昨日の記事には『アイム・ソー・エキサイテッド』の訳のつもりで、「おれはひどく興奮しているぜ!」というタイトルをつけた。タイトルを眺めながら、何かモヤモヤとしていた。
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そういえば最近、「興奮」という語が少しずつ排除されているな、との思いにとらわれたのだ。
以前、2013年9月13日、苅谷剛彦『知的複眼思考法:誰でも持っている創造力のスイッチ』(講談社+α文庫、2002)を紹介しながら、それがふたつの文章を引用して「いじめ」という語が「恐喝」を言い換える婉曲語法として成立した瞬間を捉えていることを指摘した。
同書が他の場所で挙げている例文に盛田昭夫『学歴無用論』からのものがある。1966年のものだと断った上で紹介している文の断片、書き出しは、こうだ。
日本とアメリカとを比べて、どちらがストレスやテンションが多いだろうか。
この「テンション」は語の正しい意味で使われている。「緊張(感)」だ。「いじめ」という語の歴史性を指摘し得た苅谷も、この語に対しては何の留保も置いていない。
そりゃそうだ。苅谷のこの書の親本が出た1996年にも、そして文庫化された2002年にも、「興奮」の婉曲語法としての「テンション」という語など生まれてはいなかった。
いったいいつごろから、どんな経緯で使われ始めたのだろう、この「テンション」。唯一わかっていることは、これを使う人たちが「興奮する」とは言わずに「テンション上がる」と言い換えているということだけだ。
最近、時折、スペイン語の文章に "tensión" の語を、英語の文章に "tension" の語を見出すたびに、一瞬、テンションが高まるのだ……いや、つまり、緊張するのだ。その後、近ごろよく聞かれるこの婉曲語法を呪うはめになるのだ。ぼくが恐れていることは、授業などで、いつか学生がこの「テンション」の語法から遡行して、これらの語を誤解すまいか、ということだ。そうなったら、こっちとしてもテンション下がる……もとい! がっかりだ。
この語のこの用法を受けいれて使っている人たちは、英語などを読むとき、混乱しないのかなあ?