2020年4月8日水曜日

アパートメント・ツアー(旧宅の)

引っ越した! 

駅の南口から北口へ、歩いても5分くらいのところに。だから最寄りの駅は変わらないのだが、町名は隣の駅の名になった。たとえて言えば最寄りの駅は五反田のままなのに住居表示は大崎になったようなものだ。五反田というのは、あくまでもひとつの例であって、僕は五反田には住んでいない。

僕は英語やフランス語で studio と、スペイン語でも estudio と呼ばれるような部屋が好きで、つまりは、ワンルームなのだが、もちろん、東京でワンルームなどと呼ばれるのは四畳半一間を21世紀風に粉飾したものであったりするから、困る。

ともかく、そんなわけで estudio を思わせる広い居室を寝室/リヴィング/書斎として使っていた。

本当は1DKと呼ぶには広く1LDKと呼ぶには狭いDK(ダイニングキッチン)のある部屋で、そのDの部分はあまり活用できずにいた。

でもともかく、居室は気に入っていた。

が、そのうち、書庫が欲しいと思うようになった。理想としては広大なLDKに書庫に充分な広さの部屋がひとつ、というような間取りが理想ではある。

もちろん、理想はそのまま叶えられることはない。

けれども、退職金をはたけば払えるだろうくらいの額で中古と呼ぶのもはばかられる古いアパート(もちろん、僕は「マンション」などという語を使いたくない)で、書庫のための部屋が作れそうなやつを見つけて、ほとんど衝動的に買ってしまったのだ。この年齢でもローンが組めそうだったし。

このコロナ騒ぎに背を向け、僕はひたすら腰痛に苛まれているという次第。

まだ片付かないので、新居のアパートメント・ツアーはもう少し後で。

2020年3月16日月曜日

美少年の末路に涙(/恐怖)する

アリ・アスター監督『ミッドサマー ディレクターズカット版』(アメリカ合衆国、2019) 繰り返すが、ディレクターズ・カット版だ。2時間50分だ。

双極性障害の妹が両親を道連れに心中して傷心のダニ(フローレンス・ピュー)が破局しかけている恋人クリスチャン(ジャック・レイナー)に誘われてスウェーデンのヘルシングランド地方にあるコミューンに向かう。人類学専攻の博士課程に通うクリスチャンの友人のひとりペレ(ヴィルヘルム・ブロングレン)の育ったコミューンで90年に一度の夏至の9日間を祝う祭に参加するためだ。

そこをコミューンと書いたけれども、それはカルト集団のようなものが共同生活を営む場所で、彼らは独特のライフ・サイクル観に基づいた儀式を行い、ホルガと呼ばれる聖地で集団生活をしている。

そこでいろいろとショッキングなことが起こるのだが、それらの展開が映画に観客を惹きつける最大の要素であるのだから、あまりストーリーは書かないでおこう。ライフ・サイクル観とはすなわち生態系観に通底するものであるから、そこに前近代的な思想が入り込むと当然予想されるだろう儀式の数々が次から次へと起こるのだ。人身御供を基本とした人間と自然との対話のことだ。多くは北欧のかつての慣習に基づくものらしいから、これを「フォーク・ホラー」と分類する向きもあるようだ。

一方で、普段から大麻樹脂などをやっているクリスチャンの仲間はコミューンについてホルガに足を踏みいれる前に、何やら怪しげなダウナー系の薬物(ダニはひとりだけマッシュルーム・スープ)で大地と一体化している。ホルガでの風習にも薬物は採り入れられているらしい(僕は常に人肉食への示唆を感じ続けることになる)。薬物の作用による、理性的認識を超えた世界の話と取ることもできそうだ。そして、そう思うほうがよほど脂汗が出る。

ちなみに監督のアスターはこれを「ハッピーエンド」と位置づけているようだ。なるほど、ダニは最後に微笑んでいる。

映画館の壁にはこんな壁紙が貼られ、映画の世界を再現していた。

帰宅後、肉を食べる気にはならなかったので、スパゲッティにした。ヴォンゴレ・ビアンコだ。

あ、そうそう。映画にはビョルン・アンドレセンが出ている。ヴィスコンティに愛された美少年が老人役で出てくるのだが、その元美少年にあんな仕打ちをするなんて! かつて彼の美に酔いしれた人たちはどう受け取るのだろう?

2020年3月13日金曜日

母は強し(うっとうし)


ロマン・ガリの自伝的小説『夜明けの約束』(岩津航訳、共和国、2017)の映画化作品。母ひとり子ひとりの境遇でポーランドの街ヴィリノ(当初はロシア帝国、そして後にはリトアニア共和国)に育ったロマンが、母ニーナ・カツェフからフランスの大使になること、作家になること、軍人になること、などと期待をかけられ、現実にフランスに移住し、戦争に参加し、作家になるまでを描いたもの。ニーナ役をシャルロット・ゲンズブールが、成人したロマンをピエール・ニネが演じている。

母的なもの、母の期待などといったものが苦手な僕にとっては辛い話題で、それをロマン・ガリの一面で裏のような、他面では正反対のような育ち方をしたのではないかと思われるシャルロット・ゲンズブールが演じるのだから、余計に辛い。おまけにそれが2時間を超す大作ときている。が、なぜか不思議と飽きずに見ていられたのだから、面白かったのだ。

原作小説の翻訳もあるというのに、こんなタイトルにして、おまけに映画終盤の泣かせどころのエッセンスのような副題までつけているのだから、配給元の意図はきっと、母は強し、ってなメッセージとして見せたいということなのだろう。その意図がそれだけだと、やはり僕にとっては辛いに違いない。が、原題の直訳である「夜明けの約束」から始まるコメントが最後に流れ、配給元の意図を覆すものと理解できるような意味が露わになる。僕がほっとしたところ。

ゲンズブールが時間の経過に伴ってだんだん老けていく、メイクや演技で表現しているに違いないそのふけ方が、やけに印象に残りもする。

極めて実践的な教訓がひとつ:書け。常に書き続けろ。

2020年3月10日火曜日

言えなかった言葉たち

福嶋伸洋「海へ行くつもりじゃなかった」『すばる』2020年4月号、pp.78-112.

福嶋さん2作目の小説。コピーしてスキャナーで読み込み、ディジタル・ペーパーで読んだ。最初にビートルズが出てくる小説に敬意を表し、ゼーレン・マドセンがビートルズ・ナンバーを弾いているアルバムを聴きながら。

飲んでいるコーヒーは初めてのザンビアの豆。悪くない。

その前に食べたのはオムライス(本当は昨日の昼食に食べた、またしても星乃珈琲店のもの。その写真がとてもおいしそうだったので——と自画自賛するが——、つい、載せることにした)。

さて、小説の話。高校から学位を取って大学で教えるまでの長いスパンを扱っているけれども、中心は高校時代の話と言っていい。語り手兼主人公の「ぼく」は作者自身と重なる要素が多いので、それを「自伝的」と称してもいいのかもしれない。高校時代を中心に扱っているから青春小説と呼んでもいいかもしれない。青春小説には語り手「ぼく」を導いてくれるメンター的存在がいるものだが、ここでの「ぼく」は、音楽の面でフリッパーズ・ギターなどを教えてくれた涼、その家ではじめてボサノヴァを聴かせてくれた宗介、フランスの詩人や高校の先輩としての堀口大學を教えてくれた未歩などのメンターを得、東大から外語大の大学院に進み、ブラジルの詩人についての博士論文で学位を得る。これはそういう福嶋さんに似た「ぼく」の話であり、「ぼく」のメンターたちの群像劇だ。

かつて、あるシンポジウムで自らを「ポスト渋谷系」と位置づけた福嶋さんのテクストに溢れる音楽、着こなしのファッショナブルさ、空気の描写のしかたはさすがだ。造り酒屋の息子である涼の実家の蔵や、花火大会など、1945年8月1日の空襲の記憶が不在として存在感を発揮する長岡の街の雰囲気も印象に残る。(と同時に、福嶋さんより15歳ばかりも年上で、長岡の足下にもおよばないような辺鄙な田舎で育った僕から見れば、ずいぶんと新しい時代の、都市を扱った作品にも感じられる)

涼が以前つき合っていた幼なじみの礼香はフランス料理店の娘で、何やら大人びていてかっこよく、妊娠したと告げて高校を退学に追い込まれる。

 そのときのぼくはまだ、妊娠した十代の女子をそんな形で退学に追い込んで外の世界に放り出すことは間違っているとはっきり考えることはできなかった。礼香にとって妊娠が、自分の置かれた立場を誰かにわかってもらうための唯一の訴え方だったのかもしれないということにも、考えは及ばなかった。多くの同級生と同じようにぼくも、しくじったのは礼香で、その責任は自分で取るしかないと思っていた。(86)

何十年も経ってから、青春を描くことの意味は、この悔悟にあるのかもしれない。女の子と関係を持った経験があるかどうかもわからない「ぼく」を置いてけぼりにして妊娠し、学校を去る同級生に、本当はどう対処すべきだったのか。そんなことなんて、若い「ぼく」にはわかるはずなどない。それは何年も経ってから悔悟の念とともに思いつくものなのだ。

「ぼく」が言えなかったもうひとつのことは、宗介の恋人にして「ぼく」の文学のメンターである未歩への言葉だ。そしてこれが、『リオデジャネイロの雪』の著者である福嶋伸洋の面目躍如。

小説はストーリーに乗せて何らかの情報を披瀝するものであり、この情報の面白さも小説の面白さを大いに左右するのだが、ここに、世界で(おそらく)ただ一人、堀口大學の後輩であり、彼の詩を日本語で読み、彼がポルトガル語で書いた文章を一次資料で読んだ人物としての福嶋伸洋の存在価値が表現される。そしてまたその情報を友だちの恋人と少し後ろめたい思いを抱えながら一度だけデートしたその思い出に絡めるところが、うまいなと思わせるところ。それが自伝ではなくこの百枚ばかりの文章を小説として成立させている最大の勘所。

2020年3月8日日曜日

おうち喫茶店

現在、主にコーヒーを淹れるのに使っているのは、ネル・ドリップとコーノ式のドリッパーだ。

カリタ式と違い、こんな風にひと穴のドリッパー。ハリオと違い、この溝が途中から、というもの。これがいい。なんといってもコーノ式は僕が最初に手に入れたミルのメーカーでもある。

コーノ式のドリッパーとそれ専用のペーパーフィルターは置いてある店舗が少ないのだが、実は我が家の近くに本社があるので、僕にしてみれば好都合。自家焙煎の豆も売っているので、豆とフィルターを買いに行くことしばしばだ。快適なコーヒー生活である。

ただし、コーノ式はドリッパーがプラスチックなので保ちが良いとは言えず、比較的頻繁に買い換えることになる。土曜日に、これまで使っていた茶色のドリッパーに亀裂が入っていることに気づいた。困ったことに、近くにあるとはいえ、コーノ式の珈琲サイフォン株式会社は、土日は閉まっているのだ。しまった! なのだ。

で、東急ハンズで買ってきた。透明のドリッパー。

ついでに買ってきた、小刀※。関孫六。

道具にそれほどこだわる方ではない。通常は三徳包丁とこの種の小刀だけを使う。ところが、これまで使っていたのが安物の小刀で、切れ味悪いなまくら刀。たまりかねてこれを買ったのだ。買ってみたらその切れ味は感動的なまでだ。本当はこれだけで僕の料理など事足りてしまうかもしれない。僕の料理なんざ、カルボナーラ

とか、ボロニェーゼつまりミートソース(リンク これは期せずして大盛り)とかナポリタンとか、オムライスとか、カレーとか、ビキニつまりクロックムッシュ(リンク)とか……要するに喫茶店メニューだらけだものな。違いといえば、ピラフよりはチャーハンを作る方が多いということくらいだ。

近々引っ越す予定なのだが、そこのリビングダイニングにはコーヒーテーブルを置こうと思う。ダイニングテーブルではなく。

※ これは日本でペティナイフなどとちぐはぐな名で呼ばれているものだ。もちろん、僕はそんな名称は使いたくない。あるいは一部の人が言うように、やはり怪しげなパーリング・ナイフなどと言う呼称も、なんだか嫌だ。かといってクト・ドフィスとかクト・エプリュシェ、あるいはプチ・クトなどと気取るのなんだか気が進まない。で、関孫六なんだし、「小刀」と呼ぶのがいいかな、と思った次第。本当は「果物ナイフ」でも充分だと思う。

2020年3月7日土曜日

喫茶店探訪第n+1回

駅前に最近、星乃珈琲店ができた。ドトール系列の高級店だ。まあ「高級」というほどの高額ではないが、何しろコーヒー1杯がドトールの150円に対し3倍ほどの値段なのだから、高級だ。


革張りのソファーにゆったりした座席配置、全店舗がそうなのかは知らないが、近所の店舗は本棚に英・独・仏語の洋書まで置いてある。スパゲティ各種やオムライス、カレー、(名物)スフレドリアなどのメニューもあってゆっくりできそうだ。

そして実はおいしいのが、カツサンド+ポテト。この店の裏にはかなりおいしいとんかつ屋があるのだが、負けてはいない。うまい。

サンドウィッチの向こうに見える緑色の本はラモン・デル・バリェ=インクラン『独裁者ティラノ・バンデラス』大楠栄三訳(幻戯書房、2020。独裁者小説だ。ソル・ケー・モオとともに受け取った。

2020年2月26日水曜日

失ったものと得たもの


比較的よく歩く。時には大学までも歩いて通勤する。

今日は入試の2日目だった。病み上がりだというのに、いや、病み上がりだからこそ、混雑を避け、そしてcovid-19を避け、歩いて行った。もう少しで大学に着きそうだというところで血の気が引いた。

時計を忘れた! 

今日の業務には時計が欠かせないのだ。皆で時刻合わせをするほど、時計を持参することが必要とされるのだ。で、まだギリギリ間に合いそうだったので、タクシーを拾って我が家との間を1往復。時計を回収してきた。

途中、慌ててどこかで手袋を落としてしまった。

開始前、事務の人に予備の時計を借りる同僚がひとりふたり……なんだ、借りられるんじゃないか! 

疲労困憊、帰宅したら到着していた。


日々、大量の書類を必要とする。今ではPDF化して保存したりするが、それでも一定期間は持っていなければならない書類も数多くある。紙のままで持ち歩かなければならない書類もある。そんなときに重宝するのがこれ。こんな感じの複数のファイルをこのケースに挟んで紙束を揃えるときのように背をトントンと机に打ちつけると、……

製本したようになり、開くことができる。

すごいだろ? 

2020年2月19日水曜日

師の自伝に触れる


清水透『インディオの村通い40年 〈いのち〉みつめて』(岩波ブックレット、2020)

これはちょうど去年の今ごろ、『東京新聞』に連載されていた同名のコラムを加筆の上でまとめたものだ。僕は『東京新聞』を講読しているので読んでいたのだが、こうして一冊にまとめられると、切れ切れに読むよりも繋がりがわかりやすくなっていい。

メキシコ南部のマヤ系インディオの村に通い、その村の住民についてリカルド・ポサスが書いたエスノグラフィー『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそのフアンの息子ロレンソに自らが取材したエスノグラフィーとを併せて『コーラを聖なる水に変えた人々』を出版し、その後、そこから歴史記述の見直しに取りかかった『エル・チチョンの怒り』、ロレンソの孫の国境を越えての出稼ぎ旅を追った「砂漠を越えたマヤの旅」(『オルタナティヴの歴史学』所収)といった自分の仕事を仕上げるに当たってのフィールドワークの思い出と、そこで感じたこと、その間に自分の身の回りに起こったことなどを簡潔にまとめ、これからの展望でまとめている。

愛娘・真帆さんの病気のころは、僕は清水先生と一対一で授業を受けていて、その辛そうな日々を知っているだけに涙なしでは読めない。でも、彼女が亡くなった後、家族のそれぞれが抱く記憶のズレからマヤのインディオ社会に思いを馳せ、自身の研究の基盤はあくまでもこうした個人の思いと、それを支えるいのちであることを表明し、後半のこれからの展望に繋げる。読者としても清水先生のこれからが楽しみなのである。

ところで、少し話はずれるが、研究対象とのラポール形成の難しさを説いた前半で、「ではどのような道があり得るのか。/「限りなく寄り添う」というひと言が思い浮かぶ」(17ページ)と態度表明している。愚かな宰相が「寄り添う」の意味をすっかり変えてしまった現在、この語の本来の意味を取り戻さねばな、などと思うのだった。

買ってみた。

東レのトレビーノ浄水ポット。ずっとペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫に入れていたのだが、こまめに買い足すのがなんだか馬鹿らしくなり、評判のいいこのブツを。

こうして冷蔵庫に入れて、出かけるときにはそれを先日報告した水筒(※)に入れ替えて持っていく。水分補給はこれで安心だ。

※ ブログでは報告していないのだった。インスタグラムのこれ(リンク)。あるいは上の写真に写り込んでいるあの黒いもののことだ。

2020年2月3日月曜日

(Im)possible Dream (Quest)


『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』(スペイン、ベルギー、フランス、イギリス、ポルトガル、2018)

かつてテリー・ギリアムが『ドン・キホーテ』を撮ろうとして挫折したさまを扱ったドキュメンタリー『ロスト・イン・ラ・マンチャ』を観、そのドキュメンタリーというか変形メイキングは面白いものの、ギリアムが考えている『ドン・キホーテ』はあまり面白くなさそうだなと思った記憶がある。正確にはどんなものを想像したのか知らないけれども。

で、あまり期待せずに見に行ったのだが、これが実に面白かった。

ラ・マンチャ地方で『ドン・キホーテ』をベースにしたCMを撮影中のトビー(アダム・ドライバー)が、その先の進行に悩んでいたところ、偶然、学生時代の卒業制作に撮った自身の『ドン・キホーテ』のDVDを見つける。そこで主人公のキホーテを演じた靴職人ハビエル(ジョナサン・プライス)を訪ねていったところ、彼は自身をドン・キホーテだと思い込み、姪(たぶん)に監禁されていた。ハビエルはトビーをサンチョ・パンサと認識し、いろいろとゴタゴタがあって、かくしてドン・キホーテの新たな旅が始まった。

つまり、原題を The Man Who Killed Don Quixote というこの映画は、外の枠組みはもちろん現代の映画監督が引きずり込まれるゴタゴタではあるのだが、彼が引きずり込まれるそのゴタゴタした世界は『ドン・キホーテ』後編の世界なのである。もちろん、風車のエピソードなどの前編のエピソードも取り込まれてはいるが、銀月の騎士は出てくるし、既に『ドン・キホーテ』前編を読んでいる公爵夫人に似た存在、木馬クラビレーニョの冒険などが主に使われている。そしてドン・キホーテは最後に正気に戻る。

つまり一種メタフィクション的な構造を持つ後編だからこそ、現代と過去、映画の世界と文学の世界を交錯させるのに適しているのだ。ドン・キホーテ主従が出会った「公爵夫人」(原作の公爵夫人に当たる人物)一行は、トビーを探していたスポンサーの情婦(ということだと思う。オルガ・キュリレンコだ)が、ロシアのウォトカ王アレクセイ(ジョルディ・モリャ)の城で開かれる聖週間の仮装パーティーに向か途中だったという具合だ。

そのせいか、だいぶ前半、アダム・ドライバーがバイクを駆ってカスティーリャの台地を疾走するロングショットは、数々のマカロニウエスタンやペドロ・アルモドバルの映画(たとえば『トーク・トゥ・ハー』)を思い出さないではいられない。

トビー役は当初、ジョニー・デップが予定されていたのだが、アダム・ドライバーでよかったんじゃないかな。


池袋に巨人=風車を見た。焼却炉の煙突だけど。光が面白い。

2020年2月2日日曜日

ウツウツと鬱小説を読む


ミシェル・ウエルベック『セロトニン』関口涼子訳(河出書房新社、2019)

こんな風に並べて、既にスピン(栞紐)をかけて最初に読むぞとの構えを見せていたのに、時間がかかったのは、時間をかけていたのではない。授業や〆切の原稿に追われて他を優先していたので半分くらいまで読んだところで中断していたのだ(結局、『シンコ・エスキーナス』の方を先に読んだ)。それで、今日、残りを読んだ次第。

ウエルベックにはどうしても社会の風潮を先取りしているという評価がつきまとうもので、今回もジレ・ジョーヌの先取りなどと言われたのだが、やはりその点はあまり強調する必要もないかなと思う。これは、言ってしまえば鬱小説だ。タイトルの「セロトニン」が、そもそも抗鬱剤キャプトリクスというものによって分泌が増加する物質の名なのだそうだ。

鬱小説というのだから、とうぜん、自殺の小説でもある。主人公=語り手フロラン=クロードの両親は、夫の病気が発覚し、ふたり一緒に自殺(心中)する。牛乳の値段についての政策に抗議する酪農集団で英雄のように振る舞った学生時代からの友人エムリックは武装蜂起の際に自殺する。抗鬱剤を飲む語り手は、しかし、突然、自殺ではなく、殺人に向かったりするのだが(これが大きな転換点。少しハラハラ)……

ウエルベック作品で重要な位置を占める性も、今回は鬱、もしくは抗鬱剤に起因する問題になってくる。副作用でほとんど不能となった語り手が恋人ユズを捨て、昔の恋人カミーユのことを思い出し、家出し、エムリックに会いに行くが、彼は妻に逃げられていた。話は一気にコンスタントにセックスする可能性を奪われた、少しばかり時代遅れな男たちふたりの物語の様相を呈してくる。ふたりは一緒に音楽を聴くのだが、一方でフロラン=クロードが武器を供与されるのもエムリックからである。

そんなに長い時期ではないけれども、抗鬱剤を飲んでいた僕としては、身につまされるというか、辛いことばかりなのだった。こんなに辛いのになぜ読んじゃうんだろう? 面白いんだな、きっと。