2021年11月28日日曜日

既成の規格からの自由について

昨日は博士論文の審査であった。僕は主査なので司会をし、かつ、これから報告書をまとめなければならない。


TVをアンテナに接続することをやめ、書斎コーナーを小さく区切ることをやめて、生活がだいぶ楽になった。


本当は今の家に越してきたときには遅くとも気づくべきだったのだ。何しろ古い家だから、たとえば電話回線は玄関についている。そこには電源がない。つまり、かつての、黒電話を玄関の下駄箱の上に置くという生活様式に即した配線になっていたのだ。TVのアンテナも寝室に使っている部屋の壁から引かなければならなかった。


僕らはLDKにはダイニングテーブルとソファがなければならないという思いにとらわれすぎている。書斎や仕事部屋には書き物机(テーブルmesaではなく、書き物机/勉強机escritorio)がなければならないと思い込みすぎている。表通りに面したベランダに洗濯物を干さなければならないのだとの思い込み(家の構造が強要してくる思い込み)からは自由になったはずの僕も、これらの思い込みにとらわれていることに気づかなかったのだ。


かつてデリダの書斎を記録映画でみたことがある。ずっしりとしたダイニング・テーブルのような広いテーブルに本をたくさん載せていた。――1


いつだったか、たまたま見ていたあるTV番組で、ある女優(山口智子だったと思う)が自宅のリビングには大きなテーブルがあると言っていた。そこでくつろぐのが好きだと。つまり彼女にとってはくつろぐ場所はソファである必要はない。――2


僕も今よりはるかに広いLDKのある家に住んでいたことがある。あまり大きくないダイニング・テーブルと、ちゃんとしたソファがあった。でも思い返してみると、僕はソファでくつろいでなどいなかった。ダイニング・テーブルに座ることが多かったのだ。――3


リビング・ダイニングの充分でない家にはロータイプ、ソファ・タイプのダイニング・テーブルがお薦めですよ、という売り文句に吊られ、それに類するものを使っていたことがある。悪くはない。本当はそのときに気づくべきだったのだ。要するに僕はソファでくつろぐことができないのだと。――4


ところが、このソファ・タイプのテーブルを手放した時点で、自分が単にそのソファに馴染まなかっただけなのだと気づいてはいなかった。


鎌田浩毅『新版 一生ものの勉強法――理系的「知的生産戦略」のすべて』(ちくま文庫、2020)は、仕事場の机をダイニング・テーブルにしているという。椅子もダイニング・セットの椅子で充分。「リラックスするためのイスと勉強のためのイスは、それぞれ使い分けるべきだと思います」(106)とのこと。


ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』神崎朗子訳(だいわ文庫、2017)のシックなマダムのリビングには「クッションの並んだ大きなソファもリクライニングチェアもなければ、薄型テレビの巨大スクリーンもなし。その部屋に置かれていたのは、アンティークの4脚のアームチェアだった」(22)。


これだけの前提(1-4)と情報を得ていながら、僕は自分の欲しているものに気づくのが遅かったと臍を噛む次第である。僕が必要としていたのは、1)広いダイニング・テーブル(80cm × 150cmくらい)もちろん、ダイニング用の椅子つき、2)モニターやマックなどを置く作業台(天板の高さは1メートル。下は引き出しなど)、3)くつろぐためのラウンジ・チェアだけなのだった。


で、それに気づいた僕はこんなこと(リンク)こんなこと(リンク)、さらにはこんなこと(リンク)をしたのだった。


結果、今は1)作業用兼ダイニング用のテーブル(75cm × 120cm)可動式天板で、63cm - 130cmくらいまで変わる、2)モニターなどを置いている書き物机(60cm × 110cm)、3) 折りたたみ式の簡易ラウンジ・チェア(その他、折りたたみ式のパイプ椅子やディレクターズ・チェアらがある)、4)キャスター付き、リクライニングもする作業用椅子。今はほとんどリクラインしてリラックスするのに使っている。この4)は、究極的には要らない。以上の体勢は理想とは少しずれるが、次に買い換えるときにでも修正していきたいものである。



MacBookAirは3)か4)のリラックス用の椅子で文字どおりラップトップで使ったり、1)で立ったり座ったりしたりしながら、あるいは2)でモニターに繋ぎながら、と多様に使うことによって気分転換になり、以前より少しだけ仕事がはかどっているような気がする。


頭脳の延長である部屋のあり方、欲望の形、自分のスタイルを見出すというのは、ずいぶんと時間のかかることなのだなあ。