2020年1月1日水曜日

年末年始も映画を観よう。


新年最初の映画、ではない、実は。これは31日に観たもの。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『読まれなかった小説』(トルコ、フランス、他、2018)@新宿武蔵野館。ヒューマントラストシネマ有楽町でもやっていたはずなのに、そちらはあっという間に終わってしまったようだ。もったいない。実はこの映画、試写会に呼んでいただいたのだけど、いずれの回も時間が取れず、行けずに悔しい思いをした作品。もったいない。

これはいわばグランドツアーものである。「グランドツアーもの」なんてジャンルがあるわけではない。僕が今、勝手に作った。いささかの皮肉を含んだ命名。『アメリカン・グラフィティ』とか『卒業』とかに連なるものだ。学業を終えて次のステップにつくまでのギャップ期間の若者の焦りとやりきれなさを描いたものだということ。グランドツアーというのは18世紀ヨーロッパの貴族が社会に出る前に旅をした、その習わしのこと。ロマン主義者たちの南方旅行好きと崇高の概念を生み出すことになった。20世紀にもなると貴族のように優雅な旅行というわけにもいかないから(『卒業』のベンは枕を持って旅行をしたが)、近隣の彷徨ということになる。

大学を終えて故郷のチャンに帰ってきたシナン(アイドゥン・ドウ・デミルコル)は教員試験、または(厳しいので落ちた場合は)兵役を控えている。かつての憧れの女性ハティジェ(ハザール・エルグチュル)が、いわばマリッジ・ブルーの状態にあることを知り、その婚礼の日には彼女のかつての恋人ルザ(アフメト・ルファト・シュンガル)の苛立ちと衝突することになる。しかもそれは教員試験の前日。彼は案の定、試験には落ちたようだ。

シナンのグランドツアー(もどきの放蕩息子の帰還、または彷徨)が他と違うのは、彼が小説を書き上げ、その出版を考えていることだ。しかもオートフィクションのメタロマンというから興味深い。この細部がこのフィルムが『卒業』と同種のストーリーであることを忘れさせる。特異点だ。

出版に必要な金を集めなければならないシナンだが、この彼の前に立ちはだかって試練を与えるのが父親のイドリス(ムラト・ジェムジル)。なにしろ、定年を間近に控えた教師でありながら、競馬にのめり込んで借金ばかりしているからだ。試験会場までの交通費のあまりをせびるし、シナンの出版の軍資金にと貯めた金も盗んだようだ。そのことを知りながら口に出せないシナンにそれを口にしろと迫る始末。なんだか複雑な父殺しの物語が成立してしまう。

身につまされるのは本を出すのに苦労し、苦労したというのに本屋では1冊も売れていないと言われ、献辞を書いて献呈した母親も読んではいないらしいこと。一冊の本で一躍作家としての地歩を築くなど、夢のまた夢だ。心が痛い。シナンが地元の作家スレイマン(セルカン・ケスキン)にしかける議論は、シナンの立場もあり、ほとんど言いがかりめいてくる。文学部を出て教員試験に落ち、警官になった友人が、電話での会話でデモ隊や過激派への弾圧は憂さ晴らしだという趣旨のことを言って笑っていたが、こうしてグランドツアー中の若者たちは誰もが憂さ晴らしをしているかのようだ。

作家志望のシナンの憂さ晴らしは、さすがに警官になった友人のような暴力ではなく、スレイマンに対する言いがかりのように、言葉によるものだ。作品内では皆がひたすらしゃべり、議論する。BGMはほとんどがニワトリの鳴き声や潮騒、せせらぎ、喧噪などだ。ポップスの数々が印象的な『アメリカン・グラフィティ』やビー・ジーズの歌とともに思いだされる『卒業』との相違点は、そこにもある。

一方で前日に観た『家族を想うとき』と似たような点も見出さないではいられなかった。ギャンブル好きの父も、ベビーシッターのアルバイトをしているらしい母も、大学を出たばかりで出版費用の必要なシナンも、常に金がない。教員試験に落ちたら兵役だ。豊かとは言えない地方都市の、貧しいと言っていい家族の話なのだ。ロンドンの働きずくめの家族とはいささかの違いがあるとはいえ、端から見る限りわかりづらい貧困であることに代わりはない。

その点でも身につまされるのだ。父と子の関係という点では、父もなく子もない僕は身につまされることはないけれども。

写真はその後紀伊國屋書店で買ったもの。