2020年1月26日日曜日

広い机が欲しいものだ


 ツイッター上でフォローしている何人かが、歩調を合わせて本の整理に取りかかっている。そういう時期なのか? 

で、こんまりこと近藤麻理恵の本などについて言及したりしている。

こんまりその人の本は読んでいないので、二次情報だが、どうもやはり本を情報もしくは娯楽としてみなすことがドラスティックな本の処分に成功する秘訣のようだ。

僕は比較的に本を処分する方ではあるけれども、それでも最低限は手許に置いておかなければと考えてもいる。そしてその最低限は多くの処分派の人の考える最低限の数倍には上るだろう。僕ら(つまりある種の職業にある人々)は本を情報として必要とするだけでも娯楽として楽しむだけでもなく、利用しなければならないからだ。

執筆中の僕の机はこんな感じだ。

論文などのコピーは今ではPDFファィル化してデジタルペーパーやiPadで読んでいるが、ともかく、コピーと手書きのノート、複数の本を机上に開き、PCのデスクトップ(まあ、つまり、「机上」だが)にはいくつもの書きかけのメモや草稿を開いて、その中から完成原稿を作っていく。

二次資料はメモを取ったら後は開くな、とエーコは言ったのだが(『論文作法』)、それでも思い立ってまた開いてみなければならないこともある。「思い立ってまた開いてみなければならない」ときに、手許になければならないのだから、本はストックしておかなければならないのだ。アドラーとドーレンの言う「シントピカル読書」(『本を読む本』)をする人にとっては置いておくことは必要。

マリオ・バルガス=リョサはだいぶ若い時期から文学を教えはじめた。教えはじめると「すぐに、後で教えるために行う文学の読書は、純粋に楽しみのためにする読書とは、かなり違うと気づいた」(『プリンストン大学で文学/政治を語る』立林良一訳255ページ)とのこと。「教えるための読書」は「もっとずっと理性的な読書をし、感覚や感情を概念に翻訳しなければならない」。教えるために読む者も(そして本当はその授業で学ぶ者も)本棚に囲まれて読まなければならない。

ところで、話は変わるが、今し方引用したこのバルガス=リョサの本。ルベン・ガリョとの対話。この本についての書評を書かなければならないのだが、きっと書評には書かないことをひとつだけ。

これはプリンストン大学でのバルガス=リョサの授業の記録で、理論的な問題に関してか(ジャーナリズムと文学とか)、そうでなければバルガス=リョサの過去の作品についての討論が中心となるのだが、第7章『チボの狂宴』についての話し合いで、バルガス=リョサがトルヒーリョについて、あるいは独裁というもの全般について言うことがあまりにも心に残る。トルヒーリョのことでなくABのことを言っているようなのだ。

「この独裁者は社説も読まなければ、国際面のニュースにも関心がありませんでしたが、社交欄は非常に念入りに目を通していました」(208
「独裁の正当化は常に秩序と平和の名の下に行われます」(221
「いかなる国も、いかに発展していようとも、独裁の危機を完全に免れてはいません」(235

等々……