2013年3月22日金曜日

希望のつくりかた


燐光群『カウラの班長会議』作・演出 坂手洋二(@下北沢ザ・スズナリ)

オーストラリアのカウラ収容所というと、太平洋戦争末期、ここに捕虜として囚われていた日本兵が集団脱走を企て、殺害され、成功した者たちも多くは自害するという事件があった。長く伏せられていたことらしいが、戦後だいぶたってからは解明され、研究され、いろいろと論じられてきた。80年代にはこれを題材にした映画(だったかTVドラマだったか)もオーストラリアで製作されている。捕虜たちのリーダーだった南忠男という人物(ではないかもしれない。あるいは架空の存在?)を演じたのが、それまで鳴かず飛ばずだった若き石田純一。彼の出世作だ。

今回の燐光群の劇は、この脱走、惨殺、自決の前夜の捕虜たちの一班の様子を描いたもの。日本人捕虜が増えすぎて収容所が手狭になったので、下士官を除く兵士たちを他の収容所に移送しようとしたところ、それを軍の解体の陰謀として受け取った兵士たちが、反発して脱走・襲撃に発展したらしい。この決定にいたる過程を、映画専門学校の学生たちが卒業制作のようなものとして映画化を試みるというのがストーリーの外枠。スタッフの中に福島のドキュメンタリーを撮りかけの者が混じっていることによって、カウラの事件が俄然現代的意味づけをされることになる。

ぼくは以前、ある劇を観て、今は戦時中だとの想像力が支配的になっているのか、と感じたことがあった。坂手洋二はその先を言って、今我々が戦争末期の時代にいるのだと主張しているというわけだ。大本営発表(情報操作)、意志決定システム、体面意識……何もかもがカウラと福島が似ていると示しているかのようだ。

歴史を変えることはできないけれども、これが映画の撮影であるという前提を利用して、可能世界としてのハッピーエンディングを探ろうとする展開も用意し、希望を探ろうとするのが、坂手さんの誠意と、ひとまずは言えるのだろう。

でも、ところで、これが映画学校の学生たちの製作する映画であるというストーリーから、作ることをめぐるメタフィクション的要素も生まれてくる。大切なのはこちらの方だとぼくは思う。先生の木野(円城寺あや)と脚本が採用されて監督をすることになった学生の川口ありす(田中結佳)との、おおむね、次のようなやりとり:

あなた、その脚本、何回書き直した?
今のが8稿です。
(略)
あと5、6回は書き直さなきゃいけなくなるわね。

ワークショップ形式、といえばいいのか? スタッフひとりひとりが、それぞれひとりの捕虜を作り出すというやり方で進めるこの映画学校の生徒たちの創作方法、それはそのまま劇を作る作り方であり、脚本を書く書き方だ。推敲し、やり直し、細部を練っては練り直し……

内容をハッピーエンディングにするとかしないとかいうことでなく、こうした終わりなき製作過程を生きること。それがむしろ希望であるということなのかもしれない。