2021年11月22日月曜日

みなさん、どうしてる?

本は個別の生命を持つので、それとのつきあい方も一様ではない。読み方や使い方は一冊ごとに異なる。


それでも大雑把な分類は可能ではあるし、類型化はされることもある。


長篇小説とのつきあいはなかなか難しい。もう何度も挙げている書名だが、アドラー&ドーレン『本を読む本』外山滋比古、槇未知子訳(講談社学術文庫、1997)では「小説は、一気に読むものである」(208)と端的に命じている。「速く読むこと。そして作品に没入して読みふけること」(209)と。


まあ、そうではあるのだが、それでも2日、3日と時間がかかることがある。あるいはもっとかかることがある。長さの問題もあるが、やはり1日で読み終えるのに適したものと、数日、数週間かけても大丈夫なものとがある。『カラマーゾフの兄弟』や『ファウスト』は、僕の場合はだいぶ時間をかけたけれども(1月くらい。しかも、途中、中断をはさんだ)、特に問題はなかった。


日数が必要(もしくは、かけても大丈夫)だと見た場合は、だいたいの目安で、1日に50ページとか100ページとか、あるいはページ数ではなく章数を決めて読み進むことにする。あくまでもだいたいだ。超過してもかまわないし、目標に達しなかったからといって気に病むことはない。


さて、問題は、そのように時間をかけることにして読んだ小説でも、最後はだいたい2日分、3日分を一気に読んでしまうことになるということだ。100ページずつ、今日と明日で読んでしまうつもり、だったのが、一気に200ページ、今日で読み終わり、という感じになるわけだ。


何が言いたいかというと、前回もほのめかした佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社文庫、2019)を(これも今回は中断があった)あと2、3日かける予定だったのだけど、昨日のうちに読み終わったということ。鏡と言語が問題になる小説で、最後にナルキッソスとエコーの神話を持ち出してきた時には虚を突かれる思いであった。同時に僕はミゲル・アンヘル・アストゥリアスを思い出したりしているのだから、来週への心の準備が整いつつあるということ。


で、話を戻すと、そのようにして、最後は結局一気に読むことになるのは、もちろん、あくまでも1度目の読みの話であって、上のようにコメントしたりそれを広げたりするために/することによって、2度目、3度目の読みをすることになるわけなのだが、中にはそうしないものもある。1度目の読みで終わるものもある。その1度目の読みで、最後だけスパートをかけたとなると、何か濃淡の差、読みの濃度の差がそこに出るのではないかと、常になんだか後ろめたいような気になるのだな。


……でもまあ、気になるようなら2度目を読めばいいというだけのことか? みなさん、どうしてる? どんな時でもペースを守る? 



今日もこうして読んでいる(写真はイメージ)。