2024年11月8日金曜日

正しく投石すべきであるということ

パトリシオ・グスマン『私の想う国』(フランス、チリ、2022


試写に呼んでいただいたので、観てきた。


前作『夢のアンデス』(2019公開に際してパトリシオ・グスマンにインタヴューし、LATINAのウェブ版(note)に発表したのだった(リンク)。そのときグスマンは既に次回作のポストプロダクションに夢中で、今、チリでは凄いことが起こっているのだと興奮気味に語っていた。その次回作が、この作品。


2019年、地下鉄料金の値上げに反対し、サンティアーゴ・デ・チレの人々が金を払わず、入り口のバーを飛び越えて利用するようになった。それをやめさせようとする当局との間の衝突から始まるデモが拡大した。時の大統領セバスティアン・ピニェーラは「戦争」と宣言してデモの弾圧に乗り出した。放水車や催涙弾を放つ警官隊(carabineros)に対し、デモ隊は投石で対抗。当局はさらにこのデモを報道するジャーナリストたちの目すらも狙うようになる。それに抗議し人々は片目を閉じた姿で「お前の沈黙は共犯だ」とのシュプレヒコールを合唱する。こうした抗議運動はやがて憲法改正の要求へと繋がり、改正をするか否かを問う国民投票が実施され、可決され、憲法改正議会が開かれることになる。


こうした過程を追ったのが今回の作品の内容。『チリの闘い』からのものと思われる(あるいはその前の『最初の年』か?)かつての民衆運動をめぐるフッテージがところどころに挿入され、政党主導の運動であったかつてのそれとの対比で自然発生的に持ち上がってきた現在の運動が描かれる。監督が「最も驚いたことのひ一つ」としてあげたかつての、アジェンデ時代のシュプレヒコール “El pueblo, unido, jamás será vencido” (団結した民衆は決して打ち負かされない)が湧き上がるさまを捉える。ある種の連続性を印象づける瞬間だ。


が、もちろん、50年前と現在では運動は異なるものになる。現在のデモ隊は飛び跳ね、踊り、歌い、楽しそうだ。楽しいだけでなく、やはり何と言っても2019-20年の運動を特徴づけるは、目隠しをした女性たちが大勢で歌い、踊り、指さす、「暴行犯はお前だ」El violador eres tú の詩のパフォーマンスだ。女性への暴力やフェミサイドに抗議するこの集団パフォーマンスが今回のチリの運動に加わったことの効果を、映画は伝えている。この50年の間にもたらされた運動の変質を示しているのは、その音楽性だけではなく、女性がその運動の中心にいるということなのだ。憲法制定議会で発言する者も、その議長も女性だった。インタヴュイーのひとり、ジャーナリストのモニカ・ゴンサーレスの言うとおりだ。軍政時代に行方不明者を探して国中を歩き回った女性たちが、やっと家庭に戻ってどうにか通常の生活を始めたのだ、ここから先へは一歩も後戻りできない、と。


映画はガブリエル・ボリッチが大統領に選ばれたところで終わっている。実際のその後のチリでは、映画で扱われた制定議会の提案した憲法草案は国民投票で否決され、新たな右派優勢の制定議会ができ、しかし、彼らの起草した憲法案も否決された。映画内のインタヴュイーのひとり、チェス・プレイヤーのダマリス・アバルカは、最も恐れていることは結局ピノチェト時代の憲法がそのまま残ってしまうことだと懸念を表明していたが、現実にはその懸念どおりになったわけだ。民主主義は時間のかかる過程なのだ。この現実の挫折までもが今作の価値に含まれるべきだろう。


それでも、憲法改正の国民投票にいたるまでの過程は実に興味深く、コンフォーミストだらけの腐った国に住む身としては、チリの人々の行動が身もだえするほどにうらやましい。


1220日、21日公開。



かつて、引っ越しの途中にトラックのタンクをぶつけてしまった隅石。『私の想う国』は石の映像に始まり石の映像に終わるものだったので。

2024年11月7日木曜日

さざめきに殺される

前回の投稿で予告したとおり、


ロドリゴ・プリエト『ペドロ・パラモ』(Netflix2024)脚本:マテオ・ヒル


を観た。考えていたより長く、日をまたぐことになった。


言わずとしれたフアン・ルルフォの小説の映画化作品だ。小説版『ペドロ・パラモ』はフアン・プレシアード(テノチ・ウエルタ)を語り手に、彼が母親ドローレス(イシュベル・バウティスタ)の遺言によって父親ペドロ・パラモ(マヌエル・ガルシア‐ルルフォ)に会いにコマラという田舎町にやってくるところから始まる。ところが、ペドロ・パラモは死んでいるというし、それを教えたロバ追いのアブンディオ(ノエ・エルナンデス)もペドロ・パラモの息子だと言い張るし、やってきたコマラはゴーストタウンのようで、迎え入れたエドゥビヘス(ドローレス・エレディア)は死者と話ができるようだし、どうやって知ったのかわからないダミアーナ・シスネーロス(マイラ・バターヤ)がフアンを迎えに来るものの、彼がついていったら彼女は途中で消えるし、どうにもあやしい雰囲気である。コマラでは死者たちのささめきがするのだ。そのささめきがペドロ・パラモの過去を語るし、フアンもいつしか、自分もまた死んでいることに気づいたりする。断片形式でいったり来たりしながら語られるので、ストーリーを再構成するのが難しい/楽しい話だ。僕もダミアーナ・シスネーロスとかバルトロメとスサナのサン・フアン父娘などの名をはっきりと覚えているのだが、ストーリーはそのつど再読しないと忘れてしまいがちだ。


映画版は、断片化という原作の性質をそのままに、しかし、小説にある簡潔さに対し、説明的なシーンなどを添えてストーリーを分かりやすくしている。これまで何度読んでも筋を忘れてしまっていた僕も、なるほど、確かに、あれはああいう物語だった、と納得できるのである。そうして明らかにされるペドロ・パラモの生涯についてはここで事細かに紹介はしないが、小説を未読の者にとっては、結末はなかなかにショッキングである。あれ、こんな話だっけ? と思って読み返してみると、いや、確かにこの結末のつけかたは小説を忠実になぞっているのである。つまり原作を読んだものにも充分にショッキングである。


コマラでのフアンの行動は夜の闇につつまれ暗く、過去の回想は明るく、まだ緑も多い田舎を背景にしており、コントラストが印象的だ。ペドロの右腕フルゴール(エクトル・コツィファキス)の最期のシーンなどは、さすがはスコルセーゼ(スコセッシ)の撮影監督で知られたプリエトらしく、印象的だ。フアンが自分が死んでいることに思い至るシーンも、ルーベンスのようで、一興。


昨日行った砧公園の最寄り駅・用賀駅

2024年11月6日水曜日

メキシコ三昧

歯医者を終えて行ったのが北川民次展「メキシコから日本へ」@世田谷美術館



北川民次は壁画運動が始まったころのメキシコに学んだ画家。芸術教育にも参加し、帰国後もそのような活動をした。Contemporáneos などにも取り上げられた。その民次の作品を網羅した展覧会であった。


取って返してアルトゥーロ・リプスティン『境界なき土地』(1978)@東京国際映画祭・ラテンビート映画祭@ヒューマントラストシネマシャンテ有楽町


ホセ・ドノソの同名の小説をメキシコを舞台に置き換えホセ・エミリオ・パチェーコやマヌエル・プイグが脚本に参加してリプスティンが映画化した作品。ドン・アレホ(フェルナンド・ソレール)という有力者が取り仕切る田舎町の娼館が舞台。ラ・マヌエラ(ロベルト・コーボ)と呼ばれる性倒錯者のショウダンサーがラ・ハポネサ(日本人女性/ルチャ・ビーヤ)と呼ばれる経営者兼娼婦の野望から彼女と関係を持ち、そこでできた娘ラ・ハポネシータ(アナ・マルティン)と店を継いで暮らしている。彼女がドン・アレホに面目を潰されたパンチョ(ゴンサロ・ベガ)との駆け引きに失敗し、殺される話。マチスモとかホモフォビアが辛いストーリーだ。


赤が印象的な映像と、カタストロフの対決がリプスティンらしい。


そして、たぶん、今日はこれからNetflixで『ペドロ・パラモ』を、もう観られるはずだ。


写真は用賀駅から世田谷美術館(砧公園)に向かう道すがらの光景

2024年11月3日日曜日

田中一村とガルシア=マルケス

1030日には田中一村展@東京都美術館を観に行った。一村は50にして奄美に渡り、そこの自然を描いた日本画家で、そんな経歴から「日本のゴーギャン」と呼ばれたりもするが、作風はむしろアンリ・ルソーを思わせるように僕には思える。で、ともかくのその彼にかんしては近年、知られていなかった作品の発掘が進んでいるようで、この展示会でもそうした作品を展示しているようである。それら、主に奄美渡航以前の作品が実にいい。


平日の昼間なのに人がたくさんいて戸惑った。NHKが何度かにわたってこの展覧会および一村の業績などを紹介しているので(僕はそれらを事後、NHK+で観たのだった)、その影響もあるのだろうか?


写真は夕暮れに映える都美。

112日(土)には第9回現代文芸論研究発表会というものがあった。その第3部では「文庫で読む『百年の孤独』:今読む意義」というシンポジウムをやった。まず僕が『百年の孤独』文庫版に対するメディアの反応を紹介した。次いで久野量一さんが『百年の孤独』のカリブ世界への開かれ方を具体的な他の作品をあげて示した。棚瀬あずささんが作品内の女性の扱いについて分析し、女性は円環の時間を司っているのだと紹介した。最後に野谷文昭さんがユーモアとアナクロニズムについて、冒頭、みずからを「語り部」と位置づけたやり方で語った。久野さんのホセ・アルカディオ(バナナ会社監督になるJ.A.)が生き残った者の罪悪感を抱いているという指摘や棚瀬さんのメメは唯一マコンドの滅亡後も生き残るという指摘には目からうろこが落ちた。 


盛況であった。このシンポジウムの様子は『れにくさ』に収録される予定。