2025年5月6日火曜日

思い出にとらわれる

テレビが邪魔になって受像機を手放し、数年間、観ずにいた。テレビ番組で必要なものはNHK+ や TVer で観た。DVDやブルーレイを観るときはプロジェクターを使っていた。


が、プロジェクターはそのために常設でないスクリーンを本棚の前に掛けたりするなどの準備が必要で、億劫だ。配信はPCのモニター(27インチ)で観ればいいが、ディスクはそのうち観なくなった。そこで考えた打開策が、これ。



ポータブルTV。(写真は何週か前のクラシック音楽館の模様)


ふだんは台の上にしまい、必要なときだけテーブルに載せて観る。ディスクを観るためのセットアップもプロジェクターよりははるかに楽なのでいい。


で、今日、古いTVに使っていたHDDレコーダーに録画したものをチェックしていたら、けっこう色々と録画している。映画や、友人の出た番組、資料になりそうないくつかの教養番組・ドキュメンタリーなどだ。僕は以前、BBCが製作しNHKが放送した2002年のベネズエラのクーデタ未遂事件の検証番組を、録画せずにただ観るだけ観て後から後悔したという経験から、いくつかの番組を録っておいたようだ。


そのなかに、かつてNHKBS2で放送されていたBSブックレビューで佐々木敦が『野生の探偵たち』を紹介したものの録画があった。つい見直してしまった。懐かしさにしばし茫然とした。


ところで、いまでは小さなHDDでもTV番組を録画できるのだが、この昔の、DVDプレーヤーを兼ねるHDDレコーダーのデータ、どうにかしてそんなHDDに移行できないだろうか? データの移行と、それを終えた後の昔のプレーヤーの処分が頭の痛い問題なのである。

2025年5月5日月曜日

映画週間第二弾あるいは詩的昂揚について

昨日、5月4日(日)には


ラウラ・シタレラ、メルセデス・ハルフォン『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』(2019を下高井戸シネマで観た。


フアナ・ビニョッシ(1937-2015)の遺品整理を託された若い世代の詩人メルセデス・ハルフォンが、その様子をシタレラたちの映画クルーに託し、かつ、その映画人たち撮影の様子を観察したもの。映画人から詩人への詩人から映画人への視線の交錯から疑似土キュメンたりーのような物語が立ち上がる作品。映画人は詩人の探求の作業に演出を入れようとして指図する。メルセデス(詩人)は記録を求め、ラウラ(映画人)はフィクションを求める。朗読によって集団性を目指す詩人に対し、端から集団的な創作体制である映画人たちはフアナの詩を朗読(音読)できずに銘々に黙読するだけ。


そこでみつけたある本(アレクサンドラ・コロンタイ『性的に解放された女の自伝』)の「私」を「私たち」と複数形にすべきだとのフアナの書き込みは、同時期に撮影していた『トレンケ・ラウケン』への道筋を開く。


フアナの詩は、映画内での若い詩人たちの朗読として、オフの声として、テクストとして提示される。詩を朗読する者のうちに三度ばかり読み直す人物がひとりいる。三度目に読むときには彼には明らかにある種の気分の昂揚が見られる。詩の読み方が明らかに最初とは異なっているのだ。


スペイン語の詩の朗読は、伝統的にはアクセントのある音節を強調し、普段より長めに発音するものだ。E—sta no—che, pue—do escribi—r el ve—rso má—s tri—ste del mu—ndo という具合だ。パブロ・ネルーダなどはこうした読み方を保持していた。近年失われてしまったこうした調子に、少し近づいているということだ。これが詩的昂揚。


この朗読者がこの昂揚を獲得する瞬間が、実に感動的であった。


写真はとある街角の風景。

2025年5月3日土曜日

映画週間

 ゴールデンウィークという語が映画産業の作った語であることは良く知られているところ。今でもこの連休には観たい映画が多くて困る。

4月29日には:

ウカマウの映画祭@K’s Cinemaでホルヘ・サンヒネス『女性ゲリラ、フアナの闘い――ボリビア独立秘史』メルセデス・ピティほか、2016

 独立後のフアナ・アスルドゥイの家にボリーバルとアントニオ・ホセ・デ・スクレ、ホセ・ミゲル・ランサがやって来て、フアナの半生を語らせるという内容。夫のマヌエル・パディージャとともに独立戦争に参加、中佐にまでなる。夫は裏切られ、殺される。子供4人はマラリアなどで死ぬ。最後にひとりだけ残る。独立後も地方の有力者は単に新しい体制に従順にしているだけで、先住民問題などは解決していないことを別れ際のボリーバルらに強調する。


 ウカマウもこうした歴史物語を作るのだ。ロングショットや長回しの多用というウカマウの自家薬籠中のものとした手法で、見飽きない絵作りをしている。


 ちなみに、このフアナ・アスルドゥィのことをカルペンティエールは前置詞つきで、フアナ・・アスルドゥィと表記しているものだから、僕もついそう発音したくなる。


今日、53日は:


ラウラ・シタレラ『オステンデ』ラウラ・パレーデス他、アルゼンチン、2011


 先日ここで報告したように、『トレンケ・ラウケン』がひどく面白かったので、その作品の公開を機に展開されているラウラ・シタレラ作品特集で。今日は渋谷のユーロスペースで観た。


 ラジオのクイズ番組でオステンデの町への旅行が当たったラウラが、そのホテルで出会った中年男性ひとりと若い女性ふたりの関係に謎を感じる。週末を利用して合流した恋人フランシスコと合流するために部屋、というか棟を替えたラウラだが、その3人組も新たな棟に姿を現し、謎は深まる。その3人の関係を色々と推理したラウラはフランシスコに話すのだが、どれも決定打に欠ける。


 時間切れでふたりはブエノスアイレスに戻っていく。その後の3人の様子をカメラはロングショットで捉える。そこでショッキングなラストが訪れる。


 そこからエンドクレジット。そしてクレジットが終わっても暮れ行く海岸が映される。潮騒が鳴り響く。最後に暗くなって何も見えなくなり、映画は終わる。


 アルゼンチンだからというわけではないが、おのれの推理におぼれる刑事を描いたボルヘスの「死とコンパス」を思い出す。あるいはハビエル・マリーアスの『女が眠る時』。


 謎の3人の関係は最後まで明らかにされない。ただショッキングな最後が示されるだけ。被写界深度を利用したボケを多用し、またラウラの窃視が電話や第3者の介入によって切断されることによって、謎の3人の行動の肝心なところが見えない。それが謎を増し、観客もおのれの推理におぼれていくことになる。



写真は先日、若い友人たちと行った八丁堀のビストロ。美味であった。



2025年4月2日水曜日

映画は熱意に支えられている

『トレンケ・ラウケン』試写。ラウラ・シタレラ監督。2022年、アルゼンチン、ドイツ

 二部構成で4時間20分ほど。が、
ふたつのパートがそれぞれ別のジャンルといえる作りなので、飽きない。

 第一部は失踪した植物学者ラウラを探す彼女の恋人ラファエルとエセキエルのロードムーヴィーにも見えるミステリー。ラウラはトレンケ・ラウケンの町で期間限定のプロジェクトで植物調査にきているのだが、その期間が終わっても帰ってこず、それを訝しんだ恋人が、現地で彼女の運転手のような役目を務めていたエセキエルと、いろいろな証言を集めて回る話。ラウラは図書館で借りた本に秘密に隠されていた手紙を見つけ、芋づる式にとある秘められた恋の物語を作っていく。

 第二部は一転して怪奇幻想譚といった雰囲気。実はラウラの失踪は、第一部で語られた些細な事件にかかわっていることが明かされていく仕組み。いずれの部も最後はパンパを足で歩く女性の話になる。

 とあるスペイン語圏の映画を研究する大学院生が個人で買い付け、昨年末、下高井戸シネマで四日間限定の公開した(僕はインフルエンザに罹り行けずじまい)のが好評で、このたび、配給会社がつき(ユーロスペース)、公開されるとのこと。めでたい。

 ついでにラウラ・シタレラ監督旧作三本も公開とのこと。なおめでたい。



写真は友人の帰省土産。ボンタンアメの会社のボンタンアメ以外の主力商品。

2024年11月8日金曜日

正しく投石すべきであるということ

パトリシオ・グスマン『私の想う国』(フランス、チリ、2022


試写に呼んでいただいたので、観てきた。


前作『夢のアンデス』(2019公開に際してパトリシオ・グスマンにインタヴューし、LATINAのウェブ版(note)に発表したのだった(リンク)。そのときグスマンは既に次回作のポストプロダクションに夢中で、今、チリでは凄いことが起こっているのだと興奮気味に語っていた。その次回作が、この作品。


2019年、地下鉄料金の値上げに反対し、サンティアーゴ・デ・チレの人々が金を払わず、入り口のバーを飛び越えて利用するようになった。それをやめさせようとする当局との間の衝突から始まるデモが拡大した。時の大統領セバスティアン・ピニェーラは「戦争」と宣言してデモの弾圧に乗り出した。放水車や催涙弾を放つ警官隊(carabineros)に対し、デモ隊は投石で対抗。当局はさらにこのデモを報道するジャーナリストたちの目すらも狙うようになる。それに抗議し人々は片目を閉じた姿で「お前の沈黙は共犯だ」とのシュプレヒコールを合唱する。こうした抗議運動はやがて憲法改正の要求へと繋がり、改正をするか否かを問う国民投票が実施され、可決され、憲法改正議会が開かれることになる。


こうした過程を追ったのが今回の作品の内容。『チリの闘い』からのものと思われる(あるいはその前の『最初の年』か?)かつての民衆運動をめぐるフッテージがところどころに挿入され、政党主導の運動であったかつてのそれとの対比で自然発生的に持ち上がってきた現在の運動が描かれる。監督が「最も驚いたことのひ一つ」としてあげたかつての、アジェンデ時代のシュプレヒコール “El pueblo, unido, jamás será vencido” (団結した民衆は決して打ち負かされない)が湧き上がるさまを捉える。ある種の連続性を印象づける瞬間だ。


が、もちろん、50年前と現在では運動は異なるものになる。現在のデモ隊は飛び跳ね、踊り、歌い、楽しそうだ。楽しいだけでなく、やはり何と言っても2019-20年の運動を特徴づけるは、目隠しをした女性たちが大勢で歌い、踊り、指さす、「暴行犯はお前だ」El violador eres tú の詩のパフォーマンスだ。女性への暴力やフェミサイドに抗議するこの集団パフォーマンスが今回のチリの運動に加わったことの効果を、映画は伝えている。この50年の間にもたらされた運動の変質を示しているのは、その音楽性だけではなく、女性がその運動の中心にいるということなのだ。憲法制定議会で発言する者も、その議長も女性だった。インタヴュイーのひとり、ジャーナリストのモニカ・ゴンサーレスの言うとおりだ。軍政時代に行方不明者を探して国中を歩き回った女性たちが、やっと家庭に戻ってどうにか通常の生活を始めたのだ、ここから先へは一歩も後戻りできない、と。


映画はガブリエル・ボリッチが大統領に選ばれたところで終わっている。実際のその後のチリでは、映画で扱われた制定議会の提案した憲法草案は国民投票で否決され、新たな右派優勢の制定議会ができ、しかし、彼らの起草した憲法案も否決された。映画内のインタヴュイーのひとり、チェス・プレイヤーのダマリス・アバルカは、最も恐れていることは結局ピノチェト時代の憲法がそのまま残ってしまうことだと懸念を表明していたが、現実にはその懸念どおりになったわけだ。民主主義は時間のかかる過程なのだ。この現実の挫折までもが今作の価値に含まれるべきだろう。


それでも、憲法改正の国民投票にいたるまでの過程は実に興味深く、コンフォーミストだらけの腐った国に住む身としては、チリの人々の行動が身もだえするほどにうらやましい。


1220日、21日公開。



かつて、引っ越しの途中にトラックのタンクをぶつけてしまった隅石。『私の想う国』は石の映像に始まり石の映像に終わるものだったので。

2024年11月7日木曜日

さざめきに殺される

前回の投稿で予告したとおり、


ロドリゴ・プリエト『ペドロ・パラモ』(Netflix2024)脚本:マテオ・ヒル


を観た。考えていたより長く、日をまたぐことになった。


言わずとしれたフアン・ルルフォの小説の映画化作品だ。小説版『ペドロ・パラモ』はフアン・プレシアード(テノチ・ウエルタ)を語り手に、彼が母親ドローレス(イシュベル・バウティスタ)の遺言によって父親ペドロ・パラモ(マヌエル・ガルシア‐ルルフォ)に会いにコマラという田舎町にやってくるところから始まる。ところが、ペドロ・パラモは死んでいるというし、それを教えたロバ追いのアブンディオ(ノエ・エルナンデス)もペドロ・パラモの息子だと言い張るし、やってきたコマラはゴーストタウンのようで、迎え入れたエドゥビヘス(ドローレス・エレディア)は死者と話ができるようだし、どうやって知ったのかわからないダミアーナ・シスネーロス(マイラ・バターヤ)がフアンを迎えに来るものの、彼がついていったら彼女は途中で消えるし、どうにもあやしい雰囲気である。コマラでは死者たちのささめきがするのだ。そのささめきがペドロ・パラモの過去を語るし、フアンもいつしか、自分もまた死んでいることに気づいたりする。断片形式でいったり来たりしながら語られるので、ストーリーを再構成するのが難しい/楽しい話だ。僕もダミアーナ・シスネーロスとかバルトロメとスサナのサン・フアン父娘などの名をはっきりと覚えているのだが、ストーリーはそのつど再読しないと忘れてしまいがちだ。


映画版は、断片化という原作の性質をそのままに、しかし、小説にある簡潔さに対し、説明的なシーンなどを添えてストーリーを分かりやすくしている。これまで何度読んでも筋を忘れてしまっていた僕も、なるほど、確かに、あれはああいう物語だった、と納得できるのである。そうして明らかにされるペドロ・パラモの生涯についてはここで事細かに紹介はしないが、小説を未読の者にとっては、結末はなかなかにショッキングである。あれ、こんな話だっけ? と思って読み返してみると、いや、確かにこの結末のつけかたは小説を忠実になぞっているのである。つまり原作を読んだものにも充分にショッキングである。


コマラでのフアンの行動は夜の闇につつまれ暗く、過去の回想は明るく、まだ緑も多い田舎を背景にしており、コントラストが印象的だ。ペドロの右腕フルゴール(エクトル・コツィファキス)の最期のシーンなどは、さすがはスコルセーゼ(スコセッシ)の撮影監督で知られたプリエトらしく、印象的だ。フアンが自分が死んでいることに思い至るシーンも、ルーベンスのようで、一興。


昨日行った砧公園の最寄り駅・用賀駅

2024年11月6日水曜日

メキシコ三昧

歯医者を終えて行ったのが北川民次展「メキシコから日本へ」@世田谷美術館



北川民次は壁画運動が始まったころのメキシコに学んだ画家。芸術教育にも参加し、帰国後もそのような活動をした。Contemporáneos などにも取り上げられた。その民次の作品を網羅した展覧会であった。


取って返してアルトゥーロ・リプスティン『境界なき土地』(1978)@東京国際映画祭・ラテンビート映画祭@ヒューマントラストシネマシャンテ有楽町


ホセ・ドノソの同名の小説をメキシコを舞台に置き換えホセ・エミリオ・パチェーコやマヌエル・プイグが脚本に参加してリプスティンが映画化した作品。ドン・アレホ(フェルナンド・ソレール)という有力者が取り仕切る田舎町の娼館が舞台。ラ・マヌエラ(ロベルト・コーボ)と呼ばれる性倒錯者のショウダンサーがラ・ハポネサ(日本人女性/ルチャ・ビーヤ)と呼ばれる経営者兼娼婦の野望から彼女と関係を持ち、そこでできた娘ラ・ハポネシータ(アナ・マルティン)と店を継いで暮らしている。彼女がドン・アレホに面目を潰されたパンチョ(ゴンサロ・ベガ)との駆け引きに失敗し、殺される話。マチスモとかホモフォビアが辛いストーリーだ。


赤が印象的な映像と、カタストロフの対決がリプスティンらしい。


そして、たぶん、今日はこれからNetflixで『ペドロ・パラモ』を、もう観られるはずだ。


写真は用賀駅から世田谷美術館(砧公園)に向かう道すがらの光景

2024年11月3日日曜日

田中一村とガルシア=マルケス

1030日には田中一村展@東京都美術館を観に行った。一村は50にして奄美に渡り、そこの自然を描いた日本画家で、そんな経歴から「日本のゴーギャン」と呼ばれたりもするが、作風はむしろアンリ・ルソーを思わせるように僕には思える。で、ともかくのその彼にかんしては近年、知られていなかった作品の発掘が進んでいるようで、この展示会でもそうした作品を展示しているようである。それら、主に奄美渡航以前の作品が実にいい。


平日の昼間なのに人がたくさんいて戸惑った。NHKが何度かにわたってこの展覧会および一村の業績などを紹介しているので(僕はそれらを事後、NHK+で観たのだった)、その影響もあるのだろうか?


写真は夕暮れに映える都美。

112日(土)には第9回現代文芸論研究発表会というものがあった。その第3部では「文庫で読む『百年の孤独』:今読む意義」というシンポジウムをやった。まず僕が『百年の孤独』文庫版に対するメディアの反応を紹介した。次いで久野量一さんが『百年の孤独』のカリブ世界への開かれ方を具体的な他の作品をあげて示した。棚瀬あずささんが作品内の女性の扱いについて分析し、女性は円環の時間を司っているのだと紹介した。最後に野谷文昭さんがユーモアとアナクロニズムについて、冒頭、みずからを「語り部」と位置づけたやり方で語った。久野さんのホセ・アルカディオ(バナナ会社監督になるJ.A.)が生き残った者の罪悪感を抱いているという指摘や棚瀬さんのメメは唯一マコンドの滅亡後も生き残るという指摘には目からうろこが落ちた。 


盛況であった。このシンポジウムの様子は『れにくさ』に収録される予定。

2024年10月31日木曜日

また日記を怠ってしまった

9月4日(水)には大江健三郎文庫設立1周年記念シンポジウムというのに参加し、「大江健三郎とメキシコ」という話をしてきた。


その後、名古屋での集中講義。


10月4日(金)には前日に北海道の常呂町(現・北見市)に飛び、常呂高校で講演をしてきた。常呂には東大の考古学演習施設があり、その関係で常呂町(北見市)との間に毎年、市民講座などが開かれている。それとセットで常呂高校での講演会がある。今年は僕がそれに当たったという次第。翌日が立教での授業だったので、とんぼ返りであった。



10月31日(木) ペドロ・アルモドバル『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』(スペイン、USA、2024)@東京映画祭


作家のイングリッド(ジュリアン・ムーア)が旧友の戦場記者マーサ(ティルダ・スウィントン)が癌になったと聞きつけ、久しぶりに会いに行く。マーサは娘のミシェルとの不仲の理由などについて話す。癌治療がうまく行かないことを知ったマーサは安楽死を望み、人が死ぬのに重要なのは誰かが隣の部屋にいてくれることだと言い、ウッドストック近くの一軒家を借りてそこで自殺するので、隣の部屋にいてくれるようにとイングリッドに頼む、という話。


アルモドバルらしい都会(ニューヨーク)のアパートの窓の向こうに見える高層ビル、エドワード・ホッパーの絵をそのまま再現したような家、スペインを舞台にしたものに比べて抑え気味ではあるものの、鮮やかな色使いが飽きさせない映像を作っている。


僕はアルモドバルとスウィントンは似合いの組み合わせだとは思うのだが、それがなぜなのかはよくわからずにいた。ところが、彼女の最初の登場シーンで一気に理解した。アルモドバルは真上からのショットが印象的な作家だ。スウィントンは寝そべった姿が似あう人物だ(ジャームッシュの『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』にそんな印象的なショットがあったように記憶する)。寝そべるスウィントンを上から撮ったショットで目からうろこが落ちるのだ。


原作はSigrid Nunez (シークリット・ヌーネスおよびシーグリッド・ヌーネスの表記でいくつか翻訳がある)のWhat Are You Going Through 。ヌーネスはヴァージニア・ウルフのファンで知られるから、The Room Next Door は「(鍵のかかる)隣の部屋」なのだろう。ウルフの「病気になること」などが意識されているのか、スウィントンの横臥した姿勢が印象に残る。そしてウルフ以外ではジョイスの「死者たち」およびその映画化作品『ザ・デッド』(ジョン・ヒューストン、1987)のモチーフが踏襲されている。窓の外の雪だ。

2024年9月1日日曜日

秋に備える

昨日、8月の最終日は大学院夏期入試の日で、夕方にはこういう場所に行った。



中板橋のマリーコンツェルト Maly Koncert30人ほどを収容する小さなホールだ、ここでDUO CHISPAのコンサートを聴きに行ったのだ。これはギターの林祥太郎とチェロの鈴木晧矢とのユニットで、林の You Tube での告知に出くわしたので、比較的近くだし、行ってみようかと思った次第。


2曲め、というか、2つ目の演目、ファリャの「7つのスペイン民謡」からの3曲で盛り上げ、スティーヴン・ゴスの「偶像の庭園」で格好良くまとめた。それが第1部。第2部はブラジルの楽曲2曲にピアソラ3曲の南米シリーズ。ピアソラの「ル・グラン・タンゴ」はロストロボーヴィチに書いた曲だそうで、つまりチェロ曲であるそれをギターとともにやるのは初めてだとか。これが本当に素晴らしかった。



最近何度か You Tube に『アニー・ホール』のクリップをいくつか見せられた。僕も何度も観た映画のはずなのに、ウディ・アレンがチェックのシャツをよく着ていることに改めて気づいた。僕は服の着こなしはほとんどウディから学んだようなものなのだが、そのわりに、チェックのシャツはあまり持っていない。ギンガム・チェックのやつとタータン・チェック(というか、ブラックウォッチ)のやつが1枚ずつといったところか。そろそろ秋冬物が出回るころなので、何か、たとえば、久しぶりにタッターソールのシャツでも1枚買おうかと思いついたのだった(ウディがタッターソールを着ている姿は記憶にないが)。僕は学生時代にはタッターソールのシャツを気に入ってよく着ていたのだが、いつの間にか着なくなっていたのだった。


そんなことを考えているときに、あるビルに入ったユニクロの前を通ったときに、見つけてしまったのだ。


タッターソールのシャツ。学生時代のお気に入りの赤を基調としたものでなく、茶色ベースのものだ。オックスフォード織りでもない。ましてやユニクロだ、年収1億と100万の者がいてもいいとほざいたネオリベ野郎・柳井正の会社だ。柳井は先日も日本は滅びるなどと、滅ばせた本人のくせしてうそぶいていた。そんなやつの会社に金を落とすなど、屈辱ではあるまいか? 


でもまあ、買ってしまったのだな。経済に負けてしまった。


この秋は恥と罪悪感を背負ってこのシャツで過ごすことになるのだろうか……