

『ローマでアモーレ』って邦題、どうなの?……

ウディ・アレン『ローマでアモーレ』(アメリカ、イタリア、スペイン、2012)

原題はTo Rome With Love だ。『ローマへ愛をこめて』だ。

余談1 終了後、出しなに後の若い女性2人組が話していた会話。「あのおじいちゃんが監督なんだってよ」「うそ。出演もしてるのに?」
 ……やれやれ。

余談2 ぼくらはなぜウディ・アレンの映画を見るのか? 理由のひとつは、本があるべき人の家には本がある、そんなセットを組んでくれているからだ。壁に作り付けの本棚に焦点が定まる必要はない。でも、そこにちゃんと本があるのだ。その部屋の住人が学生や建築家、作家、等々のインテリであるならば。

本題1 『ミッドナイト・イン・パリ』や『マンハッタン』に印象的な、夜警をゆっくりパン・ダウンしていく印象的なカメラ・ワークは、今回、オープニングでなく、エンディングに発揮された。

本題2 この映画のテーマは、なんて言い方をしたくないのだが、敢えて言えば、この映画のテーマは名声のむなしさと孤独、といったところか。いくつかのカップル(もしくは三角関係)を中心に進むこの映画のストーリーのうち、カップルが中心ではなく、現実離れしているのが、ロベルト・ベニーニ演ずるレオポルドのストーリー。時間軸も他とずれているのだが、これが楽しい。楽しくもあり、悲しくもある。しがない会社勤めの人間が、ある朝、テレビの番組に引き出され、すっかり有名人になってしまうという話だ。

本題3 3つある中心のひとつはウディ・アレンとジュディ・デイヴィス演じる夫婦が娘ヘイリー(アリソン・ピル)の婚約者ミケランジェロ(フラヴィオ・パレンティン)に会いにローマにやってくるという話。前衛的なオペラ演出家をやっていたジェリー(アレン)がミケランジェロの父ジャンカルロ(ファビオ・アルミリアート)のシャワーでの歌声に惚れ、葬儀屋だった彼をオペラの舞台に引き出す。その引き出し方がおかしい。ここには書かないが、ともかく、おかしい。

ウディ・アレンはある時期、明らかにギリシャ悲劇からその悲劇の系譜の末裔としてのオペラに関心をシフトしたが、今回、そのオペラをこれだけおかしな笑いのネタにして痛快だ。

本題4 『それでも恋するバルセローナ』に次いで、ペネロペ・クルスの使い方がうまい。彼女には英語をしゃべらせて、可愛らしい役に押し込めていてはいけない。イタリア語ならスペイン語のときにも似て、大胆不敵な人物が演じられる。

本題5 特筆したいのは、アレック・ボールドウィンの存在。30年前ローマで勉強し、今は有名建築家となったジョンの役。休暇でローマに来て、昔住んでいたあたりに散歩に行き、若い建築家志望のジャック(ジェシー・アイゼンバーグ)に声をかけられる。彼が恋人のサリー(グレタ・ガーウィグ)と住む家に招かれたあたりから、幽霊のような、狂言回しのような存在に変身する。若いふたりの家にサリーの友人モニカ(エレン・ペイジ)がやって来て、ジャックを翻弄する。ボールドウィンはジャックの心の声となって彼に忠告する役回りだ。

ウディ・アレンの怖いところは、知性派ぶったスノッブたちに対する痛烈な批判だ。時に反主知主義的とさえ言えるほどに知的階級の底の浅さをついて手厳しい。そしてまたそんな底の浅い知的スノッブでありながらも憎めず、魅力的だという女性を登場させる。格好の例が『アニー・ホール』のダイアン・キートン。

そんな底の浅いミーハーなスノッブとしてモニカを徹底的に批判するのが、ボールドウィンの役割。モニカは女優なのだが、彼女が何かの映画で役が決まったとはしゃぐときに見せるボールドウィンの表情は、戦慄を引き起こす。視線が痛すぎる。自身、軽佻浮薄な2枚目セレブというイメージを身にまとうかのような役がとても良く似合う(『ノッティングヒルの恋人』のカメオ出演のように)ボールドウィンが、いまではすっかり中年オヤジ体型を恥じようともせず、あたかも30年前の自分の軽薄さをたしなめるかのようにジャックをさとしてきて、その結果見せるあの表情には、やはり底の浅い知的スノッブにすぎないぼくは、涙まで誘われそうになった。

ボールドウィンの視線に刺され、自らの空虚にはっとするために、この映画は見なければならない。

メモ オペラのステージに引き出されるジャンカルロを演じるファビオ・アルミリアートは、実際のテノール。その彼が歌う歌が、なんというか、編集されている(『マッチポイント』のオペラの舞台も相当に変だったのだが、ともかく、今回、変なのは歌そのものだ)。『トスカ』のアリア「星は光りぬ」がいつのまにか『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」にすり替わっているのだ(曲名は片桐卓也によるプログラムの文章に教えていただいた)。この種の編集については、いろいろと考えてみる余地はあると思う。


映画は編集によって遠くはなれた場所がまるで地続きのような錯覚を与える。そんな編集のし方を当然としてロケハンやストーリー展開が作られてきた。今、誰もが知っている歌すらもこうしてつなぎ合わせて編集して、あたかもひとつの歌であるかのように見せている、このこと意味……