でも考えてみたら、村上春樹はノートで書いたものは小説ではないと言っている。昨日の引用。『風の歌を聴け』の一節。まさにそのタイプライターで書いたかもしれない一節。そこには「僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ」(強調は柳原)と書かれていた。
タイプライターで書かれるはずだったものは小説で、ノートに書いたもの(手書きのもの)は小説ではない。そして村上春樹はノートに手書きで翻訳をしたのだ。つまり、創作と翻訳とを隔てるものは機械で書く(書かれるべき)かノートに書くか。
メディアが変わると人間の認識は変わる。ヴァルター・ベンヤミン(「技術的複製可能性の時代の芸術作品」)が予言し、フリードリヒ・キットラーが固めた(という言いかたは、村上春樹の真似だ)。タイプライターで書くことは、書くと同時に見ることを必要としなくなる。タイプライターは盲目性のための機械だ。当初のタイピストは盲人が多かった。ニーチェは盲目になるに従い、晩年、タイプライターを使うようになった(『グラモフォン、フィルム、タイプライター』)。
手書きとタイピングの間には深い淵が横たわっている。村上春樹はその淵の両側に創作と翻訳を置いた。創作はあくまでも彼岸であるのだが(結局、『風の歌を聴け』がタイプライターで書かれたのは途中までだった)。結局彼は『ノルウェイの森』までを手書きで書く。その後ワープロを導入し、さらにはパワーブックを買っている。今でもマックユーザーのはずだ。少なくとも1997年まではそうだった。
さて、人は最先端の一歩手前を愛する。少なくともそんな人がいる。少し昔、第2列への偏愛。鋼鉄が最先端の時代に軟鉄で作られたエッフェル塔を愛するようなものだ(松浦寿輝『エッフェル塔試論』)。モダニズムの心性だ。ぼくにもそういう傾向はあるのだが、たぶん、村上春樹も、そうだ。一歩手前を愛し、最先端に憧れるのだ。手書きに愛着を持ち、タイプライターに憧れる。
村上春樹にとっての翻訳とは、そんなものなのかもしれない。――仮説1。