公開初日、第1回に行ってきた。
パブロ・ベルヘル『ブランカニエベス』(スペイン/フランス、2011)
物語は花形闘牛士の父アントニオ・ビヤルタ(ダニエル・ヒメネス・カチョ)の血を受け継いだカルメン(ソフィア・オリア、後にマカレナ・ガルシア)が闘牛士になる、というもの。それというのも継母エンカルナ(マリベル・ベルドゥ)の指図で殺されかけ、小人たちに助けてもらったから。つまり、ここで白雪姫のお馴染みのストーリーが下敷きとして使われているのだ。
白黒でサイレント映画の形式を取った作品だが、BGMがストーリー内部の効果音、および劇内での音楽とも連動している。ところで、こういうのを何と言うのだろう? 物語の外部と内部を音楽が行き来しているのだ。
蓮實重彦は映画は本質的にサイレント映画だと言ったのだが、改めて2011年のサイレント映画を観てみると、こちらの方がトーキーよりもある意味で雄弁であることがわかる。たとえば冒頭の闘牛シーン。闘牛場へ向かう群衆をロングショットで撮った一コマだけで、映画とはこの群衆の動員においてその本領を発揮した表現手段なのだということを思い出す。そしてこうした群衆シーンにおいて、白黒無音の映像の方がはるかに効率がいい。この時点でこの映画は勝利を収めたようなものだ。勝利を収めるtriunfarとはすなわち、観客の心をつかむということ。カルメンが後にこの同じ闘牛場に帰ってきたことを告げる新聞に書いてあった単語だ。triunfar
場面転換に瞳の映像を効果的に使っているので、登場する人物たちは皆、目が大きい。絵に描いたような敵役継母を演じるベルドゥもオリアとガルシアのふたりのカルメンも、彼女の祖母アンヘラ・モリーナも、皆、大きく目を見開いている。
時代設定は1920年代後半。女性の闘牛士というのは、正式にはたぶん、存在しなかった時代だろうが、それを可能にするのが、小人の闘牛士という見世物。小人プロレスみたいなものだろう。この存在が物語の決着のつけかたに上手い具合に作用しているのだが、それはともかく、別の視点から見れば、女性の社会進出の拡大も社会背景にしているのだろう。女たちが髪を短く切ったのがこの時代。ベルドゥは自身、短髪の看護士。幼女カルメンの髪を切るのは、いじめにも思えるのだが、このソファア・オリアというのが、髪を短く切ってから断然輝きを放ち出す。成長した後のカルメンを演じるガルシアも、短髪ならではの役どころだ。
大きな目と短い髪。それが『ブランカニエベス』の輝き。