2014年9月28日日曜日

謎の名盤

昔、二十歳になるかならないかのころ、レコード屋(CDの出現以前の話だ)を冷やかしていて、ある1枚に出会った。イ・ムジチの演奏するヴィヴァルディ『調和の幻想』曲集。全曲集だったと思う。そのとき、村上春樹『1973年のピンボール』で、大学のバリケードを破って機動隊が突入したときに、これがフル・ヴォリュームで流れていたという「神話」が書かれていたのを思いだした。

で、買って帰ったのだ。

当時は手持ちのレコードも少なかったので、何度も聴いた。

時は流れ、もう何年も前にレコードはすべて処分した。レコードで持っていたもののうち、捨てがたいものはCD版を買ったものもある。『調和の幻想』は、今ではイタリア合奏団の演奏するやつ(タイトルは『調和の霊感』)で持っている。2枚組の全曲集で、1番から順番に入っている。

今ではヘビーローテーションには入っていないこのアルバムを聴くたびにびっくりすることがある。ぼくがかつて「調和の霊感」1番だと思って聴いていた曲が、実は6番であるという事実だ。つまり、ぼくがもっていたイ・ムジチ版『調和の幻想』曲集は6番から始まっていたのだ。

うーむ、どういうことだろう。全曲集だと思っていたのが、実はそうではなく、6番と8番と……というふうに抜粋しただけの曲集だったということだろうか? ぼくが持っていたレコードのCD版だと思われる(ジャケットが似ている)CDには、アマゾンで見る限り、1番から順番に入っているようだ。

うーむ……


あ、こんなことを書くのは、今、その『調和の霊感』を聴きながら仕事をしていたからだ。久しぶりに聴くととてもいい曲ばかりだ。3番など、大学に機動隊が突入するの図にぴったりのBGMになりそう。

ガボについて語るのだ

立教大学でこんな催しがある。もう1週間を切った。

ガルシア=マルケスについて語るのだ。「ガルシア=マルケスは誰が読んでいたのか?」

できればこれに、「1983年、日本」と副題をつけて考えていただきたい。ある小説が『百年の孤独』に負っているところが多いのに、まったく気づかれなかった話を出発点に、ひとりの作家が読まれ、採り入れられるとはどういうことかを考えていただこうと思っている。

考えていただこうと思っているのだ。考えようと思っているのではなく。自分ひとりで考えられるほど、簡単な話ではないのだ。


よかったら、是非、次の土曜日は立教大学へ。

2014年9月25日木曜日

永遠の噓をついた……のか?

ある人からカルペンティエールについて本を書かないかと言われ、その気になっているわけだ。エドガー・ヴァレーズの未完に終わったオペラのための、ロベール・デスノスとともに書いた台本など、初期の作品の研究が展開している近年、そういった動向に今ひとつついていけていないぼくとしては、いい機会だからまとめておこうと思ったのだ。手始めは、まだ日本語ではちゃんと発表していないベネズエラ時代(1945-59)の話かな?

で、この際だから、きちんと考えておかなければならないことがある。アレホ・カルペンティエールの言語使用についてだ。

もう20年ほど前に出生証明が公になり、カルペンティエールはスイスのローザンヌ生まれでどうやら間違いないということになった。名前もアレホAlejoではなくアレクシスAlexis。これをして単に嘘つきと難じるのは詮無きことだ。小説家が嘘つきで何が悪い。

カルペンティエールを論じて常に興味深い論点を出しているイェール大学のロベルト・ゴンサーレス=エチェバリーアは、この出生の不確かさから出発して、カルペンティエール自身の説明する伝記的要素の他の謎をも挙げている(「カルペンティエールの国籍」)。

1) 1928年、ロベール・デスノスのパスポートを借りてパリに渡ったという話はにわかには信じられない。
2)  1943年にハイチに渡ったのはどういう経緯だったのか? ルイ・ジューヴェと一緒だったというが、彼はそのことについて何も発言していない。ましてや、最初のバティスタ政権下のキューバ政府の依頼でとは、どういうことだ?
3)  そしてまた、そうなると、若き日の仲間であったグラウ・サンマルティンが大統領に選任された 1945年にベネズエラに渡ったのも謎だ……等々。

こうした謎をまとめると、カルペンティエールの国籍、ステイタスは極めて不確かな怪しいものだと言わざるを得ないが、そのことを考えに入れると、俄然重要性を増す作品が、(『失われた足跡』と並んで)「種への旅」、「亡命者庇護権」のふたつの短編と『ハープと影』だ。常にユダヤ人説が囁かれるジェノヴァ出身でスペイン名を名乗りたがったコロンブスを巡る小説であるがゆえにだ。

もうひとつ面白いのはゴンサーレス=エチェバリーア自身が知り合いから得た情報として紹介する、カルペンティエールの知り合いだったという女性の話だ。カルペンティエールの母親リナというのは、父親ジョルジュの愛人だったのだと、そしてジョルジュはある日、本妻の住むカラカスに去ってしまったのだ、と語ったというのだ。だから息子がカラカスに行ったのは、死んだ実父の財産を受け取りに行ったのだ、とも。

真偽のほどはわからないとしているのだから、ぼくもお遊びとして接続するのだが、同じカラカスで、ある人物がアンヘル・ラマに対してカルペンティエールの噂話を繰り返ししていたのだった。作家が『キューバの音楽』のための調査旅行中に、友人に妻を寝取られた、という噂話だ。友人にピストルで脅され、妻と別れるはめになったのだと。でもカルペンティエールはカラカスにやって来たときには、2番目の妻リリアを伴っていた! 

ゴンサーレス=エチェバリーアがカルペンティエールの出生の問題に関して指摘している一番重要なことは、作家が創作言語としてスペイン語を選んだことを、カフカやコンラッド、ベケット、ナボコフらの世界文学Literatura universalの問題に接続していることだ。スペイン語という大きな言語で書いた者たちにも確実に存在する言語選択の問題。カルペンティエールを今、読むことの意義の最大のもののひとつは、ここに存するとぼくも思う。

カルペンティエールはもちろん、スペイン語とフランス語のバイリンガルだった。若いころには「お月様の物語」や「学生」、「エレヴェータの奇跡」といった作品をフランス語で書いている。しかし一方で、母親に書いたフランス語による手紙は、スペルミスに満ちていた。フランス語で書くためには単に「バイリンガル」と言って済ませられない努力を要したはずだ。ピカソの自伝をフランス語に訳してくれと言われて原稿を手渡された、とか、フランスでのキューバ大使館時代、公務の前に床屋に寄って髪を切ったら、オヤジから「これで立派にフランスを代表する紳士ですよ」と言ってもらった、といった自慢話をする心性は、どこかフランス語に対する負い目から出ているように思われてならない。「スペイン語の方が文学言語として豊かだから」創作言語に選んだのだと証言してはいるものの、そうとばかりは言えないような気がするのだ。でも、そして、そのわりにいつまでも "r" の発音はフランス語の発音のようであることをやめなかった。

自身の2言語状態に対する極めて両義的な思い。とりあえずカルペンティエールにはそうしたものがあるはずだ。マニアックなまでの語彙収集はそこから来ているはずだ。

2014年9月24日水曜日

勉強してきた

週末から週の初めにかけて、京都にいた。

以前書いたけれども、世界文学・語圏横断ネットワークというのに参加している。西成彦さんや和田忠彦さん、沼野充義さんなどが主導して20人ばかりの発起人を集めて結成したネットワーク。賛同人を募り、第1回の研究会を22、23日の2日間、立命館大学で開催したのだ。ぼくは発起人のひとり。

前日、やはり立命館で行われたカリブ海文学研究会に参加し、翌日からの研究会にも参加した。発表はしていない。ただ聞く側に回ったのだった。

セッションは5つ。「広域英語圏文学」、「越境とエクソフォニー」、「マイナー文学をどう理解するか」、「『日本文学』の再定義」、「『世界文学』をどう理解するか」。それぞれのセッションに3つから5つの発表があった。

ドイツ(語)との関係で創作言語に意識的にならざるを得ない中・東欧の作家たち、その(自己)翻訳の問題、植民地朝鮮の文学の立ち上げ、バスク文学などの話を聞いていると、帝国の言語であるがためにあまりにも広がりすぎたスペイン語による創作において(英語によるそれと同様)、見過ごしにされてきた問題が浮かびあがるようだ。

ついでに、観光客みたいなこともしてみた。



2014年9月10日水曜日

レオーネの呪縛? あるいはセルヒオはいつになったら正しく呼んでもらえるのだろう?

スカラ座……じゃなかった、歌舞伎座の前を通り、見てきた。スカラ座……じゃなくて、


試写に呼んでいただいたのだ。

離婚して妻のもとにいる息子セルヒオ(ガブリエル・デルガード/ただし、字幕ではセルジオ。あれだけはっきりみんなセルオと発音しているのに)への面会日に、彼を連れて貴金属店強盗に押し入ったホセ(ウーゴ・シルバ)は、行きずりの強盗仲間アントニオ(マリオ・カサス)らとともにフランスに逃亡しようとする。国境近くの町、バスク地方のスガラムルディを通るが、そこは中世の魔女裁判で有名なところで、魔女たちは今も生きつづけていて、彼女たちに捕まってしまい……

思うに映画は秘密結社の儀式(集団的狂気、松明、生け贄……)とそれを天井から覗き見る、そしてそこに割って入って攪乱するヒーローというのをたくさん描いてきた。今、デ・ラ・イグレシアは、その秘密結社を魔女たちの集団として、そこに人食いやら(場合によってはゾンビやら)のモチーフまで詰め込み、とことん再利用して、いかにも彼らしい破滅的な物語に仕上げておかしい。

何しろ魔女が扱われるのだ。最初からそれをつくり出す男性中心主義が揶揄されていて愉快だ。結末(つまり、誰が死に、誰が生き残るか)に不満を抱く者もいるかもしれないが(なんだ、結局愛が地球を救うのか、と)、魔女はまたゾンビでもあるのだ……と書いたらバレてしまいそうだが……

ともかく、魔女たちの儀式のクライマックスが面白い。おかしい。伏線は貼られていたはずなのに、びっくりする。『ゴースト・バスターズ』のような衝撃だ。笑撃だ。


……さすがだ。

2014年9月5日金曜日

教えて佐々木先生

ぼくはまあ心情としては学生を突き放したい方である。ろくな論文作法も知らずに書いてくる文章など0点にして落としてしまえばいいと考えるほうではある。が、そうするとほとんどの学生に不可をあげることになる。仕方なしに、このマニュアルに書いてある形式を守っていないレポートは不可とする、と宣言して楽をするために、レポート・論文の書き方などというものを書いて配ったのが10年ほど前の話。

外語では2012年度からだったろうか、「基礎演習」という、1年生向けの、学術スキルを訓練する授業が始まり、ぼくはその授業の準備をするためのワーキング・グループの一員だった。プランを練り、デザインした。でも実際には(幸いにも)その授業は担当することなく東大に移った。

東大は本郷である。3年生以上を相手にしていればいい……はずだった。が、来年度からのカリキュラムの改革のために、ぼくらまで初年次教育に携わることになり、どうやら、同様の、1年生向けの学術作法を教える授業を持つことになりそうだ。

やれやれ……

そんなわけで、買ってみた。佐々木健一『論文ゼミナール』(東京大学出版会、2014)

数ある論文執筆マニュアルの中では、ぼくは栩木伸明『卒論を書こう――テーマ探しからスタイルまで 第2版』(三修社、2006)が面白いかな、と思っていて、それはパラグラフ・ライティングのことをきっちり説明・例示してくれていること(それを行ってる唯一でも最初でもないけれども)と、いわばライフスタイルの提唱から入っているところがいいな、と、しかもそれは人文科学系の学生に対するよきアドヴァイスだなと思えるところなのだった。

さて、では美学藝術学の佐々木先生、どんなアプローチで論文の指導に当たられるのだろう? と思って買ったわけだな、今回。どれどれ……

ご本人も自負しているのは、論文執筆をひとつの技術(これにはアートとルビが振られる)と捉えていることだ。「困るのは、論文を書くのに特に技術など必要ではない、と思っている人びとです。卒業論文を書こうとしているひとたちに多いのではないか、と危惧します」(14)。「大学で論文の書き方が技術として教えられていないのは、それが言葉では教えることができないからです。およそ技術とは、そういうものです」(16)とたたみかけてくる。「およそ技術とは、そういうものです」! いや、ところがね、佐々木先生、最近では大学で論文の書き方を技術として教えなければならないんですよ。だからこの前提はとても励みになるんです……

「真似るために論文を読書する」という項を立てているところなども、提示のし方がいいと思う。

そして何より優れているのが、ノート/カード問題。これまでほとんどのマニュアルはカードを採ることを推奨し、かつ、ノートはカードと同様のものだとの立場に立っていたと思うのだが、佐々木は違うのだ。「ノートは(略)要約するのに適しています。それに対してカードは、著作や論文のなかで見つけた重要な文章をそのまま書き写すものです」(51)「カードをノート風に使うことは、ほとんど無意味です。それに対して、ノートをカード風に使うことはできます」(52)と差異を説明している。


うむ。早速、来年度の初年次教育、上の栩木さんの書とともに、推薦書に指定しておこう。(引用内の強調はいずれも柳原)