2021年11月15日月曜日

映画に本という単位はない?

昨日は渋谷ストリーム内のチリンギート・エスクリバでパエーリャを食べた。


外語時代の教え子と久しぶりに。


その後、「ネイチャー・アクアリウムの奇跡」という展覧会を見て、しばらく話をしたのだった。教え子は1歳になる子を僕に抱かせたがったので、おそるおそる抱きかかえた。泣かれなくてよかった。


その教え子の夫がスタッフとして関わっているというので、帰宅後、藤井道人『青の帰り道』(2018年)とTVドラマ『ムショぼけ』の最新話を観た。前者はYouTubeで、後者はTVerで。


年に何本くらい映画を観るかと訊ねられた。あまり考えたことがなかった。そのとき思い出したのが、蓮實重彦と武満徹の対談。ともに年に150本ばかりも観ていると言っていた。


僕はもちろん、そんなには観ていない。100本も観ないのではないだろうか? 映画館で観る映画となったらもっとはるかに少ない……


そんなやりとりをしたのだが、たとえば先週は、ジャスティン・ウェブスター『ガボ』エイドリアン・ライン『運命の女』そしてアレハンドロ・ランデス『MONOS』を観たのだった。あ、そうそう。それに、『青の帰り道』。劇場で観たのは『MONOS』のみ。『ガボ』と『運命の女』はいずれもアマゾン・プライムで。家で。配信で。かつ、2回目と3回目か4回目の鑑賞だ。


考えてみたら、1年は52週だから、これだけ観たら年に200本ばかり観ることになる。でも毎週毎週このペースで観るわけではないから、当然そこには到達していないはずだ。とはいえ教え子と話しているときに簡単に見積もったよりは多く観ているかもしれない。再見以上のものをも含めるとすれば、だ。


『運命の女』はもう何度目かだし、最初から最後までモニターの前でじっと鑑賞していたわけではないので、本の再読同様、これを果たして1本観たと言えるのか、はなはだ怪しいものではある。本同様、映画も、1本観るとはどういうことなのか、厳密に考えるとわからないものである(この記事のタイトルは、もちろん、管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』の「本に冊という単位はない」という命題から取った)。


このブログで紹介するのは、たいていは劇場で、しかも初めて観る作品がほとんどではあるのだが、なるほど、2回目以降も、そしてもちろなん、配信やDVD、BDでの鑑賞も1本として数えれば、100本200本と観ているのかもしれない。



で、今月既に何度も紹介しているように、僕はTVモニターをアンテナに繋ぐことはやめ、TV番組で観たいものがあれば、こんな風に、場合によっては、iPadミニで観たりしているのだ。配信で。そして映画もそのようにして、が、映画の場合はたいていはこれをTVモニターに映して鑑賞する。TV番組の場合だと映画よりもはるかに多く何かしながら(料理したりその料理を食べたりしながら)観るので、実はiPadで観るのは楽で良い。


今夜はアマゾン・プライムでもうすぐ見放題が終了という作品の中から何かを観ながら夕食でも食べたいと思うものだ。



昨日は昼パエーリャを食べたというのに、今日もパエーリャ。スキレットでひとり分作ったのだ。バレンシアーナ風。日本人にはパエーリャに対するあまり正しいとは言えない固定観念があって、それが、1) パエーリャはシーフードを具にしなければならない、2) パエーリャは(イカスミのものをのぞき)サフランで黄色く色づけしたものでなければならない、というもの。何を言っているのだ!? パエーリャの起源バレンシアーナは肉ふた品、野菜や豆類ふた品というのがスタンダードなのだ。昨日のはシーフードだったし、家で独り用だとエビやムール貝など大きすぎていけない。そこで、本当はウサギが欲しかったのだけど、ないので、鶏+ソーセージ+マッシュルーム+エンドウ豆、トマトで色づけしたパエーリャ・バレンシアーナ風。