2013年6月23日日曜日

誤謬は焦点のずれから生まれる

ちょっと前にこんな報道がなされた。東大が9月入学を諦め、その代わりに4学期制を導入する、と。

秋入学というのは、外国の大学の70%がその仕組みだから、大学間の交流、学生の留学などに都合がいいので、そうしよう、という目論見だったのだ。それが、社会体制との兼ね合いで断念せざるを得ず、その代わりに4学期制を導入することに決めた、と。

こうした問題の場合、常にそうだが、ここで問題のすり替えが、少なくとも、その問題に対する視線のミスリードが行われている。表面だけを追う限り、なぜ2学期制をさらに半分にして4学期制にすることが秋入学の代替案になりうるのか、それがわかりにくいのではないか?

つまり、語られていることは、今の8月、9月の2ヶ月を夏休みに充てることをやめて、6、7、8月をそれに充てよう、という話なのだ。そうすれば、サマースクールなどにも行きやすくなる。

……ん? 

世界の水準に合わせるって、そういうことなのか? その程度の話なのか? 学生をたかだかサマースクール程度のものに派遣しやすくしよう、とかいうことなのか? 

考えてみよう。東大は危機感を抱いているという。大学ランキングが年々下がっているから、と。大学ランキングは教育面や研究面の成果をもとに産出されるのだ、と。つまり、その評価とかいうもののなにがしかの部分は研究が問題なのだ。

研究を語るならば、それは大学院以上の問題だ。世界の大学で学部レベルで「研究」など云々できるところはない。今野浩の言うように、日本の大学が学部一流、大学院二流であるならば(かつてそうであったならば)、危機感を持たなければならないのは、大学院レベルの話だ。だったら、研究目的の大学院(専門職養成の大学院でなく)の改革から着手すればいいんじゃないのか? それが気になる第一点。

第二点:なぜ6、7、8月を休みにするためには、4学期制にしなければならないのか? 4月入学で遅くとも6月一週くらいまでに終わらせるには、4分割しかあり得ないからだ。なぜ3分割、2分割はあり得ないのか? 単位の算出の問題だ。だったら、単位の計算方法を変えればいいのではないか? つまり、授業のありかたを変えればいいのだろう? 2時間と見なされる1.5時間(90分)――ただし、当の東大は100分――の授業を週1回×15週の授業、それに加えて15時間ばかりの自宅学習(をしたものと見なす)で2単位。どんな授業もそんな一様な数え方でやっているのが、現在の大学の授業の現状だ。4学期制にすることによって、そんな授業のあり方を変えようとしているのではないのか、東大は? それならば、ちょっと成り行きを見守ってみたいという気はする。


さて、最大の問題。社会とのずれがあるから秋入学が導入できない、と東大は言う。それならば、社会がそもそもおかしいのじゃないのか? そう考えてみたらどうだろう? 4月新卒採用の者を、しかもその前年の秋から、大学の授業の都合も考えずにごっそり刈り取っていき、かつ文化系の大学院修了者にはまだまだ門戸も狭い、狭量で頑迷、時代遅れな企業社会とやらに疑問を呈してみてはどうなのだ?