2021年11月3日水曜日

経過報告

今日は文化の日、などとごまかした名がついているが、日本国憲法が公布された日だ。どこかのヤクザみたいな市長が、自分の市の住民投票で負けた、まさかその仇を取ろうというわけではあるまいが、国民投票が……などと言いだした。剣呑である。僕は日本国憲法には国民の規定がないので、その部分は変えるべきだとは思うが、それは今ではない。少なくとも今、改憲を主張している連中が持って行きたがっているような方向(天皇主権、基本的人権の放棄)への改変は絶対にあってはならないと思う。


日本国憲法に国民の規定がないなと思ったのは、メキシコ合衆国憲法にはそれがあるから。そんなことを思ったのは Jordi Soler, La última hora del último día (RBA, 2007)がそれをめぐるものだからだ。この小説は Los rojos del ultramar および La fiesta del oso La guerra perdida (負け戦)三部作をなすものだ。この三部作話を少し書こうと思っているので、憲法の国民規定が気になるところ。


ソレールの『負け戦』三部作はスペイン内戦で共和国派だったためにメキシコに亡命してきた祖父Arcadiに始まるソレール家のその後の顛末をたどったオートフィクションだ。第二作のこの『最後の日の最後の時間』はメキシコにやって来てコーヒープランテーションを起こしたソレール家の亡命先で生まれた最初の子マリアンナ(ジョルディの叔母)をめぐる話。家族の心配事のひとつが、憲法30条に書かれた「国民」の条項というわけ。


さて、TV受像機でTVを見ることを止めて10日ばかりが経った。もとからたまにしか見なかった身としては、特に不都合は起こっていない。いや、むしろ、ある種喜ばしい心境の変化があった。つまり、TVerらの配信番組表を見ても、以前ならば暇な時間に見たこともあったような番組をわざわざ見る気にはなれないということだ。この番組は確かに見たことがあるが、なぜこれを面白いと思って見る気になれたのだろう、と不思議に思う。結果、以前ならば10日もあれば2-3番組は無計画に、その予定もなかったのに見ていたとしてもおかしくはないのだが、それがゼロになった。その代わり、以前の記事に載せたようにYouTubeで小三治の落語などを聞いたりしていたという次第。なんだか大人になった気分。



……でも、だからといって、仕事がすいすいはかどっているわけではない。相変わらずの切迫感に追い立てられている。不思議だ。なぜだろう?