2018年3月21日水曜日

メヒコは今日も雨だった


激しい時差ボケに苛まれている。

メキシコに行っていたのだ。行く前日が雨で、その日も午前中は雨だったが、少し晴れたので傘も持たずに出た。乾季のメキシコに傘など持っていってたまるか、という意識だ。ところが、メキシコではまだ雨季でもないのに、毎日のように夕方、雨が降った。そして帰宅したら冷たい雨、一部には雪が。

やれやれ。
(写真はイメージ)
帰国の日には、去年同様、国立フィルムライブラリーで映画をハシゴした。見たのは:

セバスティアン・レリオ『ナチュラル・ウーマン』(チリ、2017) 日本で公開中なのにまだ見ていなかったのだ。誰かが、原題はUna mujer fantástica なのになぜ『ナチュラル・ウーマン』? と言っていたが、案の定、途中、アリサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」がかかっていた。その意味で松浦理英子と同じだな。

この映画のすぐれているところは、感情の盛り上がる場所でリアリズムを拒否しているところ。つまり、メロドラマなのだ。圧巻は、トレイラーにも使われているので、言ってしまっていいと思うのだが、あまりの強風に抗して主人公マリーナ(ダニエラ・ベガ)の立った姿勢が斜めになる(マイケル・ジャクソンのダンスのように)ところ。それから自暴自棄になったマリーナがクラブに行き、踊り狂い、行きずりの男と関係を持つという陳腐なシーンで、ここではいきなり衣裳も揃えたバックの連中とともにマリーナがダンスを(クラブでのそれではなく、振り付けのある、アンサンブルのダンス)踊り、しまいには……という処理。

ロマン・ポランスキー D'après une histoire vraie (フランス、2017)

これは日本で公開されていないのだろうか? 原作のある映画しか撮らないポランスキーがなかなかの皮肉なタイトルだと思って、見に行った。サイコサスペンスとしては詰めが甘い、などという評も見かけるし、なるほど、たとえばELLE(エヴァ・グレーン)は最後どうしたのだ? という思いも残る。

が、僕はどちらかというと、映画の完成度など唯一の物差しではないと思っている。僕はただ、パリのアパルトマンがすてきだな、と思うのだ。それからデルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)のノートやら創作過程やら……

それに、メキシコの観客たちはいちいち声を挙げて反応していた。充分にサスペンスがあったということなのだと思う。

眠い。時差ボケに押し潰されそうだ。今日はここまで。

※ ポランスキーの映画は、この記事を挙げた翌日、『告白小説。その結末』のタイトルで日本での公開が決定した模様。この決定に対する僕の記事の影響力は、未確定。(ないに決まっているのだけど)

2018年3月4日日曜日

これも昨日のこと


東京シティ・バレエ団創立50周年記念公演『白鳥の湖』@東京文化会館

1946年、藤田嗣治が帝劇での『白鳥の湖』初演の舞台美術を手がけた。その資料を見つけて、それを手がかりに舞台美術家フジタについての博士論文を書いたのが佐野勝也。その博論は書き直しを経て佐野勝也『フジタの白鳥――画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン/新宿書房、2017)という本になった。佐野さんはこの本の完成を見ずに死んでしまったけれども、こうした活動を続けながらもフジタの舞台装置による「白鳥」の再演を希求していた。今回、足達悦子が佐野さんの遺志を受け継ぎ、復元、大野和士指揮、東京都交響楽団の演奏で上演と相成った。

日によってキャストが違うが、初日の昨日はいずれもベルリン国立バレエ団のプリンシパル、ヤーナ・サレンコとディス・タマズラカルがそれぞれオデット/オディールとジークフリード王子を客演。

「幻想的な」夜の湖と言えば青が思い浮かぶところを、フジタの美術はそこに緑を射し、鮮やか。ヤーナ・サレンコの羽と脚の動きの優雅さ、リズムの堂々としたタメは素晴らしかった。

『フジタの白鳥』の佐野勝也は僕の大学の先輩。外語大は通称「語劇」という専攻語による劇を作って秋の学祭で披露する伝統があるのだが(というか、学祭はもともと「語劇祭」であったわけだが)、僕も大学の最初の2年間は彼とともに劇をつくったのであった。最初の年は彼が演出、僕が舞台監督(ミュージカル『エビータ』)。僕が2年の時には僕が演出、彼はキャストの一員として(ガルシア=ロルカの『血の婚礼』)。ともかく、そんなわけで、東京文化会館大ホールの満員の人出ではあったけれども、学生時代、佐野さんに縁の先輩後輩たちとも顔を合わせたのだった。

観劇後は美女二人(要するにそこで顔を合わせた後輩だが)と牡蠣を堪能。

2018年3月3日土曜日

昨日のこと


昨日〆切りの原稿を、〆切りのその日に書き終え、同僚の最終講義に行ってきた。

同僚というのは中地義和さん。「ランボーと分身」というタイトルでそのテクスト分析の手法を披露してくださった。

昨日〆切りの原稿というのは、次の本に関するもの。

星野智幸『焰』(新潮社、2018)

大人の事情があるので、その原稿に書かなかったことを、一部……

『焰』は短篇集というよりは連作短篇で、読みようによっては長篇小説とも思える1冊。長編小説とも思えるのは、短篇と短篇とを繋ぐ短い文章があるからだ。冒頭は災害だか壊滅的な戦争の直後だかで生き残った僅かな人間たちが、焰を囲んで一人ずつ話を始めることが説明される。『トラテロルコの夜』や『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録』からの引用が差し挟まれ、つまりは災害というよりは人為的な災害による人類の死滅が示唆されているのだろう。戦争の後なのだ。

ひとつひとつの短篇は、自分ではない何ものかになる人物の話だ。その自分以外のものになるなり方が面白い。たとえば第四話「クエルボ」は、スペイン語を理解するものはすぐに察しがつくように、カラスになる人物の話。妻から「クエルボ」とあだ名される人物だからこのタイトルがついているのだが、このあだ名は、彼がテキーラのホセ・クエルボを飲んでいたから。こうしたミスリードをするのだが、繰り返すが、スベイン語を解するものならすぐに察しがつく。この人はカラスになるのだ。

ところで、この人物は第一話「ピンク」にも出てくる。

「クエルボ、またカラス?」と妻にうんざりされながら、一心不乱に池を眺める初老の男もいる。(14-15)

この「初老の男」が、クエルボこと室内なる人物。しかし、まだ第四話に至らない読者としては、ここで戸惑う。「クエルボ、またカラス?」だからだ。「カラス、またカラス?」と言っているのだろうか? 最初の「クエルボ」は呼びかけではなく、この発話をした女性(室内の妻・亜矢子)がスペイン語と日本語の話者で、単にスペイン語で「カラス」といい、それから自己翻訳して「カラス」と言い換えただけなのか? という具合に。

けれども、ともかく、「クエルボ」はあだ名だ。そしてあだ名どおりにカラスに変わるのだ。

カラスにつきまとわれることになった「私」こと室内は、ある日、カラスたちが自分に向けて上空から急降下し、バンジージャンプのようにまた上昇を繰り返すさまを眺めている。

 圧倒されてたたずむほかない私をよそに、カラスたちは落下劇を続け、食事を終えた個体まで加わり、うち一羽は落ちてから飛びあがるときに私の肩にぶつかったりした。俺をからかっているのか、と頭に血が上りかけたが、そのカラスは私の前に降り立って、私のことをじっと見つめ、クー、クーと小声で鳴いた。私はしゃがんだ姿勢で後ろ手を組み、カラスのつもりで、アーアーと喉から声を出してみた。
 気持ちいい。自然な気がする。
 カラスはそんな私をもうしばらく無言で見つめると、ついて来いという形に小首をかしげ、また飛び上がって遊びを再開した。私はついて行かれないことに無念を感じた。(101 下線は引用者)

たとえば猫を呼ぶときに、僕たちはしゃがんで猫の鳴き声を真似たりするわけだが、それに似たようなことをカラスに対してやったときに「気持ちいい」と、しかも「自然な気がする」と。ましてやその後、彼らについて行けないことに「無念を感じた」となったら、もうこの人はカラスになりかけているのだ。

ちなみにこのクエルボ、実際にカラスになったときには卵まで産むのだが、その描写もまた面白い。引用しないけど。みなさん、自分で読んでね。

つまり「私」はメスのカラスになったということだ。種が変わっただけではない。性をも超えたのだ。そのへんがまた面白いところでもある。最終話「世界大角力共和国杯」なんざ、冒頭から「ぼくはおかみさん。角力部屋のおかみさんである」(230)だものな。まいっちゃうな。


2018年3月1日木曜日

2月が28日で終わることを忘れていた


2月の22日(木)には博士論文の審査に行ってきた。場所は東京外国語大学。スペイン語圏の文化研究の分野としては僕が論文博士号を取得して以来の博士論文だそうだ。俺、在職中にそういえば1人も博士を出してないものな……

酒井和也という日系アルゼンチン人の画家にして翻訳家、雑誌編集者でもあった人物の評伝を中心にした文化論。

23日には旧友と会い、24日(土)は東京都立図書館にミステリー・ツアーに行ってきた。ミステリー・ツアーとは外れたところで、こんな手ぬぐいまでもらってきた。

25日(日)、26日(月)は学部入試2次試験の監督に立った。東大に勤務して初めての経験。

本郷では理系の受験生が受ける。初日は国語100分、数学150分、二日目には理科150分と外国語120分。受験生たちにとってはそれでも時間が足りないくらいだが、監督する立場にしてみれば、地獄のような時間だ。

翌日は何をする気力も起きなかった……と言いながら教え子の就職祝いに行ったのだが。

28日(水)には、僕もクラウドファンディングで協力したマイク・ライトウッド『ぼくを燃やす炎』村岡直子訳(サウザンブックス、2018)の出版記念パーティに行ってきた。

こんなところに。