2013年3月24日日曜日

告知とか、思いつきとか


『毎日新聞』読書欄「今週の本棚」に「この3冊」という欄がある。そこにこんな記事を書いた。

この欄のすばらしいところは、和田誠のイラストつきだということだ。和田誠がぼくを描いてくれたのだ。すごいだろ? さすがにこのイラストは、Web上では見られないんだぜ。

話は変わるが、村上春樹がどこかで小説を書くより翻訳をしたかったと語ったことがあったはずだ。そう思って探したら、あった。柴田元幸『翻訳教室』(新書館、2006)でゲストとして招かれて話したときのこと。彼はこう言ったのだ。

最初に『風の歌を聴け』という小説を書いて「群像」新人賞をとって何がうれしかったかというと、これで翻訳が思う存分できるということでした。だからすぐにフィッツジェラルドを訳したんですよ。(151ページ)

小説家としてデビュして、さあ、小説書くぞ、ではなく、さあ翻訳するぞ、と思ったというのだから、そりゃあもう、翻訳が創作に先立つと言っているのだろう。

このことを確認したぼくが、しかし、今回気になったのは、この少し前に書いてあること。

どうして翻訳をするようになったかというと、やはり好きだったから家でずっとやってたんですよ。英語の本を読んで、これを日本語にしたらどういう風になるんだろうと思って、左に横書きの本を置き、右にノートを置いて、どんどん日本語に直して書き込んでいきましたね。そういう作業が生まれつき好きだったみたいです。(151ページ)

ぼくはつまり、わざわざ「左に横書きの本を置き、右にノートを置いて」と描写する、この小説家ならでは(?)の表現にいささかひっかかりを感じるのだ。

村上春樹とノートといえば、確かに、彼を読み始めのころ、印象づけられた一節が『風の歌を聴け』にはあった。

 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。
 僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。(『風の歌を聴け』講談社文庫、12ページ)

ただ、得たものと失ったもののリストを作ったとは言わず、わざわざ「ノートのまん中に1本の線を引き」、その左右にリストを作った、と書くところに、ぼくはこの作家の独特さを嗅ぎ取ったのだと思う。

実際、村上春樹(の語り)には、行動の細部にこだわるところがある。細部というか、形式というか、道具というか……

たとえば、同じ『翻訳教室』で披瀝された次のようなエピソード:

ヘミングウェイがタイプライターを持って、戦争で砲弾が飛びかう中で記事を書いていたというのを読んで、羨ましいな、と思ってました。僕らの頃は日本語のタイプライターなんてなかったから。だから僕、『風の歌を聴け』という小説を書いたとき、なんとかタイプライターで書きたかったから、最初英文で書いたの。(164-165ページ)

『風の歌を聴け』の最初の部分は英語で書かれたということはよく知られたエピソードだ。この直後に、柴田元幸が言っているように、それは、日本語の文体を脱したかったからだとの意味づけをされて紹介される。が、それが「実際はただタイプライターで書きたかっただけで(笑)」(165)といなされてしまうのだ。

形から、道具から、細部から整える。村上春樹自身がそういう人であるらしく、そのことが語りに影響しているのだろう。そしてそれが彼の世界を構成するのに役立っている。同時に、彼のその細部の整え方を考えると、『風の歌を聴け』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『1Q84』さえも、が書くことをめぐる考察のように思えてしまう。書くことについてアレゴリー的に、隠喩的に考察した文章のように。
てなことを考えながら、近所の公園を散歩していた。花見客が多かった。