2020年2月19日水曜日

師の自伝に触れる


清水透『インディオの村通い40年 〈いのち〉みつめて』(岩波ブックレット、2020)

これはちょうど去年の今ごろ、『東京新聞』に連載されていた同名のコラムを加筆の上でまとめたものだ。僕は『東京新聞』を講読しているので読んでいたのだが、こうして一冊にまとめられると、切れ切れに読むよりも繋がりがわかりやすくなっていい。

メキシコ南部のマヤ系インディオの村に通い、その村の住民についてリカルド・ポサスが書いたエスノグラフィー『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそのフアンの息子ロレンソに自らが取材したエスノグラフィーとを併せて『コーラを聖なる水に変えた人々』を出版し、その後、そこから歴史記述の見直しに取りかかった『エル・チチョンの怒り』、ロレンソの孫の国境を越えての出稼ぎ旅を追った「砂漠を越えたマヤの旅」(『オルタナティヴの歴史学』所収)といった自分の仕事を仕上げるに当たってのフィールドワークの思い出と、そこで感じたこと、その間に自分の身の回りに起こったことなどを簡潔にまとめ、これからの展望でまとめている。

愛娘・真帆さんの病気のころは、僕は清水先生と一対一で授業を受けていて、その辛そうな日々を知っているだけに涙なしでは読めない。でも、彼女が亡くなった後、家族のそれぞれが抱く記憶のズレからマヤのインディオ社会に思いを馳せ、自身の研究の基盤はあくまでもこうした個人の思いと、それを支えるいのちであることを表明し、後半のこれからの展望に繋げる。読者としても清水先生のこれからが楽しみなのである。

ところで、少し話はずれるが、研究対象とのラポール形成の難しさを説いた前半で、「ではどのような道があり得るのか。/「限りなく寄り添う」というひと言が思い浮かぶ」(17ページ)と態度表明している。愚かな宰相が「寄り添う」の意味をすっかり変えてしまった現在、この語の本来の意味を取り戻さねばな、などと思うのだった。

買ってみた。

東レのトレビーノ浄水ポット。ずっとペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫に入れていたのだが、こまめに買い足すのがなんだか馬鹿らしくなり、評判のいいこのブツを。

こうして冷蔵庫に入れて、出かけるときにはそれを先日報告した水筒(※)に入れ替えて持っていく。水分補給はこれで安心だ。

※ ブログでは報告していないのだった。インスタグラムのこれ(リンク)。あるいは上の写真に写り込んでいるあの黒いもののことだ。