2021年2月25日木曜日

アップグレードさせてみた X-E3からX-E4へ

「やっぱりX-E3が好き」なんてブログ記事を書いておきながら、その舌の根も乾かぬうちに次世代機……



Fujifilm X-E 4 を買ってしまった。今日が発売日で、今日配達されてきた。



うーむ、美しい(レンズキャップのホコリはご愛敬。この後拭き取りました)。事前の評判ではX-E3にあったグリップや親指をかける場所がなくなって平坦になったので、フォルムはよくなったが機能的には心配だという声があった。そこにたいして重要度があると思わない僕は、すぐに飛びついたわけだが、実物を手にしてみると、案の定、それほど気にはならない。よほど重いレンズを装着していれば、これまでより少し握力が必要になるだろうか、という程度だ。


機能、スペック、映り具合などはさして変わらないだろうと思っていたけれども、センサーやプロセッサがひと世代新しくなったぶん、クリアで深みが増したように思う。単に気のせいかもしれないけれども。






ある原稿の締め切りが近いので、日課の散歩のついでにしか撮れなかった(つまり遠出はできなかったということ)けれども、操作性もよく、シャッターを切った直後に訪れる沈黙と不動の一瞬は、X-E 3 よりも荘厳である。



(こういった色が美しいのだ)

『テクストとしての都市 メキシコDF』に挿入した写真は、どれも観光に行った記念というよりは日常を撮ったストリートフォト風の感じにしたいと思ったものだが、そう、ストリートフォトグラフィにうってつけのマシンだと思うのである。次の本のためにもこれでストリートを撮るのだ。



X-E 3 より平坦でしゅっとした見た目なのだ。


2021年2月20日土曜日

だいじょうぶ、my friend!

マルセロ・ビルマヘール『見知らぬ友』オーガ フミヒロ絵、宇野和美訳(福音館、2021)


絵本仕立てで版元が福音館とくれば児童文学と予想されるかもしれないが、児童文学というよりはいささかターゲットが年上とみるべきだろう。YAという程度だろうか。短めの短篇十篇からなる作品集だ。


黒い守護天使(?)のことを簡潔に書いた「見知らぬ友」、床屋談義で聞いたサムソンとデリラのエピソード「世界一強い男」、観賞魚を仲立ちとした初恋の話「ヴェネツィア」、友人ラファエルが語る両親の神秘「立ち入り禁止」、神のごとき理不尽さの父の振るまい「黒い石」、文章を盗まれた話「地球のかたわれ」、タイトルどおりの「失われたラブレター」、サッカー選手との邂逅の思い出の「ムコンボ」、隣に乗り合わせた少年を語った「飛行機の旅」、そして一枚の写真をめぐってユダヤ人移民たちの記憶が見えそうで見えない「クラス一の美女」。


短めのものはショートショート(あるいは掌編)というよりはブエノスアイレスのユダヤ人コミュニティのスケッチのような趣を持ち、長めの「失われたラブレター」「飛行機の旅」「クラス一の美女」は児童文学、YAなどと分類するまでもない立派な短篇小説で読み応えがある。


映画『僕と未来とブエノスアイレス』(ダニエル・ブルマン監督、2004)の脚本家でもある。あれもユダヤ人コミュニティを描いたものだが、その点でも興味深い作家だ。


ちなみに僕が一番気に入ったのは「ヴェネツィア」。


その好き嫌いを左右した要素ではないが、ここには実に興味深い翻訳上の試みがある。観賞魚店の店主から「どれでも好きな魚を持っていっていいぞ」と言われた語り手兼主人公の「ぼく」は応えるのだ。「だいじょうぶ」(37, 8)と。


この「だいじょうぶ」はもちろん、「要らない」の意味だ。原書をもっていないので、どんな表現なのかは知らないが。面白い。僕はこの語を使えそうにない。参った。


でも、考えてみたら、たとえば、 “Está bien” など、こうした場でのこういう意味での「だいじょうぶ」に使えそうだ。案外、この「だいじょうぶ」は普遍的な表現なのかもしれない、と蒙を啓かれた気分。



NHKテキストの連載は最終回にフェルナンド・ソラナス『ラテンアメリカ光と影の詩』を選んだのだ。

2021年2月14日日曜日

スパッ、ぐちゃ、ぎぎぎ……という感じ


佐藤究『テスカトリポカ』(KADOKAWA2021



書評を依頼されたのでプルーフで読んだ。プルーフと言ってもふだん校正用に使う大判の紙に見開きで印刷されたゲラではない。こんなふうに(右)製本されている。いわゆるadvance reader’s copy とか advanced proof とかいうやつだな。当然、通常のゲラよりだいぶ読みやすいし、持ち運びも楽で助かった。ペーパーバック好きの僕としては単行本よりもこの方がいいというくらいだ。


で、佐藤究。これがめっぽう面白い。僕の書いた書評は来週掲載予定なので、今は多くは言えないのだが、移民小説だったものにナルコ小説が接続され、やがてそれが臓器売買小説に変じていく、という内容。ある人物がメキシコから、そう期待されるようなアメリカ合衆国へは流れず、まずは日本へ移住して根付いて子を産み、その後、別のある人物(麻薬カルテル幹部)がメキシコから南米、アフリカ、オーストラリア経由でインドネシアへ、そしてそこからまた日本へ、川崎へと流れて壮大な犯罪を企む小説だ。しかも、タイトルが示しているように、この犯罪世界がアステカの世界へとつながって行く。うーむ……アステカの人びとが人身御供の儀式を行っていたと言われていて、その残虐さが伝えられており、つまりそれを利用しているのだが、ことさらその暴力性を強調するのはいかがなものかとの思いもある。が、僕はそのアステカ社会についての伝聞の信憑性を判断できる立場にないし、ともかく、その判断を保留してしまえば、その利用のしかたはうまいなと思う。犯罪小説に過度な倫理を求める必要もないかとも。実際、僕はともかく、かなり面白く読んだのだし。


書評には書かなかったことだが、佐藤究はどうやら(他の小説なども読むに)剝き出しの肉体による暴力に興味があるようで、この小説にもかなりの巨漢の怪力たちが出てくる。そしてバタバタと人を殺す。これがだいぶ痛快で、読者にカタルシスをもたらすのだろうと思う。つまり、徒手空拳の格闘アクションものの趣も帯びているのだな。この要素が、上に書いた一種の不信感を払拭させてくれもする。



プルーフに貼った付箋を、こうして実物に貼り替える。書き込みやマークまでコピーはしなかった(文庫化された小説などに関して、こうした作業をよくやる。付箋を同じ箇所に貼り、書き込みを写す/移す)。

2021年2月3日水曜日

予備って大切


こんな電動ミルを使っている。喫茶店などでよく見る業務用を少し小さくしたやつ。自慢である。


ところが、先日、刃に何かが詰まったのか、動かなくなった。焦った。絶望の淵に突き落とされた気分だった。少なくとも深淵の手前まで来た。今日、そして明日の朝、どうやってコーヒーを飲めばいいのだ?


結局、豆を取りだして刃を少し掃除したらすぐにまた動くようになった。


でも、ふと不安になった。やはり急に壊れたり停電したりしたときのために、予備の手動のミルを持っていた方がいいのではないか? 


それで、思い立ったが吉日で、今日、買ってきた。Kalitaの円筒形のやつ。


で、電動式は使えるのだが、ためしにこの新兵器を使ってみた。


案外手が疲れる。中学から大学まではずっと手動のミルを使ってきたのだが、あるとき、電動にしたのだった。おそらくもう20年くらいは手で挽いたことはなかったのではなかろうか。久しぶりに挽いてみると、案外時間がかかるし、その分力も要る。自身の筋力の低下に気づいてしまった。


設定がかなり細挽きになっていたから時間を要したようだ。ペーパーフィルターやネルドリップにはもう少し粗めでいい。これで所要時間も少しは短くなるだろう(慰め程度ではあるが)。でもまあ、予備で買ったものとはいえ、筋力のためには頻繁に使った方がいいかもしれない。供給が需要を生むのだ。

2021年2月1日月曜日

湧き出る蒸気、引き裂かれる皮膚

先般告知のごとく、「現代アートハウス入門:ネオクラシックをめぐる七夜」という催しの第3夜、アントニオ・レイス&マルガリーダ・コルデイロ監督『トラス・オス・モンテス』(ポルトガル、1976を観に行った。というか、観て、その後、これを推薦した小田香さんとこの映画についてアフタートークをしてきた。トークが開始当初、音声トラブルで少し開始が遅れたが、その後は順調。


小田さんがまずこの映画を推薦した理由、この映画との出会いなどを語った(二度あったとのこと)一度目が友人のアンドレ・ジル・マタに薦められてのこと。アンドレはレイスが教えていた映画学校で学んだ経験がある、とのことだったので、それを引き取り、僕は彼の簡単な経歴を紹介、その後、この映画の舞台となったトラス・オス・モンテス地方について簡単に説明し、その裏としてスペインの側の国境地帯の秘境を撮ったブニュエルの『糧なき土地 ラス・ウルデス』があるとか、『ミツバチのささやき』との親和性などを話し、それからまた小田さんに気に入ったところ、その理由などを語っていただいた。


小田さんが「わからないところもけっこうあるのですが」とおっしゃったので、僕も安心して、わからないところがあると告白。あの14世紀の王様の手紙を読むシーンなど、なんなのだろう、とひとしきりわからなさを確認した。客席(全国数カ所のアートハウスを繋いでいた。僕はユーロスペースにいて、小田さんは大阪のシネ・ヌーヴォにいた)からもわからない箇所がある、などとの告白。なーんだ、みんなわかんないんじゃん、という感じで盛り上がった(のかな?)……


映画自体は、以前観たものではあったが、事前の準備のために2度ほど観た。加えて今回、会場でも観た。それでもラストの列車が夜の平原を走るショット(いや、列車は見えない。それは列車が吐き出す蒸気が平原から出て高速で駆け抜けていく絵なのだ)と、山羊がまるで「だるまさんが転んだ」で遊ぶ子供のように探り探り一歩ずつ前進するショットが交互に映されるシーンには皮膚を切り裂かれるようなゾクゾクしたスリルを感じたのだ。


本当はそれはたぶん、昼間読んでいた小説も関係している感覚なのだが、それについは、また後日。



これは人の皮膚は切れないナイフ。ペーパーナイフだ。