2011年11月30日水曜日

罵倒する愛

ついに出来。フェルナンド・バジェホ『崖っぷち』久野量一訳(松籟社、2011)

「ついに」というのは、松籟社の「創造するラテンアメリカ」のシリーズがついに配本開始という意味で、かつ、バジェホがついに翻訳されたという意味でもある。ご恵贈くださったので感謝もこめるなら、ご活躍著しい久野さんの意外なことに初の単独訳という意味でも「ついに」。

2003年のロムロ・ガジェーゴス賞受賞作品だ。2002年にぼくがベネズエラに行ったときに、酒場で会った批評家に最近では何か面白いのあったかい、と訊いたところ真っ先に名が挙がったのがこの作品。エイズで死にかけているホモセクシュアルの弟に会いに久しぶりにメデジンに戻ってきた兄の独白。作品中の弟の名が作者の実の弟と同名で、表紙にもフェルナンドとその弟の幼いころの写真が使われていて、自伝的な装いなのだ。泣ける。

来年度、これら新しい作品について授業で取り扱う予定なので、どこをどう扱うか、これからじっくり吟味したいところ。しかし、誰もが目にする書き出しは、すばらしい。

 ドアが開くなり挨拶もなしに飛び込んで階段を駆けあがり、二階のフロアを横切って突き当たりの部屋に押し入るとベッドにくず折れてそのままぴくりともしなかった。思うに、あいつはいずれ身投げする死の崖っぷちまで来て自分から解放され、久しぶりに子供のころみたいに安らかな日を過ごしたんだ。(5ページ)

訳者久野量一は、「あとがき」でコロンビアの作家にとって避けては通れないガルシア=マルケスとの対比を持ち出しているが、この書き出しなど、ガボと比べて豊かな比較ができそうだ。ガルシア=マルケスは最初から寝そべっている人間に死のイメージが去来する書き出しをいくつかの作品で用いているが、これはどうだ! 水平と斜め上への移動があり、暴力的な伏臥があり、しかる後に、垂直方向への落下のイメージがあって他者の死が重なる。静的なガルシア=マルケスの死とみごとに対比を描きながら、かつ、読点の少ないリズムある文章が読者に心地よく響く。

読点の少ないのは、翻訳の勝利。原文はむしろコンマが多く、それが逆にリズムを作っているのだが、翻訳は逆にすることで日本語のリズムを作っている。

いいね。

そしてまたこの小説。汚い言葉遣いが切ないのだな。久野によれば、「人が何かを憎むこと、否定することができるのは、その対象を限りないまでに愛した経験があるから」(「あとがき」、208)とのこと。

2011年11月28日月曜日

亀裂を入れる

先日、ゼミでちょっとうろ覚えで正確でないままに挙げた書が、幾人かの学生の興味を惹いたらしいので、確認。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』大浦康介訳(筑摩書房、2008)

そうそう。バイヤール。で、こんなタイトルであった。

本気でタイトルどおりのマニュアルだと思われてもこまるのだが、そういうマニュアルのふりして、小説や映画の中の登場人物が読んでもいない本についてコメントする場面を分析し、本は読まなくても大丈夫、と言う本だ。つまり、立派な文学作品分析なのだ。

で、おそらく、この本の最大の主張は、本は「複雑な言説状況」の「対象というより結果にすぎない」(161)ということと、本について語ること、つまり書くことは、そこに第三者(他者)が介入してくる行為なので、「この第三者の存在が読書行為にも変化を及ぼし、その展開を構造化するのである」(142)ということ。

いったんどんな本でも一種の言説の網の目に捕らえられてしまえば、読者としてはその網の目を捉えていれば読まなくても読んだふりはできる。そして、事実、そのように本は流通する(だから書いた本人は、違う、違うぞ、俺はそんなことを言おうとしたのじゃない、と叫ぶ)。もし「読む」という行為が他の人々を驚かせるようなものになり得るとすれば、ある特定のテクストが捉えられている言説の網の目を移し替えたり、そこに亀裂を入れたりすることによってのみなのだろう。

そしてそんな読みができるとすれば、反語的だが、「読む」という行為とは相容れない、それを変質せざるを得ない書く行為によってのみだ。

読んでばかりいると書けない。書くためには読めない。読めないけど読んで書くしかない。たくさん書く人がたくさん読む人であるのは、そういう道理なのだよな。

ボラーニョとベンヤミンなど読まなくても、ボラーニョのメキシコ市記述におけるフラヌール的な要素についてはいくらでも云々できる。が、それがうまくできるだけでは、つまらなくなっていく。実はボラーニョのメキシコ市がそんなものですらないということを示したなら、ぼくは、ひょっとしたら、ボラーニョやらベンヤミンやらボードレールを読んだと言える……のだろうな。そしてアルフォンソ・レイェスを。

立教での講演を終え、ボラーニョとアルフォンソ・レイェスが近づく様子が見えたように思ったので、今度の土曜日はそんな話を京都でしてこようと思う。

2011年11月27日日曜日

講演と公演

そんなわけで、隣の芝生は常に青い立教大学に行ってきた。第42回現代のラテンアメリカ 講演会。

ぼくは原稿を用意し、しかもそれを読まずにだいぶ端折って話し、大御所原広司は気持ちよさそうに思い出を手繰りながら、自らの仕事を顧みた。

ぼくが話したのは集合的記憶の場としてのメキシコ市の3つの広場を巡るテクストの数々、国家と宗教、宗教と民衆、国家と個人、などが記憶を巡って思い思いのテクストを紡ぐ場。こうしたメキシコ市のスポットをあと6つ7つまとめて、本にする予定だ。

日曜日は燐光群『たった一人の戦争』作・演出、坂手洋二@座・高円寺。檜谷(ひのたに)地下学センターという、やがて核廃棄物処分場となるべく、そのための研究を行う地下1,000メートルの施設で、施設公開の見学に来た客のうち、反逆的なグループが、政府の思惑を晴らすどころか、それぞれにさまざまな思惑を抱えた人物であることが露呈されていくという近未来SF。観客(つまりわれわれ)もこのセンターの見学者のひとりとして、まずはツアーに参加、劇場の漆黒を経験するというおまけつき。加えて、事前に取ったアンケートによっても、参加が可能。最近翻訳が出たばかりのナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』幾島幸子、村上由見子訳(岩波書店、2011)なども匂わせながら、福島以後の日本を考えるSFに仕上がっている。

パンフレットの「ごあいさつとお願い」の文言が優れている。

そこは蛍光灯に照らされた無機的な灰色の世界です。同じ目的の施設なので当然なのですが、フィンランド映画『100,000年後の安全』に登場する「オンカロ(隠れ場所、の意味)」を想起させる、静謐な回廊があります。

影響というか原典を逆転の上、こんなふうにさりげなく示唆するこの感覚は、すばらしい。開始前、読みながらくすっと笑うと、もう『たった一人の戦争』の世界に入っている、という仕掛けだ。

2011年11月23日水曜日

42年後の恋人

この9月にラテンビート映画際で黒木和雄『キューバの恋人』(1968)というのを見た。実はこの映画の撮影から40数年経って、マリアン・ガルシア=アランが『アキラの恋人』(2010)というドキュメンタリー映画を撮っている。当時のキューバ側の関係者にインタビューした作品だ。その編集フィルムを見せてもらった。実に興味深い。

『キューバの恋人』製作に関係する証言(主役の女優は最初、デイシー・グラナドスが考えられていたとか、彼女が実は、結局プロの女優ではないオブドゥリア・プラセンシアがやった役の吹き替えをやっているのだとか、マグロ漁でキューバに滞在して悪さしていく日本人船乗りがたくさんいたのだとか……)もさることながら、黒木の映画を迎え入れることになるキューバの映画事情を、当時の関係者や批評家が説明するくだりなどは、本当に貴重だと思う。

キューバでは1961年に短編記録映画 PM の上映禁止という出来事が起こり、映画芸術機関ICAICにいたギジェルモ・カブレラ=インファンテが辞職するという騒ぎがあった。カストロが知識人を集めて「革命内にとどまるならすべてが許される。外に出たら何も許されない」との演説をすることになった決定的な事件だ。

その後に68年が来る。PM事件があったけれども、キューバ国内ではヌーヴェル・ヴァーグだのブラジルのシネマ・ノーヴォだのが受容されていた。62年に社会主義路線を取ることを正式表明し、10月危機(いわゆるキューバ危機)などを経験して東西冷戦構造の真っ只中に引きずり込まれたキューバではあるけれども、しかし、たとえばチェコ侵攻に対してはカストロが批判するなどして、ソ連との関係も独自さを保っていた。これがソ連にさらに接近するのは71年くらいのこと(この年、悪名高いパデーリャ事件が起きる。キューバはCOMECONのへの参加に向かっていた)。つまりキューバはずっと難しい時期にあったのだ。この難しい時期、いわば第三の道として日本の映画を取り入れ、学ぼうという動きがあったらしい。だから『座頭市』などが受け入れられ、大きな人気を博すことになったとのこと。そんな雰囲気が、関係者たちによって示唆されているのが、『アキラの恋人』だ。そしてこの関係者たちは40数年経ってはじめて『キューバの恋人』を見せられ、口を揃えて当時のキューバを正直に映し出すドキュメンタリーのようだ、と評価している。

2011年11月18日金曜日

十字架の墓参りに行ってきた

今日は学祭(外語祭)の準備日なので、授業はなし。ほっと一息。

それで、行ってきた。清水透写真展『マヤの民との30年』@神保町ギャラリーCorso

清水透さんはいわずと知れた、ぼくの先生だ。別にぼくは彼に卒論や修論の指導を乞うたわけではないが、まあなにかと目にかけてもらっているし、ぼくとしてもなついている。

彼はメキシコ南部チアパス州のチャムーラという町で、30年(以上?)にわたってフィールド調査をして、オーラルヒストリーを書いている。文化人類学というよりは歴史学者と自認している人。その彼が研究の成果としての本ではなく、その余滴として撮り続けた写真を並べて個展を開いたわけだ。最後は慶應で教師人生を終わり、引退したのだが、引退後は教え子の写真家などにも教えを乞うたりしながら、写真の腕も上げたらしい。

定点観測のようにある一地点からの風景を、時間順にならべ、村・町の発展のさまを印象づけたり、村の役職者の盛装を飾ったりして、一種、学問的(?)雰囲気も作り出し、面白い。

ポスターに使われている写真は、カメラ自体もディジタルに替わってからのものだろう。80年代の写真と見比べると、いかにもディジタル的な深みが印象的だ。

こうした写真につけているキャプションが面白い。女性が靴を磨かせている写真のそれなど、楽しんで考えたのだろうな、と思う。あるいはものによっては学問的な(たとえば著書からの引用)説明をつけたり、慶應の学内報みたいなものに書いた文章を添えたりして理解を助けている。

こういうキャプションや補助のテクストを読んでいると、この人はそういえば文章がうまいのだと、今さらながら実感する。十字架の墓場という場所を写した3枚の写真はとりわけ印象的だが、こうした場所を見つける感性と、それを伝える文章の雰囲気とが実にマッチしている。

十字架の墓場は標高二千何百メートルだかの山の木々に囲まれた場所にある。それ自体が木々のうろか、でなければ洞窟の中かと見まがうかのような鬱蒼たる木々に抱かれて眠る十字架たち。

2011年11月12日土曜日

inconmensurableな世界

ちょうどひとつ仕事が終わった(正確には終わっていない。つまり、区切りがついた、という程度)ことだし、行ってきた:

国際シンポジウム「世界文学とは何か?」@東京大学

同名の本の作者デイヴィッド・ダムロッシュと池澤夏樹を迎え、柴田元幸、沼野充義、野谷文昭の東大現代文芸論教室が主催するシンポジウム。

基調講演のダムロッシュは「比較できないものを比較する——世界文学 杜甫から三島由紀夫まで」として杜甫、芭蕉、ワーズワース/モリエール、近松/三島、プルースト、紫式部、という三部構成で共約不可能(incommensurable)なものの比較を行った。

池澤夏樹は自らの編んだ河出書房新社の「世界文学全集」にこと寄せて、現代の世界を表したかったと述べた。ダムロッシュの本に勇気づけられ、自分が読んできたその行為こそが世界文学であったのだと気づかされた、とも。

ふたりの基調講演の後は名前をあげた全員が登壇し、まず迎える側の3名が、それぞれ自分の側からのコメントや質問を発し、後にフロアからの質問を受け付けた。

休憩を挟んで、4時間以上の長丁場。楽しいひとときであった。フロアからのコメントには翻訳家や作家などが手を挙げ、なるほど、「翻訳によって豊かになる」世界文学への関心の高さをうかがわせたのだった。

incommensurable:スペイン語ではinconmensurable。いつも訳に困る単語だ……と思って『リーダーズ英和辞典』を引いたら「同じ基準で計ることができない」とあった。あれ? リーダーズの定義って、さすがにわかりやすい。

そういえば、噴水が勢いよくあがっていたが、写真を撮ったら直後に止まった。ぼくがとどめを刺したみたいだ。

2011年11月8日火曜日

不勉強を恥ず。

先日告知の立教での講演だが、そこでトラテロルコのことも話そうと思う。68年10月のトラテロルコ事件のことにも触れないわけにはいかない。するとそれについて書かれた文物も気になるわけだが、やはり先日紹介した安藤哲行『現代ラテンアメリカ文学併走』によれば、トラテロルコについて書かれた小説は、ルイス・ゴンサレス・アルバ『日々と歳月』(71)、スポータ『広場』(71)、レネ・アビレス=ファビラ『官邸の深い孤独』(71)、マリア・ルイサ・メンドーサ『彼と、わたしと、わたしたち三人と』(71)、ゴンサロ・マルトレ『透明のシンボル』(78)(以上が直接に扱ったもの)、フェルナンド・デル・パソ『メキシコのパリヌーロ』(77)、ホルヘ・アギラル・モーラ『きみと離れて死んだら』(79)、アルトゥーロ・アスエラ『沈黙のデモ』(79)(間接的な言及、あるいは背景)とあるのだそうだ(18-19ページ)。

まいったな、ほとんど読んでいないな。本当に不勉強を恥じるのみだ。

などと考えていたら、『群像』12月号にはエナ・ルシーア・ポルテラ「ハリケーン」(83-93)なんて短編が久野量一訳で出ていた。岸本佐知子によるジョージ・ソンダーズ「赤いリボン」(72-82)の隣に。こちらも面白そうだが、ともかく、ポルテラ。

ハリケーン〈ミシェル〉の上陸する夜に家を出た「わたし」が事故に遭って死にかけるという短編。そしてその間、家では置き去りにした弟がハリケーンの犠牲になって死ぬ。親は亡命してUSAにいるし、兄は何年か前に殺されている。

ハリケーンの名前からビートルズの曲を思い出したり、「スティーヴン・キングでさえ、これほど身の毛のよだつ状況を描き出すことはできないにちがいない」とか、「でも弟にはアリョーシャ・カラマーゾフのような一面があって、それがはっきり言って耐えられなかった」(85ページ)という、比較的オーソドックスな、引用に基づく世界を作っていったかと思うと、弟がプロテスタントに入信したという話をしながら、「入信したのは福音派だったと思う。当たっているかどうかはわからないけれど。ルター派だったかもしれないし、アナバプティスト派だったかもしれないし、ペンテコステ派だったかもしれない……本当のところは知らない」(87)といった判断中止の描写をするところなど、実に面白い。今風だな、と漠然と思う。それを「今風」と言っていいのかどうかわからないけれども。ボラーニョとかアイラとか、そんな気もするし、そうでないような気もする。本当のところはよくわからない。

まったく知らない作家だった。こうした新顔の紹介を受けると、自らの不勉強を恥じるのみだな……と、2回目か。不勉強なのかどうかもわからないけど。

2011年11月6日日曜日

背中が痛い

11月26日と12月3日、2週連続して講演などをやるのであった。おこがましいのだ。

11月26日は立教大学ラテンアメリカ研究所での、「第42回 現代のラテンアメリカ」というやつ。2005年にもこの会でお話しをしている。

今回は、外語の出版会から出せと言われているあるシリーズの一巻としての本をまとめるために道しるべとなるような話にしようと思っている。それで、原稿を書いているのだ。土日はいずれも、午前中、これに取りかかっていた。午後と夜はなるべく翻訳の時間を作るようにしているが、ともかく、その原稿を書いている。

姿勢が悪いのだろう。背中が痛い。

2011年11月3日木曜日

訂正


やれやれ、あたしも焼きが回っちまったかね、昨日は「十大小説」と書かなきゃいけないところを「十代小説」なんて書き間違いをしちまって、これじゃあまるでYAみたいだ。

おや、ご隠居、今日はのっけから落語口調で、いってぇどうしたってぇんです?

いや、なにね、木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』(岩波書店、2011)なんていう本の紹介文を書けっていうから、あたしも忙しい身、急に言われたって困るんだが、幸い今日は休日、ひとつやってみようじゃないか、ってんで、すらすらすら……と書いたはいいんだけどね、書いてるうちに、この木村御大という人が、どうも落語家かなんかじゃないのかと思い始めてね、で、思い始めたら最後、もうそのことが頭から離れなくなって、それであたしの口調までこんなふうになっちまったってわけなのさ。

へぇー、なるほどね。で、なんですか、その木村屋榮吉さんとか御大山とか太田胃散とかいう人は、何をしている人で?

木村屋じゃなくて木村だよ。榮吉ではなくて榮一。お前さん、木村榮一も知らないのかい? まったく、近ごろの若い衆は本を読まなくなったというが、本当だねえ。木村榮一も知らないってんだからね。いいかい、木村榮一というのは、そりゃあ偉いラテンアメリカ文学の先生でね、翻訳もたくさん出していらっしゃる。もう定年でおやめになったけれども、神戸市外国語大学では学長まで務められたというお方だ。

その偉いお方が、定年でやめて、笑福亭一門にでも弟子入りなさったと……?

そうじゃないんだよ。そのお方が、先ごろ『ラテンアメリカ十大小説』なんて本を上梓なさって、それを読んでいると、あたしゃきっとこの人は落語家に違いない、ラテンアメリカ文学者とは世を忍ぶ仮の姿に違いないと、そう思うようになったってわけなのさ。

そりゃまたどういう了見で?

たとえばこの人はある章をこんなふうに始めるんだね。いいかい、読み聞かせるから、耳の穴かっぽじってよーくお聞きよ。

へい。

私たちは夢という言葉をよく使いますが、いろいろな意味で使い分けています。「昨夜これこれの夢を見たんだ」という時と、「子供の頃の夢は何だった?」というのでは意味がちがいます。彼はぼんやりと夢想にふけっていたという場合も、夢という言葉が用いられていますが、とりとめのない空想にひたることを意味しています。(153ページ)

どうだい? 

どうだいって言われましても、……あっしには何のことかさっぱりで。

ああ、もうこれだからいやだね、無学の人ってのは。いいかい、これはマヌエル・プイグってアルゼンチンの作家の『蜘蛛女のキス』という小説を紹介する章の冒頭だ。だいたい本なんてものは、こんなふうに始まったら、この章は夢の話かな、と思って読者は読み進めるものなんだ。するってえとプイグという人は、夢をテーマにした小説か何かを書いた人なんだな、と思うわけだよ。

違うんですかい?

これが違うんだね。ぜんぜんそうじゃないんだよ。何しろこの『蜘蛛女のキス』ってのは、政治犯とホモの性犯罪者が刑務所のひとつ部屋の中で映画の話ばっかりしているって話なんだから。

へえ。そりゃあ楽しそうな話ですね。でもそれが夢とどう繋がるんですか? 

そこだよ。さっきの書き出しに続けて、何しろフィクションというのは叙事詩から小説まで夢を語ってきたようなものだ、なんて話を始めるんだね。『ギルガメッシュ叙事詩』や聖書や『オデュッセイア』やと、プイグそっちのけでそんな話をしちゃうんだよ。そしてさんざん壮大な話をしていたかと思うと、

叙事詩、小説、映画、と夢の物語を語り伝える乗り物は変化してきました。ここにひとり、スクリーン上の映画を通して人々に夢を見させ、楽しませたいと考えて映画の世界に飛び込んだものの、挫折して映画を捨て、小説に活路を見出した作家がいます。それがこの章で取り上げるマヌエル・プイグです。(156)

なんてまとめて、ついっと本題のプイグの話に入っちまうんだよ。その語り口がなんだか見事でね、これはもうお堅い本というよりは、まるで落語の「まくら」みたいじゃないか、って思ったのさ。ちょいと世間話をして、ひとつ笑わせておいて、ちょっと無関係にもみえなくもない本題に入っていくけど、実はこのまくらと本題は話が繋がっていることも多い、というね……たいした名人芸じゃあないか。

(……)

うーむ。落ちが作れない! もちろん、書評はこんな口調で書いたわけではない。ま、以上は思いつきの戯れ言だ。ともかく、『ラテンアメリカ十大小説』の紹介、書いて送りました。日本ラテンアメリカ学会の会報、「新刊案内」のページだ。

2011年11月2日水曜日

揃い踏み


えっ? 木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』(岩波新書、2011)ですか? そりゃあ、読んでいますとも。職業柄、目は通してますよ。いや、目を通すってことは読んでるんですよ。でもね、だからっていきなり20日までに書評を書けってのは急な話じゃありませんか。なにしろ、今年の11月は殺人的に忙しい。本務校の授業が8コマ、リレー講義という名のオムニバス授業が当たっているから、今月は軒並みもう1コマ。そして非常勤が2コマ。合計11コマの授業です。年末までに終えなければならない翻訳は200ページ以上。締め切りすぎて書かねばならない原稿が100枚。11月26日と12月3日には講演をしなきゃならないんで、その準備もある。今日も今日とて本1冊読んでレポートをまとめたばかり……忙しいんですから。

でもね、こういうことは、あっしが断るとまた誰かのところにたらい回しで……ってんでしょ、わかりましたよ。書きゃあいいんでしょ、書きゃあ……書きますよ。明日は休みだっていうじゃありませんか。だからね、明日のうちにすらすらと……

と文字どおりそう言ったわけではないが、そんなやりとりをしたところに送られてきたのが、

安藤哲行『現代ラテンアメリカ文学併走:ブームからポスト・ボラーニョまで』(松籟社、2011)

安藤さんといえば翻訳もいくつもあるのだが、同時に『ユリイカ』に「ワールドカルチャーマップ」なんて連載をしていて、既に知られた作家の新作やまだ知られていない作家の作品などを紹介してきた人でもある。ぼくもたまには眺めて、自らの不勉強を反省し、新たな作家の存在を教えてもらったりしたものだった。その『ユリイカ』連載のものを中心にした短い文章を第2部に置き、それを挟むようにして比較的長い文章(やはり『ユリイカ』などに折に触れて書いてきたもの)6本を集めたのが、本書。木村榮一の本がいわゆるラテンアメリカ文学の〈ブーム〉とその直後のアジェンデまでを扱ったものであるなら、この本はそれ以後の展開を同時的にルポルタージュしたもの。並べて読み、20世紀を一気に駆け抜けるというのもひとつの読み方。

ちょっと開いて目をやるだけで、自分の勉強不足が実感される。ああ、俺はやっぱり本を読まない人間だったのだなあ……

2011年11月1日火曜日

マハはかつてマヤと言った


歯医者と仕事の合間に行ってきた。ゴヤ展@国立西洋美術館。火曜の昼ごろだというのに、人はだいぶいて、ゆっくり観てもいられなかった。まあ、ちょっと慌ててもいたのだが。で、西洋美術館の外。空の青がとても鮮やかだったので。

さて、このゴヤ展。いちばんの目玉は「着衣のマハ」ということになるのだろうか。大きな絵は数えるくらいしかなかった(ちなみに、「プラド美術館展」のときに来ていた「魔女の飛翔」は今回もあった。今回も、「ちゃちゃいな」と叫びそうになった)。むしろ版画の数々の充実に注目した方がいいのかもしれない。

版画なら大量生産可能な技術だから、美術館で観る必要もないだろう……というのは、間違い。そのための素描などを並べて版画制作の過程をうかがい知ることのできる仕組みになっている。

それにしても、人は多かったな。これはゴヤだからなのか、東京には芸術を愛する人がこれだけいるということなのか? 途中の電車で読んでいた論文などに影響されて、ガルシア=カンクリーニなどを思い出したのだった。メキシコの国立近代美術館で開かれたピカソ展に集まる人々、という話。

ところで、もうひとつ思い出したこと。ゴヤ展に寄せてシンポジウムなどが開かれるのだが、ある席上で同僚のスペイン史家、立石博高さんが、話す予定だとのこと。その原稿というか、メモのようなものをFacebookで公開していたのだが、そこに、彼がはじめてスペインに行った当時、1970年代、ゴヤの題材としてたびたび出てくる「マハ」の語は、日本では「マヤ」とされていた、との記述があった。こういう証言というのは貴重だな、と思う。