2013年9月3日火曜日

手探りの愛(読書)

アレハンドロ・サンブラ『盆栽/木々の私生活』松本健二訳(白水社、2013)

100ページ前後の中編を2作掲載した、サンブラ初の翻訳。

表題作は、言ってみればフリオという文学青年がエミリアという女の子に恋をして、盛んにセックスをして、分かれて、……というだけの話だが、……

面白いのは、登場人物のそのセックスが読書に結びついていること。

世界中のあらゆるディレッタントたちが一度はそうしてきたように、彼らもまた『ホヴァリ―夫人』の最初の何章かについて議論した。友人や知り合いを、それぞれシャルルかエンマかに分類し、彼ら自身が悲劇のボヴァリー夫婦と重なるかどうかを話し合った。ベッドではなんの問題もなく、それは二人ともエンマのようになろうと、エンマのようにフォジャールしようとしていたからで、彼らが思うに、エンマは間違いなくフォジャールが異様に上手だったはずであり、さらには今の時代に生きていればもっと上手にフォジャールしたはず、つまり二十世紀末のチリのサンティアゴに生きていれば、本のなかでよりもっと上手にフォジャールしていたに違いないからだった。(35-36)

「フォジャール」というのはfollar、つまりセックスするという意味の単語で、きわめてスペイン的な単語だから、あまりチリでは使わないはずだけども、エミリアがこの語を使うことを提唱するのだ。

で、それにしても、エンマ・ボヴァリーが床上手かどうかなどと、考えながら読んだことないな、そういえば。色気も盛りの10代の少年少女の読みはすごいなと思うのであった。

このふたりは、お互いにプルーストを全部読んだと嘘をつくところからつき合いを始めたふたりだ。こうして本を読んでいくうちに、『失われた時を求めて』に突き当たらざるを得ない。そのさいの駆け引きが面白い。

二人とも、今回一緒に読むことが、まさしく待ち望んでいた再読であるかのように装わなくてはならなかったので、特に記憶に残りそうな数多い断章のどれかにさしかかると、声を上ずらせたり、いかにも勝手知ったる場面であるかのごとく、感情をあらわに見つめ合ったりした。フリオに至っては、あるとき、今度こそプルーストを本当に読んでいる気がする、とまで言ってのけ、それに対しエミリアは、かすかに悲しげに手を握って応えるのだった。
 彼らは聡明だったので、有名だとわかっているエピソードは飛ばして読んだ。みんなはここで感動してるから、自分は別のここで感動しよう、と。読み始める前、念には念をということで、『失われた時を求めて』を読んだ者にとって、その読書体験を振り返ることがいかに難しいかを確かめ合った。読んだあとでもまだ読みかけのように思える類の本ね、とエミリアが言った。いつまでも再読を続けることになる類の本さ、とフリオが言った。(37)

いいな。これ、ボラーニョ『2666』の話題になったときにでも使いたいな。

いや、ぼくは実際、ボラーニョは読んだのだけど、読んでもなお、読み尽くしていないと思える本について語ることは、読んでもいない本についてごまかしながら語ることに似ているという、そんなことに気づかされる。


そしてそれはきっと男女間の営みというか、関係というか、それに似ている。